【2】あれが例の時計か?

 カイは思い出していた。

 四年前、最後にクジラが飛来した日。その直後のクジラ対策会議でのことだ。


 あのときは確か、真っ赤な夕焼け空の下。巨大な長方形のモニター前で男がひとり、立ち上がって熱弁をふるっていた。

 彼こそ皆に『オヤジ』と慕われるバーナクだ。

 こぶしを振り上げ、ウニのような口ひげを揺らして叫ぶのは、


「野郎どもぉ! あのクジラに好き勝手されんのは、俺はもう我慢ならねぇ!」


 特徴的なしゃがれ声。彼が高々と声を張り上げるたびに「そうだぁ!」と合いの手の波が押し寄せる。

 集まったのは百人はいようかという屈強な男たちだ。皆一様に褐色の肌、ウェットスーツに黄色いジャケットというお揃いの恰好で、広場にひしめき合う様子はトドが群れをなすようだ。


 とはいえバーナクが言う「好き勝手」というのが実際何なのか、彼らはまだよくわかっていなかった。

 なぜならクジラは雲のように現れて、何をするでもなく去っていく。それだけなのだ。

 なのに、そのたびにハイビスカスからはあるものが消えていく。

 人の命でも財産でもない。ある意味で、彼らの最も大事なものが、だ。


「クジラが奪っていきやがったのは――」


 バーナクが力任せにモニターのディスプレイを叩き、叫ぶ。


「――俺たちの、未来だ!」


 そこに表示されているのは数字だった。

 大きく青い字で、こう書かれている。


『81.80』


「……なぁジェリー、あれが例の時計か?」


 その様子を少し離れて眺めていたのがカイだった。

 当時まだ十二歳だった彼女は、広場の向かいの四角い居住ブロック、その屋上のふちに腰かけて、暑苦しい演説を見おろしていた。


「そっか。カイは初めてだよね、会議」


 隣では、波打つ金髪を束ねた青年が恐る恐る身を乗り出している。

 カイの兄貴分、ジェリーだ。

 屋上の高さはせいぜい三メートル、とはいえ高所が苦手な彼にはそれで精一杯らしい。


「そう、あれがティムの時計だよ」


「へぇ、あれがね……」


 驚きにも似た声をあげるカイ。その瞬間、数字がひとつ減り、『81.79』へと変わる。

 ジェリーが説明を継いだ。


「ティムが算出した都市機能維持期限サステナビリティ・リミット。あれがゼロになると、ここ、ハイビスカスはエンストだ。クジラはこの数字を奪っていく」


 ハイビスカスはティムの都市。そう言っても過言ではない。

 あらゆる都市機能はトータルTotalインテリジェンスIntelligenceマシンMachine、つまりティムTIMという人工知能AIによって制御されている。

 その神経網は街のあらゆるものに行き届く。カイのゴーグルだってそうだ。


 そしてティムは示している。その恩恵はあと八十年ほどしか続かない、と。


「で、今回は何年分もってかれたんだ?」


「たっぷり二十年。前もそうだった」


 ジェリーの答えに、カイは目を丸くする。


「うぇ、そりゃ、ヤバいじゃねぇか」


「うん。あと四回でアウトだね。クジラの飛来ペースを考えると、実のとこ、あまり猶予がない」


 腕を組んだジェリーは、どこか諦めたような笑みを浮かべて言った。


「なぁカイ、時間って一秒一秒、先に進むものだってみんな思ってるだろ。でも僕は時々思うんだ。実際は逆かもしれない」


「逆ぅ?」


「もう運命みたいなものが決まっててさ。ただひたすらカウントダウン。一秒一秒削られてるのが、時間なんじゃないかってね。僕らがどれだけ頑張ったところで、越えられない未来がある――」


「おいジェリー、それはさすがに辛気くさいぜ」


「うん、まぁね。でもさ、カイ――」


 続くジェリーの言葉は、ヒートアップした男たちの声にかき消された。

 ふたりが前を向くと、まだモニター前で盛り上がるバーナクの姿があった。そしてちょうどそこへ、真正面から群衆を割って一台の車いすが近づいていく。

 座っているのはタツノオトシゴのような細身。ともすれば群衆の中でひと際ひ弱に映るかもしれない。しかし背筋をピンと伸ばしたそのさまは、むしろ近寄りがたい凛々りりしささえ漂わせていた。

 カイはその後ろ姿をよく知っていた。


「おい、マムが来たぜ。またやり合うぞ」


「どうかな。ことクジラの話だと共通の敵だ。案外すんなりまとまるかもよ」


 カイとジェリーがしたように、男たちの間でもその先を予想し合うざわめきが起きた。

 しかしマムは気にする様子もなく、大方の予想通りにバーナクへ突っかかっていく。


「あんた、怒るのも大変結構だけどね、結局どうするって言うんだい? 具体的な話を頼むよ。あたしらの時間は限られているんだからね」


 節約志向のマムと豪快なバーナク。ふたりはまさに水と油だ。都市のルールを巡って繰り広げられる数々の衝突は、ハイビスカスの日常風景と言っていい。

 いつもならその大半はバーナクが言い負かされて終わってしまうのだが、しかしこの日は違った。バーナクは我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべている。


「ふっふっふ、よくぞきいてくれた。確かにこれまで、ワシらはクジラに手も足もでなかった。だが! 今回、ついに攻略の糸口が見つかったのだ」


「ほぉう? それは本当かい?」


「もちろん本当だとも。今から見せてやる。ティム! 再生だ」


「了解デス」


 ティムが応じ、モニターに記録映像が流れ始める。

 映し出されたのは横長の雲みたいな物体だ。あまりに大きすぎて画面の大部分が白という有様。何を映しているのかすら要領を得ない。

 だが、それこそまさにクジラだということは、もはやここでは説明不要。全員が固唾を飲んで次の展開を見守っている。


 クジラの腹にあたる部分がズームされた、その時だった。


「あっ」


 ひとりが小さく叫んだ。

 白い腹から、黒い小さな塊が落下したのだ。ひとつじゃない。四、五、六。立て続けに産み落とされては一直線に下を目指していく。映像も素早く追いかけるが、それらはすぐに海に落ちて大きな水柱が立ち昇った。

 今度はズームでもう一度。しかし解像度が悪く、黒い塊はモザイクのようにしかならない。


 クジラは何を落としたのか。

 皆がざわつく中、バーナクが手を叩き注目を集めた。


「よぉうやくわかったぞ。これがヤツのやり口だ。この黒い何か。これを海に落としてやがったんだ。となれば俺たちが叩くべきはこの黒い……そうだな、コバンザメ、とでも呼ぼう。こいつらコバンザメをぶっ叩くのだ!」


「おおおおっ!」


 男たちは湧いた。彼らの大きな背中に希望のようなものが満ちていくのを、カイは確かに見て取ることができた。


 そしてそれはカイも同じなのだ。思わず手を握りこむ。

 もっとも、黒い物体の発見とか、それを食い止めるとか、そんなことは正直どうでもよかった。

 カイは初めて見たのだ。


 クジラ……あのデカブツは、どういう理屈で空に浮かんでいるんだろう。ホバーバイクのパワーを全開にしても、地面から少し浮かぶくらいがやっとなのに。あんな風に空を飛んで、世界を見て回れたら……。


 カイは自分の中の何かが暴れ出すのをほとんど抑えきれずにいた。


 歓声の中、バーナクは言った。


「ちなみに今回の映像を記録したのはジェリー……ありゃ? ジェリーはどこだ?」


「あ、ここです」


 ジェリーが控えめに手を振った。


「おお、ジェリー! よくやった、お手柄だ!」


 みなが一斉に振り返り、拍手喝采。指笛まで鳴り響く。

 少し照れたジェリーの横顔が、カイには少しだけまぶしく映った。


「いいか野郎ども! スピードが命だ。クジラが現れたら真っ先にバイクで向かえ。あの黒いのを食い止めろ!」


「おおおおっ!」


 広場の盛り上がりはまさに最高潮。

 マムはまだどこか納得のいかない様子で肩をすくめていたが、しかしその盛り上がりに水を差したのはティムだった。


「広場の皆サン。域外活動上限アクティビティ・リミットまで、あと三十分デス」


 いつもの警告。

 もうそんな時間か、と落ち着きを取り戻す広場の中で、


「まぁ、いいんじゃないかね。細かいところはおいおい詰めるとしようか」


 マムはそう言って、車いすを反転させた。大まかな方針に異論はないらしい。


「いよーし、今回はこれまでだ。野郎ども、ご苦労だった!」


 夕焼け空に、バーナクの締めくくりの言葉が響いた。

 魚の群れを崩すように広場の集まりが散開していく。


「ジェリー、すげぇじゃん。クジラってあんなデカい……」


 カイも屋内に戻ろうと振り向いて、そこで気づいた。

 いつの間にかジェリーがじっとカイを見つめていたのだ。

 エメラルドの瞳はいだ海のように透き通っている。


「ジェリー、どうした?」


「いや、カイならさ、きっとやってくれるって思って」


「オ、オレ? おいおい、いきなりだな。あの黒いやつ、オレにどうにかできるかなぁ?」


「それもあるけど、さっきの続きだよ。この街の運命が決まっていたとしても、カイならぶち破ってくれる。そう思うんだ」


「そりゃ……ちょっと買いかぶりだぜ。むしろジェリーだろ。さっきだってみんなから褒められて――」


「いいや。カイだよ。ちょうど僕にしてくれたように。天空塔スカイタワーから落ちる僕を助けてくれたように。それこそ終わり間際の砂時計をひっくり返すかのように、残酷な運命からみんなを救ってくれる」


 ジェリーは屈託のない笑顔を作って、そして言った。


「期待してるから」


「お、おぅ。ま、まかせろ」


 少したじろぎながら、カイもなんとか笑顔で応えた。


 カイに対するジェリーの期待は、ここのところ過剰なきらいがある。天空塔の件があって以来だ。

 でも期待されて全く心が動かないかと言えば、それは嘘だった。


 運命をぶち破る……か。本当にそんなことできたら最高だな。


 かすかにゆるんだ口元で、カイは中へと戻っていくのだった。

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