【5】アンカーおろしてくれっ!

 突然のコバンザメの浮上にも、カイは冷静だった。

 鼓動こそ激しさを増しながら、まるで潮が引くように頭はクリアになっていく。

 浮上したコバンザメは一匹だけだと即座に把握していたし、右手に握りしめていたマンタをすぐに構えて、それが正常に動作することも確認していた。もっともそれは、銃口を向ければトリガーがロックされる、という結果を意味するが。


「ジェリー、この黒いの、映像だけで解析できるか?」

 

 ジェリーの協力だって忘れていない。

 むしろ離れていたバーナクたちの方が、カモメみたいにギャアギャアと騒ぎだしていたくらいだ。


「やってみる。……カイも気をつけてね。不用意に近づいちゃダメだよ」


 耳には届いていたジェリーの忠告も、カイは無視することにして左手を伸ばす。ぴったりと中指の先がコバンザメの表皮に触れた。弾力があって、温かい。予想していた機械的な冷たさとは正反対の感触だった。


「ちょっと、カイ。慎重に、って僕は言ったつもりなんだけど」


 聞く耳などまったく持たず、カイはペタペタと黒い表皮をなで回す。

 黒い塊は浮上したきり身動きひとつしない。爆発でどこか傷ついて浮いてきたのか、と最初は思っていたが、特にそういうあともなかった。

 さらに近づいてぐっと耳を押し当ててみる。聞こえるのは……無音。カイ自身の鼓動が響いてどうしようもなく邪魔だった。


 クジラもあるいは似たような身体をしているのだろうか。あんな巨体が空を飛ぶのだからきっと中身はスッカスカなんだろう、などとカイは考えたりしたものだ。

 だけど、いま触れている感触はもっと肉厚で、重量感があって、海面に浮かんでいることさえ不思議なくらい――


「ルナパティト」


 不意に澄んだ声が響き渡った。

 カイはとっさにコバンザメを足蹴にして距離をとる。そしてはっと息を飲んだ。


 少女だ。


 いつの間にそこにいたのか。彼女のすぐ頭上、黒い塊の上にひとりの少女が立っていて、じっとカイを見おろしている。

 そのシルエットは全てが白。細い手足は腰や肩まで輪郭がはっきりと見てとれた。服は着ているのだろうか。素肌との境目はどこまでも曖昧あいまいで。その肩へは緩やかに銀髪が伸びて、小さな顔、薄く開かれた両目にはダイヤモンドグレーの瞳。左耳には星をかたどった髪飾りも見えた。


「天使……」


 我を忘れたようにつぶやいたのはジェリー。

 それも無理もない。朝の光を真正面から浴びて海に負けじと輝きを放つその全身は、あるいは氷の結晶か。この常夏の海ではまさに別世界の存在が降り立ったかのようだった。

 カイだって一瞬、クジラが人の形になって降りてきたんじゃないか、とさえ疑ったほど。


 ……いや、クジラはまだ空にあるな。


 チラリと上目でその存在を確かめたカイに向けて、


「ルナパティト。ティ、トルシェニ、エファクイロファッツァ」


 白銀の少女がまた何事か口にした。

 あまりにも透明なそよ風のような声。あの優しいジェリーの声すら濁って聞こえてしまうほどに。

 でもそれは、可憐な容姿にぴったりだな、という印象をカイに与えただけで、それ以上の意味は何ひとつ残すことはできなかった。


「ジェリー、あの子はなんて?」


「あ、と、ごめん。僕にも……」


 理解のできない言葉。ふたりには初めての経験だった。

 ティムが時折持ち出すような難しい単語とかそういうレベルではなく、まるで意味がわからない。

 だけどどうしたらいいのかを考える間もなく、 


「マイツミトミヤウ、ハイビス……」


 少女がまた言葉をつむぎ出そうとして、


 ドサリ――


 崩れ落ちた。コバンザメの上で。糸が切れたように銀の髪が力なく舞う。


 だ。


 カイはすぐにピンときた。

 肌を風にさらした状態で突然意識を失う。それは潮風病の典型的な症状だった。

 そしてそれを合図としたかのように、黒い壁、コバンザメが海の中に沈み始める。まだ少女を上に乗せたままだというのに。


「おい、おいおい待て待て、冗談だろ」


「カイ、どうしたぁ! なにが起きてる! コバンザメの上にいたのは何だ!」


 ゴーグルからバーナクのしゃがれ声が響く。


「わかんねぇ! 女の子が出てきて、沈んでく!」


「はぁ!? どういうことだ!?」


 どういうこともこういうことも、こっちが知りたい。が、言い返している暇はなかった。

 海はコバンザメを完全に飲み込んで、白銀の少女も海の藻屑もくず目前という有り様だ。

 うねりをかき分けてカイは必死に進んだ。巻き起こる渦の真ん中へ。残った右のマンタも打ち捨てて懸命に手を伸ばす。


 助けなきゃ。

 この子が唯一の手掛かりかもしれない。

 届け。

 届け。

 届けええええええええ!


 だけど海は非情で意地悪で、それが本来の姿だった。伸ばした右手を押し退けて、あざ笑うかのようにその少女をも飲み込んでいく。


「くそっ!」


「おい、カイ、何が起きてる。説明しろ」


 水面を叩いたカイ。バーナクが急かす言葉もどこまで耳に届いていただろう。

 けれど顔をあげたカイの目には、向かってくるバーナクのひげづらがはっきりと見えていた。後ろにはイスタ、ハギ、ロブの三人も。ここに着くまでもう三十秒とかからないだろう。

 それでカイの心は決まった。


「助けなきゃ、オヤジ、アンカーおろしてくれっ!」


「カイっ! 待て、お前、何するつもり――」


 制止の声も聞かず、カイは肺の奥底まで一気に空気を吸い込んで、ジャケットのジップを解き放つ。重力を感じたのはほんの一瞬、


 ザブン――


 ひとたび潜れば、音が一気になくなった。


「カイ!? 海の中に!? ダメだ、やめ……危険すぎ……」


 ザザ、と雑音を残して、ジェリーの声もすぐに途切れてしまう。だけどその方が都合がよかった。これでひとつのことに集中できるから。


 すぐにカイはゴーグルの視界で目当ての姿を探した。

 いた。真下だ。微動だにしない。青魚の大群が逃げ惑う真ん中を割って、少女の白い身体が沈んでいく。どこまでも暗い海の底の暗黒へ。


 ぞくり、とカイの背筋に冷たいものが走った。

 これまでも仲間が潮風病で倒れるさまをカイは何度か見ている。海の上で発症しようものなら終わりだ。海に落ちて再び帰ってくることはない。

 犠牲者が毎年のように発生するせいで、死者が海底で招き寄せているんだ、などとまことしやかに言われるほどだ。


 バカバカしい。


 軽く頭を振ってカイは嫌な考えを打ち消した。

 身体を包む水はどこか冷たくて、だから頭はちゃんと冷えている。だから自分は冷静なはずだし、こうするべきなんだ。

 そんな自己肯定が代わりに繰り返される。それに、できる、と思ったのだ。バーナク達がいるのなら。


 カイは耳抜きを繰り返し、柔らかな動きで下へ下へと降りていく。

 白い身体が少しずつ大きくなってくる。


 大丈夫だ。間に合う。間に合う……。


 潜り始めて何秒だろう。六十秒、いや、もっとだろうか。カイはようやく少女の細い腕をつかむことができた。

 間近で気づいたのは、少女の身体はカイよりもずっと小さいということ。

 もっと観察すれば他にも色々わかったかもしれない。が、今は戻ることが先だ。


 だけど水面を見上げたとき、カイはそれが思ったより遠くにあることに気づいた。

 辺りはすでに薄暗い。巨大な質量のど真ん中に少女がふたり、あまりにも心細い。とたんに肺がぎゅうと締め付けられて、空気を全部吐いてしまいそうな気がした。


 カイは少女を抱きかかえながら脚を交互にゆらめかせ、必死に水を掻き分けていく。それでも思うように浮かんでいかない。むしろ海面は遠ざかっているんじゃないかと思うほど。息もそろそろ限界だ。胸の奥がキリキリと痛んで、視界は狭まるばかり。涙まで滲んでくる。


 正直に言って、カイは少し後悔していた。

 一度打ち消した妄想が再び否応なく膨らんでくる。海の奥底から巨大なガイコツが現れて、大きく口を開けてふたりを飲み込むのだ。実際、ほら、ガイコツ頭がカイの目の前に現れている。口を開け、ピィィン……と、甲高い音を発し……いや待て、この音は――


 アンカーだ。


 気づいたカイは最後の力を振り絞り、意識を取り戻す。ガイコツにも見えたそれはホバーバイクから降りてくるはがねの球体。ジェリーは白銀の少女を天使だと言ったがとんでもない。この無機質な塊こそ、いまカイにとっての天使だった。

 肺から何かが逆流しそうな苦しみをこらえ、カイは何とかその塊にしがみつき、


 ガンッ、ガンッ!


 と強く二回引く。巻き上げろ、のサインだ。


 すぐさま身体を引きちぎらんばかりの水圧がカイを襲った。カイはぎゅうと力を込める。何があってもこの両手は離さない、と。二人の少女の命は、その両手にかかっているのだから。


 と、そのときだ。カイの目がとらえたのは少女の耳で光る髪飾り。星の形をしたそれが、水圧に負けてひらりとはがれ落ち、海の暗黒へと吸い込まれていった。

 けれど構う余裕などあるわけがない。水中の流星に、せめてこのまま無事に戻れるよう願うばかりだった。


「ぶはぁ!!」


 次の瞬間、そう叫んだことだけは覚えている。水面に、新鮮な空気のもとに戻れたのだ。

 けれどあまりに意識が朦朧もうろうとして、そこからしばらくの記憶がない。

 カイがはっきりと把握できているのは、


「おう、カイ、気づいたか」


 そんな言葉をバーナクに投げかけられてから後になる。


 ぼやけた頭であたりを見渡すと、カイ自身は膨らんだジャケットに身を包んで、プカプカと海に浮かんでいた。

 首の裏あたりからワイヤーが伸びて、ホバーバイクのお尻に係留されている。そのシートにバーナクは座って、こちらを振り向いていた。ひげ面の笑顔がかすかに滲んで揺れる。

 意識を振り絞るように、カイはきいた。


「女の子……は? 真っ白な……」


「安心しろ。先にイスタたちに運んでもらってる。もう水は吐かせた。命に別状はないだろう」


 それを聞いて、カイはようやく深いため息をついた。

 ホバーバイクはゆっくりと進んでいるのだろう。緩やかな水の流れを見つめて、その先の空に、クジラが今も浮かんでいた。四年前はすぐに去ったはずなのに、今回は随分と長く居座っているものだ。


「お手柄だな、カイ。ジェリーから聞いたぜ、あのガキンチョ、コバンザメから出てきたんだってな」


「そう……聞きたいことがたくさん……なぁオヤジ、もっと飛ばせないのか。オレもシートに乗せてくれよ」


「ダメだ。そんな状態で乗せられるか。それにお前、とっくに域外活動上限アクティビティ・リミットオーバーしてんだろ。また沈んだらもう戻ってこれねぇぞ。で我慢しろ」


「うへぇ……」


 カイがのけ反った遠く先、バーナクの肩越しにハイビスカスの天空塔スカイタワーがそびえ立つのが見えた。


 あそこまでひとっ飛びできれば楽なのに。


 期待、疲労、安堵……いろんなものがカイの中でないまぜになって、結局カイはいつものセリフを吐くのだった。


「はぁ……飛んでいきたいよ、ベイベー」

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