【4】空って、やっぱ遠いんだな

 少しの間、海は静けさを取り戻していた。

 水面でカイはゆっくりと息を吐く。周りには何もない。風も、波も。

 空にはちぎれ雲が浮かんで、あれだけ近くに感じたはずのクジラが今は随分と遠い。


 耳元ではジェリーが必死に彼女の名を呼び続けていた。

 悪い、とは思いながら、どうしてもカイはそれに応える気になれなかった。


 むしろカイの心に届いたのは海の音。さざなみがちゃぷちゃぷと、ほほに語りかけてくる。それはどこか慰めてくれるかのようですらあった。

 海がこんなにも優しいことなんてこれまであっただろうか。

 カイが珍しくセンチメンタルにひたるのも無理はない。ゴーグルの端からさらりと流れたものが涙か汗か、カイは自分でもよくわからなかった。


「脈拍、分間百十二、呼吸も安定。ジェリー、心配いりまセン。カイは無事デス」


 そんな気持ちも知らないで、無遠慮な機械音声が水をさす。


「あぁもう!」


 我慢できない、とばかりにカイは叫んだ。


「ティム! 少しはそっとしてくれたっていいじゃねぇか!」


「カイ……」


 ジェリーの声がいたわるようにカイの鼓膜を揺らした。

 彼は知っているから。カイの夢を。

 やれやれと首を振り、カイもいつもの自分に戻っていく。


「悪い。ヒーローにはなれなかったみたいだ」


「いいんだ。カイが無事なら。でも無茶するよね。さっきもあんな……ジャケットがちゃんと膨らまなかったら大変なことに――」


「いやぁ、アドリブにしてはいい手だと思ったんだけどなぁ」


 そう言ってカイは空を見上げた。

 ジェリーの小言を聞き流しながら、静かに思いをはせる。十年前、カイが六歳になったばかり。早朝の番を命じられた、最初の夜明け前のことだ。


「カイ、知ってる? 昔、僕ら人間は空を飛べたんだよ」


 そのときのジェリーの言葉がカイのすべてを運命づけたと言っていい。


 それまでのカイは、半径千メートルに広がるハイビスカスの花、分厚いポリマー化合物の壁に囲まれた内側が世界の全てだった。

 だとしても特に不自由を感じていたわけじゃない。ハイビスカスの住人はみな優しかったし、食べ物に困ったこともない。

 海水で満たされた居住エリアでの生活も、六歳までは屋外に出てはいけないという決まり事も、それまでは疑問にさえ思っていなかった。

 むしろ外なんて、強い紫外線とで、危険なところだとばかり教えられてきたから。


 だから初めて天空塔スカイタワーの頂上へ向かうとき、直前のエレベーターでもまだ、カイはすこぶる嫌がってジェリーを困らせたものだ。

 見張り番なんて退屈なだけ。そんな聞きかじった言葉を盾にして。


 不機嫌なカイをなだめるのは、その頃からもうジェリーの役目だった。だけど頂上に着いた途端、その必要はあっさりと消し飛んだ。

 ふたりを出迎えたのは、カイの顔がすっぽり収まる大きな三日月と、両手を広げても抱えきれない満点の星空、そして月光にきらめく広い広い大海原だった。


「すっ……ご……」


 カイをとりこにするには、その一瞬で十分すぎるほどだった。今まで生きてきたハイビスカスという世界が、実はもっと大きなもののほんの一部でしかないことを知って、それはほとんど生まれ変わるような感覚ですらあったから。


「ねぇジェリー、あの光のつぶつぶ! すっごい遠いね! 手がぜんぜん届かない!」


「あれが星だよ。この空を越えて、ずっとずっと遠くにあるのさ。僕らの誰もがさわれないほどにね」


 聞いたカイの瞳まで、負けないくらいにきらめいて、


「クジラだったら……」


「ん?」


「クジラなら届くのかな? この空を泳いでるんだよね?」


「そうかもね。クジラなら……。でも僕らにだって、いつかできるかもしれない」


「ほんとっ?」


「ああ。クジラだけじゃない。カイ、知ってる? 昔、僕ら人間は空を飛べたんだよ」


 その言葉を聞いてカイは目を白黒させた。

 人が空を飛ぶ。カイがそんなことを聞いたのは正真正銘これが初めてだったし、本当にできるとも思えなかった。


「うそだぁ。誰が言ったの、そんなこと」


「ずっと昔から、そういう話が残ってるんだ」


「でもティムはそんなこと言ってないよ。ねぇティム、人は空を飛べたの?」


「いいえ、人間は飛行能力を有していまセン。今も昔も、人類が誕生してからずっと同じデス」


「ほら!」


 ふたりのゴーグルから発せられる機械音声。まだ六歳だったカイは、そのティムの言い回しはところどころ理解できていなかったけれど、構わずエヘンと胸を張った。

 だけどジェリーは、


「確かにね。自力じゃダメだったかもしれない。だけど、昔には飛行機があったらしいんだ」


「ひこーき?」


「ああ。人を乗せて空を飛ぶ魔法の道具さ」


「ほんとに? 今もあるの?」


「わからない。ティムの記録にも残ってないからね。でも、オヤジやマムはそういう話を聞いたって。僕らのおじいさん、おばあさんから。そしてその上の世代から。代々伝わってるんだよ」


「うーん、ほんとかなぁ」


「まったく根拠がないわけじゃないよ。ティム、あの曲かけてよ」


 ジェリーが言うや否や、軽やかなアコースティックギターの旋律が流れてきた。古い古いカントリーチューン。海の向こうを想い続ける恋の歌。

 メロディーに乗せてジェリーは歌い上げる。柔らかくて、水のように澄んだ歌声。


  君を想って 今日も歌っているよ

  大事に作ったこの曲を

  君は今 どうしているんだい

  ああ あの青い翼に乗って

  飛んでいきたいよ ベイベー


 カイはずっと夜空を見上げながら聞き入っていた。確かに空を飛んでいけそうな、不思議な浮遊感を胸に抱きながら。

 はたしてそれは歌の力か、それともジェリーの想いの強さか、あるいはその両方か。

 

「これはね、『あの青い翼にのってOn The Blue Wing』ていう大昔の歌さ。『青い翼』って歌詞にもでてくるだろう。それが飛行機のことを指してるんじゃないかって言われてる」


 根拠というには無理がある。ほとんどこじつけと言っていい。

 だけどカイはそのとき、信じてみてもいいかな、と思ったのだ。だってこの空を本当に飛ぶことができたなら、それはとても素敵なことに違いないから。

 そしてそれを最初に実現するのは自分だ、なんて自信がわけもなく身体から湧き出ていた。思わず叫びだしそうになっていたほどに。


「ねぇジェリー、空を飛んでいけたら、そこには何があるの」


「まだ見たこともないものが、数えきれないほどあるよ、きっと。海の端からは大地が広がって、そこではもう海の底に怯えなくていいんだ。綺麗なところだろうね。花が咲いて、木々がしげって、山々がそびえて。しかもそれには色んな顔がある。晴れの日もあれば、曇り、雨、雪の日だって」


「そうか。外には天気があるんだよね」


「そう。晴れの日は、今みたいに空の上の上まで見えるのさ。するとね、やがて太陽が昇って、空はまったく違う色になるんだよ。ほら、空が白んできただろう。太陽だ。夜が明けるよ」


 次に迎えた光景が、カイにとって本当の意味での夜明けになった。

 世界が輝きだしたときの海と空の美しさを、カイは生涯忘れないだろう。


 それから十年、カイの空への想いは少しも薄れていない。むしろ年を追うごとに激しく燃え盛るほどだ。

 だけどカイが空に近づいたかというと、決してそうではなかった。変わったことがあるとすれば、カイは逞しく成長して、言葉遣いも少しになった。言ってしまえばそれくらいだ。

 空にを飛ぶ方法も、飛行機がなんたるかも、その欠片すらつかめないままで。


 だからカイはこの機会にかけていたのだ。クジラに届けば、いや、せめてコバンザメに触れられれば、空に至る何かが得られると信じて。

 だけど今はそれも叶わぬ夢となり、


「……なぁジェリー」


「ん、なんだい?」


「空って、やっぱ遠いんだな」


 その言葉でジェリーはすっかり押し黙ってしまった。

 カイと同じく、昔を思い起こしているのかもしれない。


「おい、カイ! コバンザメはどうなったぁ?」


 と、そのとき、馴染みのしゃがれ声が通信に割り込んできた。

 振り返ると、遠くに水しぶきを上げた機影が四つ、こちらに迫っている。


 いまさら……。


 そう口にしかけて、カイはため息をついた。

 少なくとも帰りは彼らの助けが必要なのだ。


「オヤジぃ、だめだったわ。早く迎えに来てくれ」


「なにぃ? 辺りにはもういないのか?」


 カイは改めて周囲を見渡してみた。

 先ほどの戦いが嘘のよう。ホバーバイクの残骸もすべて海の底に沈んでしまったらしい。


「いや――」


 いないぜ、と振り向きざまに返事しかけて、カイは気づいた。ゴーグルの視界、その下端が微かに赤く点滅している。ティムが何かを捉えていた。

 一瞬にしてカイの顔つきに鋭さが戻る。すぐさま肺いっぱいに空気を吸い込んで、近づいてくる四つの機影に届けとばかり、大声を張り上げていた。


「オヤジぃ! 気ぃつけろ! 下から何か来るっ!」


 同時に、ざばぁ、と盛大に海面が割れた。大陸のごとき黒い影が、叫び声を遮るようにカイの目の前に現れたのだ。

 見間違うはずがない。つい先ほどやりあったばかりのコバンザメがひとつ、カイの目と鼻の先にいる。


 ドクン――


 心臓が再び高鳴るのをカイは感じていた。

 それは決して未知に対する恐怖でも焦りでもない。


 まだ夢の続きが見られる。


 その高ぶりを抑えられず、激しいうねりに揺られながら、カイは不敵な笑みを浮かべるのだった。

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