第37話 還りを待つ人
ラグナの街を一望できる高台に建てられたグランティ家本宅の庭から、ゼシルは椅子に座り、じっと海の方角を眺めていた。先日の嵐が嘘のような静かな海だった。
南天に上った太陽を反射しキラキラと輝く海を、帆を広げた船がゆっくりと進んでいく。空は海風に乗って海鳥が翼を広げ気持ち良さそうに飛んでいる。港の方も嵐で散らかったゴミは全て片付けられ、元の活気を取り戻していた。
「ずっと気になっていたんだが、どうしてゼシルはアイカと同じ姿をしているんだ?」
またゼシルを怒らせてしまわないよう言葉に気をつけながら、向かいの椅子に腰掛けてたギルバートが問いかける。
ディアーノとの会談・会食が終わろうとやらなければならない仕事は山ほど残っていた。
だが、仕事など手につきようがない。普段なら小言の1つ2つは言うグレンやセバスチャンも、すぐ後ろに控えて2人の様子を覗っているが、それについて何も言おうとはしなかった。
(アイカの行方も分からず、目の前には精霊の女王だ。仕事などやっていられるか)
ギルバートの問いかけにゼシルは興味なさそうに答えた。
「………これがアイカの身体だからよ」
「では、自分の身体はどうした?」
「アイカに貸しているわ。私の本体はあそこから動けない。少しの間だけ交換ね」
なんともないように言ったゼシルの一言に、ギルバートは片眉をぴくりとさせた。
(あそことはどこだ?)
アイカが自ら身体を交換することを了承したとは思えなかったが、そこにアイカがいるのだ。それに、動けないというのも気になる。理由は分からないが、ゼシルの言っていることが本当だとするならゼシルの身体に入っているアイカも今頃そこから動けないということになる。
助けにいけるものならいますぐにでも行きたい。だがゼシルさえも動けない場所を人間のギルバートが行ける場所なのか疑わしい。
考え込むギルバートに、ゼシルは手を持ち上げ、その手の中に真珠のネックレスがふっと現れる。
「じゃあ今度は私が聞く番ね。あなたの部屋にあったこれは?」
差し出されたそれをギルバートは受け取る。形が歪で1つと同じ形がないバロックの真珠を紐に通したネックレスは見覚えがあるものだった。
「これははアイカが真珠貝から作った真珠だ」
「アイカが……。どおりで水の力だけではなく、月の力も込められているわけね」
「月の力とは?」
「アイカは雲ひとつない満月の夜、清浄な月の光から生まれた月の女神よ。そんなことも知らなかったの?」
「あいにく女神や精霊の女王といった伝承の類は馴染みがなくてね」
「どうしてアイカがこんな人間に目をかけているのか不思議でならないわ。どうせ目覚めたばかりで何も知らないアイカを上手いこと言いくるめたのでしょうけれど。口上手い人間らしいわね」
「…………」
直球の皮肉にギルバートはこぶしを握りしめ、ぐっと堪える。カーラ・トラヴィスの者であればギルバートに面と向かってこんな非礼を言える者は1人もいないだろう。だが、相手は人間ではない、精霊の女王だ。気に食わなければ、人間など平気で殺すことを厭わない。
それに、あながちゼシルの指摘が外れていないだけに反論できない。
「なにとぞ冷静にお願いいたします、ギルバート様」
「分かっている……」
落ち着け、ギルバート・エル・グランディ。相手は人間ではなかろうと女性だ。それも身体はアイカのものだ。
深く深呼吸して自分に落ち着くように言い聞かす。そこへ、背後にセバスチャンが立ち
「ギルバート様、ディアーノ王子が玄関にお来しになっております」
聞いてすぐに「追い返せ」と言おうとして思いとどまる。そういうギルバート自身、昨日は事前連絡無しに押しかけてゼシルをこの本宅に連れ帰った貸しがある。門前払いはできなかった。ギルバートが玄関の広間に向かうと、
「ゼシルはどうしているかなと思いまして。それに私はまだプロポーズの返事をいただいていないんですよ」
昨日のギルバートの非礼は全くお首にも出さず、完璧な笑顔を浮かべたディアーノは貴族の見本だろう。この若さで他国との会談役に任されるはずだと心の中でギルバートは思う。 昨日のゼシルとギルバートのやりとりを見ていて怖気づかない胆力は大したものだ。だが側近も見ていたならなぜ来るのを止めなかったと、ギルバートは身勝手と分かっていてすぐ背後にいるザムールたち心の中で叱責した。
何より聞き捨てならないことをディアーノは言った。
(プロポーズ?アイカに?)
ついさっきゼシルに皮肉を言われた苛立ちが収まらぬうちに、今度はディアーノに正面から宣戦布告かと危うくギルバートの笑顔がはがれかける。
「プロポーズ?」
「ええ、昨日ゼシルにプロポーズした直後に将軍がいらっしゃって、返事を聞けず終いなのです」
「ああ、ゼシルの方か」
つい本音が漏れたギルバートに、背後にいたグレンから「ゴホン」と咳払いされた。しかし、ずっと庭から海を眺めていたゼシルが急に玄関の方へとやってきて、何もいわずに隣を通り外へ出て行こうとする。
「ゼシル、どこへ?」
訊ねてもゼシルは答えるどころか、ギルバートの方を見ようともしない。
「じゃあ俺も一緒に行こうかな」
ゼシルがいないのではここに用はないと言わんばかりに、さっさとゼシルの後をついていくディアーノに、
「セバスチャン……」
「ゼシル様の分も含めて、急ぎご用意致します」
ギルバートが全てを言う前に察したセバスチャンが急いで外用の上着を取りに向かう。元からいつギルバートたちが外出してもいいように準備はしてある。そこにゼシル用のコートが追加されただけだ。
「ゼシルはギルバート将軍のお相手の女性ではないのでしょう?でしたら、彼女をそう見張るように付いてこなくても」
「私も見張りたくて見張っているわけではないのですよ」
ゼシルが入っているのがアイカの身体でなければ。
セバスチャンから受け取ったフード付きのコートをギルバートはゼシルにかけようとしても拒まなかったが、顔を隠すためにフードを頭に被せようとしたのは軽く手で払われてしまう。
どこかへ行きたいのであれば馬車を出そうと言っても、ゼシルは道伝いに街の方へ歩いていく。当然、護衛の騎士たちを連れたギルバートと顔を隠そうともしないゼシル、そして同じく衛兵を引き連れたディアーノと道行く人々の注目を集めることになった。
こんな大勢で街を歩いて注目されないわけがない。しかし、あまりにも堂々と歩いているせいで、遠巻きに見ているだけで、絡んでこようとしたり声をかけようとする者がいないのだけは不幸中の幸いだった。
(完全に俺がアイカを連れてきていることが、街の者たちに知られたな。周辺の貴族にこの噂が届くのは時間の問題か)
周辺貴族たちからの先走った手紙や祝いの品々が届く光景が簡単に思い浮かぶ。中には直接会って直接お祝いをと考える貴族がいるかもしれないが、だからとゼシルは全く意に介することはないだろう。
(ゼシルは何がしたいんだ?特に何するでもなく街を歩いているだけで、これに何の意味が?)
精霊の考えることは人間には理解できない、考えるだけ無駄だとココに言われてしまっていても、ギルバートは考えずにはいられない。
かといってゼシルの行動を止めることは出来ないので、ギルバートは黙ってその後をついて行くことしか出来ない。
しばらく街を見て周ったあと船がとまっている港にくると、西へと陽が沈もうとしている海をゼシルは無言で眺めていた。
「ゼシル、何を見ているのです?それとも誰かを待っているのですか?」
ギルバートと同様にゼシルのあとをにこにこしながら後をついて来ていたディアーノが声をかけると、ぴくりとゼシルは反応した。
「なぜ待っていると?」
「海の遠くをずっと眺めている人は、大事な者が帰ってくるのを祈っているものです」
違いますか?と重ねて問うディアーノに、ゼシルは肯定も否定もしなかった。
つまり、ディアーノの指摘は外れてはいないのだ。
「……陸から海を眺めるのはじめてよ。海はこんな風に鳴っているのね」
「海の上にいると意外と波の音は聞こえないものだからね。陸に上がってようやく海の声が聞こえる」
「あなた、丘の上でも思ったけれど」
「あなたではなくディアーノだよ」
にこりと微笑みディアーノは訂正をいれる。
「……………」
精霊の女王であるゼシルの逆鱗に触れればどうなるか、丘の上の別宅でギルバートとゼシルのやりとりを見ていたディアーノが知らないわけがない。いくらイエニから連れて来た衛兵たちがディアーノを守っていても、水と氷を操るゼシルには敵わない。一瞬で殺されるだろう。
なのに、知っていてディアーノはゼシルに臆することなく話しかける。
(よく似ているわ。海の精霊たちに好かれているところだけじゃなく。あの人もよく海の上もいいけれど、陸から聞こえる海の声も好きだと話してくれた。それが海辺に住む者たちにとって子守唄なのだとも)
あの頃は、あの人が何を言っているのか分からなかった。
海は嵐で波が高くなければとても静かなのに。それに昼間歩いた街も。今はあの人が住んでいた頃と街はだいぶ変ってしまったのだろうけれど、こうしてアイカの身体を借りて陸に上がって、初めて海の声をゼシルは聞くことができた。
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