【3】四年も待たせやがって
まっさらなコバルトブルーの海面を、白いホバーバイクが切り裂いていく。
まるでトビウオだ。カイがまたがるボディフレームの曲線は魚の背の滑らかさ。後ろのタービンが尾びれとなって、できたうねりが延々と道を残していく。
そう、今まさに彼女は道を切り開いているのだ。
クジラに立ち向かう。これまでハイビスカスの誰にもできなかったことだ。
それでもまだ遅い、もっと早くてもよかった、とカイは不敵に笑う。
「……ったく、四年も待たせやがって」
ゴーグルをかけたまま、カイは空を見上げた。
まだ陽も昇りきっていない朝焼けを背に、クジラの輪郭が徐々に明らかになってくる。もうズームすら必要ない。腹を真珠のように輝かせて、白い流線型がこぶし大にまで広がっていた。
「オヤジ、クジラが降りてきてる。そっちはどうだ?」
呼びかけに返答はない。
通信の向こうではまだホバーバイクの調整に手間取る声が激しく飛び交っている。
「……なんだよ。間に合わねぇぞ、そんなんじゃ」
立ち向かうのは自分ひとりになるかもしれない。
クジラの姿が大きくなるほどに、カイの鼓動は激しくなっていく。
おいおい、びびってんなよ。
これまでずっと、ずっとずっと、この時を待ち続けてきたんだろ。
だから、やってやるんだ。
ゴーグル裏に作った笑みは、それでもまだぎこちない。
と、その時だった。
「カイ、聞こえるか。僕だ。ジェリーだ。ハイビスカスからは僕が指示を出す。ゴーグルの視界もこっちで見てるよ」
カイの耳に馴染みの声が届いた。
「ジェリー、おせぇよ」
悪態にも少しばかりの安堵が混じる。
「悪い。まだみんなバタついてるんだ。無茶な起こされ方で身体が悲鳴をあげてる」
「はっ、それには同情するよ。ほかの連中は追ってきてるか?」
「オヤジがもうすぐ発進する。あとはハギ、イスタ、ロブあたりが早そうだ。あ、カイ、少し進路を右に。クジラの進路を考慮したコースだ。ゴーグルにガイドを出すよ」
言い終わらないうちに、カイの視界、海面上に黄色い線が現れた。
それをなぞるようにカイはハンドルで進路を調整していく。
「助かる。慣れたもんだな」
「だてにティムの相手ばかりしてないさ。今日はしっかりカイをヒーローにしないとね」
緊張を感じさせない声の裏で、カタカタと何かを叩く音と、時折軽妙な電子音が混ざりこむ。
どんな操作かは全く想像もつかないが、ジェリーがサポートにつく、それだけでカイには十分心強かった。
実際、ティムとのやりとりにおいてジェリーの右に出る者などいない。
四年前、クジラの姿を映像に収めたのはほんの序章。来る日も来る日も昼夜問わずティムと向き合う毎日で、彼の技術力――つまりティムを使役する技量――は飛躍的に向上していた。
今だって、クジラの位置をゴーグルの映像処理に組み込む離れ技をやってのけて、呼吸はどこまでも涼しげだ。
さあ、進路は決まった。
カイが力強くスロットルを握りこむ。時速六十キロ、ホバーバイク最高速の風圧でカイの表情がぐにゃりとゆがむ。
いや、まだ速く。もっと速く。空気抵抗を減らそうと、カイは限界まで身体をかがめていく。
やがてゴーグル越しに広大な赤い円が見えてきた。海面上にピタリと描画されている。
「カイ、海面を赤くしてみた。そこがちょうどクジラの真下だ」
「オーケーだ。間に合ったぜ」
ホバーバイクの速度を落とし、カイは円の外周ぎりぎりに位置を取った。
「カイ、君は今ひとりだ。くれぐれも無茶しないように。危ないと思ったら――」
「はいはい、わかってるよ。無茶はしない」
そんなおざなりな返事に、ジェリーの口からため息が漏れる。
自分の忠告にどれだけ意味があったのか、これまでの経験から察したに違いない。
一方でカイはやるべきことを着々と進めていく。
首元で二本の紐がぶら下がるジャケット、そのジップを胸の上まで締め直し、命じるのは、
「ティム、
それでホバーバイクのボディ、その両側面がハマグリのように開かれた。
顔を見せたのは黒い銃のグリップがふたつ。カイは迷わずそれぞれを握りこむ。
腕をピンと伸ばし、真正面に構え、言い切る言葉は勇ましく、
「ティム、
「了解デス。アンロックしマス」
カイがにらむ前で、赤く切られた照準の十字が変色し、海のブルーに溶け込んでいく。
双子の銃は五角形、独特な形状だ。カイの腕よりも太い銃身に光学照準器とトリガーガードが上下に広がっている。
そのシルエットから、ハイビスカスの皆はもっぱら『マンタ』と呼んでいた。
このマンタがクジラに対抗できると思われる唯一の手段だった。
大きさは少々心もとないが、威力は十分。ハイビスカスの居住エリアに一つ、直径十メートル大のクレーターが今も残っているが、それがマンタの攻撃力を雄弁に物語っている。
カイは再び空を見上げ、思わず息を飲んだ。
クジラの影はすでに空を覆わんほどにまで広がっていた。全長千メートルのハイビスカスの居住エリア、その一枚分にも匹敵しようか。都市レベルの大きさ。それが今、宙に浮かんでいる。
胴体は見惚れるような流線形。左右に三枚ずつ、オールのように均等に、ヒレを思わせる構造物が突き出ているのが見えた。少し緑色に光っているだろうか。
ホバーバイクのようなタービンは見当たらない。どうやって空に浮かんでいるのか、カイには見当もつかなかった。
「クジラの高度が三千メートルをきった。前と同じ高さだ。あぁ、でもカイ、オヤジたちはまだ――」
「へっ、いいさ、自由にやらせてもらうぜ」
カイはズームでクジラの腹に焦点を当てる。そこではすでに黒い塊が円形の排出口から投下され始めていた。
ジェリーが叫ぶ。
「コバンザメだ。今回も六つ!」
「ばっちし見えてるよ!」
ムール貝のような黒い楕円形が、クジラを離れて自然落下を始めている。朝焼けの光を反射して、表面は不気味な光沢を放っていた。
「ティム、
クジラまで届けとカイは銃口を向けた。腕の動きはよどみない。
しかし、
「クラスエラー発生。トリガーをロックしマス」
ティムの声とともに照準の十字が赤色に戻る。それで指にかかるトリガーがぴくりとも動かなくなった。
「「なっ!?」」
困惑の異口同音。ふたりにとって全くの想定外だった。
「おいティム、なにすんだ! ロック外せ!」
「クラスエラー発生。ロックを解除できまセン」
「カイ、待ってて。エラーの原因を特定してみる……あれ、ダメだ、またクラスエラーだ」
とっさにカイは狙いをずらした。照準がブルーに戻るのを確認するなりトリガーを引き絞る。
バシュバシュ――
マンタの口からふたつの光球が勢いよく空へ放たれた。
「くそっ、ジェリー、ダメだ。あれに照準が向くとマンタがロックされる!」
こうしている間にもコバンザメの集団が上空からぐんぐん近づいてくる。
クジラとは比較にはならないが、こちらも大きい。ゴーグルが自動的に表示した解析結果、推定の大きさは十メートルを超えている。
「まずい。カイ、いったん逃げろ」
逃げる?
すぐそこに空を飛ぶ秘密があるっていうのに。何もわからないまま逃げる?
そんなこと、できるかってんだ。
カイが吠えたてるように牙をむく。
「ジェリー! コバンザメの着水位置の予測、だせるか!?」
「カイ、でも――」
「ジェリー!!」
「わ、わかった。やってみる」
見上げたゴーグルの視界で、コバンザメが次々にマークされていく。流れ落ちる赤い光は流星群のよう。
「計算……完了」
ジェリーの言葉とともに、カイは再び海面に目を向けた。赤に染まった海域が、瞬時に六つの小円に収束していく。
それぞれ着水までの
「ナイスだぜ!」
手前のひとつに狙いを定めると、カイはホバーバイクを急発進――いや、進んでいくのはバイクだけだ。発進の間際、カイは横に跳んでいた。
当然カイは海に落ちる。しかし着水の直前、カイの左手はマンタを惜しげもなく投げ捨て、首元の紐を力いっぱい引っ張っていた。途端にジャケットがフグのように膨らんで、身体を海面にとどめ置く。
「五……四……三……」
ジェリーが残り秒数を読み上げていく。
聞きながら、右手のマンタが狙いを定めた。走り去るホバーバイク、トビウオの背の真ん中へ。
ドッ、ドッ、ドッ――
上空からはコバンザメが次々と降り注ぎ、突如として海面は嵐と化した。
「カァァイィィ!」
それでもカイは集中していた。時間が濃密に圧縮される。ジェリーの叫び声が間延びして聞こえるほどに。
そして青い瞳はとらえていた。荒波にもまれながらも、ホバーバイクは赤い円にたどり着き、そこへ最後のコバンザメが突っ込んでいく。
バシュ――
タイミングはドンピシャだった。
カイの放った光球がバイクのエナジータンクを貫いて、爆発がコバンザメを巻き込んでいく。
しかし、カイに見えたのはそこまでだった。なすすべもなく荒波に飲み込まれぐるぐる巻き。上も下もわからない。カイは息を止め、身体を丸くして必死に耐え続けた。
コバンザメはどうなった?
なんでマンタはロックされる?
どうしてクジラは……。
次第に苦しくなる呼吸。思考もぐるぐる回りだす。
限界が近づき、カイの頭に浮かんだのは、不思議とどうしようもなくくだらないことだった。
ああ、オヤジ達の今日の寝覚めも、きっとこんな感じだったんだろうな……。
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