第2章 人が空飛んじゃいけないのかよ

【6】クジラのこと、なんかわかった?

 人間は卵から生まれてくる。

 というのが間違いなのは少し考えればわかることだ。卵から生まれるのは周囲を泳ぐ魚たちであって、人間は違う。


 しかしハイビスカスで暮らしていれば、みな同じような勘違いをするかもしれない。

 実際カイも十歳になるまでそう思い込んでいた。正しい答えはそれまで何度か聞いていたはずなのに。


 勘違いの原因は主に寝床のせいだろう。

 たとえば、天空塔スカイタワーを取り囲む五枚の花びらのひとつ、居住エリアの真ん中あたりにカイの部屋はある。窓のない部屋は下から半分が水に沈んで、まるで沈没間際の船室だ。

 配線だらけの壁には、卵型の大きなクリアプラスチック容器がめり込むように置かれている。ただでさえ居場所の少ない空気をさらに押しやって何食わぬ顔で居座る卵。それがカイのベッドだった。


「……」


 そして今、カイはその卵の中で目を覚ました。内部は透明な液体で満ちていて、それを白身とするならカイは黄身だ。

 ウェットスーツ姿は海上のときとほぼ同じ。ただし頭部が違う。口を覆うマスク状の装置に空気チューブが繋がって、おかげでカイは溺れずに済んでいる。

 おもむろに頭上のスイッチをさぐると、殻の前方がパカリと開いた。排水され、水位が胸元まで下がる仕組みだ。流れ出る液体が部屋の水と混ざり合って、扇状に波紋を広げていく。


「くぁああ……」


 マスクを外して、軽くひと伸び。

 部屋は狭い。広げた手は入り口のビニールカーテンに届いてしまいそうなほどだ。

 けれどカイは気にする様子もなく壁にかけてあったジャケットとゴーグルを手早く装着し、


「お目覚めデスね、カイ」


「よお、ティム」


 いつも通りティムと言葉を交わす。

 壁のデジタルモニターを確認すると、時刻は十六時過ぎ。「寝すぎた」とつぶやいてカイは頭を掻いた。コバンザメとやりあってから、とうに八時間は経過している。


「もうちょっと早く起こしてくれてもいいだろ」


 恨めしそうな言葉に、


「カイには休息が必要でシタ。域外活動上限アクティビティ・リミットを超過した場合、八時間以上の休息が推奨されていマス」


 相変わらず淡々とティムは応じる。


「それはそうなんだけどさ……。で、あの女の子はどうなった? 真っ白な」


「救護室に運ばれまシタ。今も安静にしていマス」


 それを聞いてカイはほっと息をついた。


 なら行かなきゃ。ききたいことが色々ある。


「ボードの充電、終わってる?」


「七十%マデ」

 

「ま、それだけあればいいか」


 救護室。同じく居住エリアにあるが、カイの部屋からは少し遠い。植物の脈を思わせる縦横無尽の水路を抜けて、さらには真ん中を貫く大水路を渡った先だ。

 行くにはボードが欠かせない。スクリューボード、ビート板の裏にスクリューを取り付けたような簡単な装置ではあるが、水に半分沈んだこの都市での移動を十分に助けてくれる代物だ。


 その子、意識は戻った?

 怪我はない?

 何かしゃべった?


 道すがらカイは質問を並べ立てていく。こういうとき、ティムは「ハイ」か「イエ」のシンプルな答えしか返さないから、どこか推理ゲームみたいになってしまう。

 ただ結局、カイが眠っていた八時間では、あの少女のことは何もわかっていないらしい。

 それもそうか、とカイは思った。


 ルナパティト――


 海の上で少女から投げかけられた言葉がカイの中で呼び起こされる。知らない言葉だった。

 白銀の少女はあのまま救護室に運び込まれて、今もまだ受け答えができる状態じゃないそうだ。が、仮に言葉が話せたとしても、聞きたいことが聞き出せるかどうか。

 ティムだったら言葉の意味を教えてくれるのかもしれないが、


「ティム、クジラのこと、なんかわかった?」


「ハイ、クジラは海に生息する大型の哺乳類ほにゅうるいデス。約五千年前まで生存が確認されていマシたが、以降は目撃例がありまセン。絶滅したものとみなされて――」


「いや、そーじゃなくてさ……」

 

 どこかずれたティムの答えに、カイはため息をついて、


「ほら、空を飛んでるあの白いかたまりのこと」


「……クラスエラー発生。処理を継続できまセン」


 これだ。クラスエラー。クジラの正体を探ろうとすると、必ずこれにぶち当たる。


 本来なら空飛ぶクジラが何なのかはティムが教えてくれたっていい。

 魚は卵から生まれてくる。

 地球は丸くて、海の向こうには広大な大地が広がっている。

 月の満ち欠けが起こるのは月が地球の周りを回っているからで、その地球だってくるくると自転を続けている。一回あたり二十九時間五十二分のペースをもって。

 そんな幾つものことわりと同じように、教えてくれてもいいはずなのだ。


 だけどクジラのことになるとティムは毎回クラスエラーだ。徹底している。まるでその部分のデータがすべて壊れてしまったかのよう。

 当然のように、クジラが飛来しても教えてくれないから、カイたちは自分の目で見張る必要がある。四年に一度、めったに来ないその機会を。


「やっぱ本人にきくしかないかー」


 カイは思わず天井を仰いだ。

 ティムの翻訳はすべてクラスエラーになってしまうかもしれない。そんな予感を胸に抱きながら。

 ため息さえ届きそうな高さの天井は、今日はどこか暗い。いつもならカビを防ぐ目的でイオン照明が目一杯ともされているはずなのに、いま点いているのは半分もないくらいだ。


「カイに伝言が届いていマス」


 ティムが質問の切れ目を待っていた。


「誰から?」


「マムからデス。起きたら部屋にくるように、と」


「げ」


 カイの顔があからさまにかげった。呼び出しの理由に心当たりがありすぎる。今朝の騒動で、ぱっと思いつくだけで三つ。今度は大目玉どころじゃ済まないかもしれない。


「どうしマスか?」


 暗に、行ったほうがいい、というティムの勧め。

 確かにすっぽかしたら大目玉の理由がもうひとつ増えることになる。だけどカイには、その三つが四つになろうと大した違いではないようにも思えた。


「ま、そのうちね」


 と適当なことを言って、進路を維持することにする。


 すると目の前が突然に開けた。

 大水路だ。真っ平らな水面。反対側まで百メートルはあるだろう。アーチ状の天井が緩やかに伸びて、居住エリアの中でここだけは空間的な広がりを感じられる。


「ん?」


 だけどカイの頭に浮かんだのは、いつもの解放感ではなく、違和感だった。

 ほどなくしてその理由に思い至る。やはり明かりが少ない。そしていつもなら天井や水面で見かける円形の清掃ポッドが、今は一体もいないのだ。


「あ、カイねーちゃんだ」


 首をかしげるカイの姿を、近くのチビっこたちが目ざとく見つけて声を上げた。

 みなパンパンにジャケットを膨らませ、ボール遊びでもしていたようだ。それはいつものハイビスカスの光景で、カイの口からも思わず白い歯がのぞく。


「よぉ、ガキども、元気にしてるか」


 ボードを止めると、まだ褐色になる前の肌がぞろぞろと寄ってきた。大人がトドの群れなら、この子らはアザラシの群れといったところか。


「うん!」

「げんきげんき!」

「ね、カイねーちゃん! また外に行ってたんでしょ!」

「クジラがでたんだよね?」

「どうだったの?」


 早速質問が止まらない。早くも今朝のクジラ狩りの話が伝わっているようだ。


「おう、すげーでかかったぞ」

 

「ほんとに?」


「ああ、このハイビスカスと同じくらいはあったかもな」


 聞いたちびっこたちはキラキラと瞳を輝かせた。年齢制限のせいで外に出られないぶん、外への関心はなおさらのようだ。


「あの白いおねーちゃんはクジラから来たの?」


 そのうちのひとりが、そんなことをきいた。


「見たのか? 白い女の子」


「うん、救護室で」

「入口から見たけど、すごいキレイだった」

「ボクも見た」

「まっ白だったよね」

「うん、キラキラしてた」


 どうやらカイは相当出遅れた部類に入るらしい。


「あー、わりぃ、もう行かなきゃ」


 こうしちゃいられないと、再びボードのスクリューを回し始めたとき、


「あ、カイねーちゃん、ボード使っちゃダメだって」


「ダメ? なんで?」


「マムが言ってた」


 との指摘。

 何かを言い返そうとしたけれど、迷ってるうちにチビっこたちとの距離は開いてしまって、


「潮風病に気をつけろよー」


 とりあえずそう言って、カイは手を振った。

 チビっこたちも手を振り返していた。みな一様に困った顔をしながら、イソギンチャクのようにゆらゆらと。


 その姿が十分に小さくなってから、


「ティム、時計見せて」


 カイは言った。


「時刻じゃなくて、サステナ……ナントカのほう」


都市機能維持期限サステナビリティ・リミットデスか?」


「そう、それ」


 もうそれしか原因は考えられなかった。

 というより、もっと早くに確認しておくべきだった。クジラが来たからには、これを奪っていくのだから。


「了解デス」


 ティムは応えた。

 何も変わらない、いつもとまったく同じ調子で。

 しかし、


「おいティム、これ、間違いじゃないのか……」


 そう言ったきりカイは絶句した。

 確か、クジラが来る前はあと七十六年かそこらは残っていたはず。

 それがゴーグルに映し出された数字はこうだ。


『2.97』


 激減だ。生半可な減りじゃない。

 だけど、カイが驚いているのは数字の減りだけじゃなかった。単位が前と違っている。


「イエ、間違いではありまセン」


 どこまでも淡々と、ティムが応えた。


都市機能維持期限サステナビリティ・リミットは、残り約デス」

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