あのクジラの空を越えて

髭鯨

第1章 飛んでいきたいよ、ベイベー

【1】飛んでいきたいよ、ベイベー

「ティム、見なよ。日の出だ」


 透きとおる光を真正面に見すえ、ひとりの少女がゆっくりと口を開いた。


 水平線から昇る太陽。少女の前で、暗い夜に沈んでいた何もかもが少しずつ色を取り戻していく。

 現れたのはどこまでも広がる大海原。ちぎれ雲の白の下、さざ波の青が光る。


「今日も早いデスね、カイ」


 その景色に、中性的な機械音声が淡々と響いた。

 声の元は白いホバーバイク、そのハンドルに掛けられたままのゴーグルから聞こえてくる。


 カイと呼ばれた少女は振り向きもせず、ボロボロのポリマーの床に腰をおろして、その機体に背中を預けていた。

 まばゆいまでに輝きだすのは褐色の肌と金色の髪。澄んだ瞳は海が溶け込んだかのようなターコイズブルー。足首まで覆うダークブルーのウェットスーツに黄色いナイロンのジャケットは、すぐにでもその海の中へ潜れる格好だ。

 けれど今、彼女の姿は水面から遥か上にある。


「好きなんだ。この景色が」


 光が強まり、カイは目を細めた。

 海面から垂直にそびえ立つ天空塔スカイタワーはまるで一本の剣。彼女がいるのはその最上段、吹きっさらしの展望台で、目の鋭さは切っ先として見事におさまっている。


 天国に一番近い場所。その別名と引き換えに、眺めは絶景と言うほかない。

 海に浮かぶ都市、ハイビスカス。およそ七百メートル下では円形の居住エリアがひとつ、花びらのように浮かんでいる。

 飾り付けられた緑の木々が優しく揺れて、そこから太陽に向かって伸びるのは光の道。こんな色彩芸術グラデーションはきっと人の手では作れない。いまはそれを独り占めだ。

 ふふん、とカイは満足そうに笑う。


「太陽はいいよな。たっぷり三十時間、この地球をぐるっとまわって、自分が見たいところを照らしていくんだ。この海に来る前は何を見てきたんだろうな」


「カイ、実際に回っているのは地球の方デスよ。一回の自転にかかる時間は、正確には二十九時間五十二分――」


「はいはいティム、そんなことオレだってわかってるよ。だ」


 カイは苦笑しながらも、


「あーあ、あの白いクジラみたいに空を自由に飛んでいけたらいいんだけどな」


 放り投げるようにそう言って目を閉じた。

 すると感じられる。

 天空塔をかすかに伝わる波の揺らめき。

 ゆっくり頬をなでる風のささやき。


「ほら、いつも通り記録を頼むよ」


「すでに記録中デス。読み上げマス」


 そんな波や風をティムが数字に変えていく。気温、湿度、風速、波高……今日もどうしようもなく常夏で、穏やかな一日であるようだ。

 月が隠れたせいで海面上昇もほとんどない。


「……いつも通り、だな」


 目で、耳で、肌で、カイが感じるこの森羅万象は、ティムにかかれば余すところなく数字にできるという。彼女をこの場に縛り付ける重力だってそうだ。

 そのことは頭では理解しても、カイはまだしっくりときていなかった。数字にされるとどこか他人事に思えてしまうものらしい。


 そんなことをカイがぼんやり考えていると、


「カイ、域外活動上限アクティビティ・リミットまであと三十分デス」


 いつもの警告だ。三十分という区切りもまた、どこか現実感を欠いている。

 目を閉じたままカイは「ん」と気のない返事をするだけで。


「戻りマスか? 紫外線の浴びすぎには注意が必要デス」


「いや、もうちょっと……。なあティム、あの曲かけてよ」


 言うや否や、軽やかなアコースティックギターの旋律が流れてきた。

 あの曲と言えば『あの青い翼にのってOn The Blue Wing』。それがカイとティムの共通理解だ。

 古い古いカントリーチューン、海の向こうを想い続ける恋の歌。


 実のところ、カイはカントリーというジャンルをよく知らない。広大な大地など、もはやおとぎ話の世界だった。

 だけど、この曲に込められた海の向こうを想う気持ちは、初めて聴いた時から確かに自分のもののように思えたのだ。


  君を想って 今日も歌っているよ

  大事に作ったこの曲を

  君は今 どうしているんだい

  ああ あの青い翼に乗って


「――飛んで、いきたいよ、ベイベー」


 メロディーに乗せて口ずさみながら、カイは雲の向こうを指さした。まだ見ぬ何かを目指すように。


「……ん?」


 そこで両目が薄く開かれる。かすかな違和感。


「おい、ティム」


 それだけでティムは理解した。音楽が止まる。

 静寂……それでも感覚が何かを捉えていた。

 ハンドルにかけてあったゴーグルを、カイはゆっくり逆手で引っぺがす。耳まで覆う太いベルトに大きなレンズは特別仕様だ。


「ティム、見えるか?」


「はい。飛翔体を捕捉しまシタ。高度およそ一万メートル」


 ゴーグルのベルトから直接伝わるティムの声。

 同時にレンズの視界に赤く印がつけられる。カイはそれを追うように、こめかみのツマミでズームしていった。あまりにも遠く、見つけたものは白い点にしかならなかったが、それでもカイがその正体を確信するには十分だった。

 じわりと手に汗がにじみ出る。


「ティム、クジラだ! オヤジにつないでくれ!」


「了解デス。が、今は就寝中のよう――」


「なら叩き起こしていいって。ベッドでもさ」


 頼むよ、と腕を広げるカイ。その鼓膜にしゃがれた悲鳴が届いた。


「おっ、起きたか。オヤジ――」


「カイ、てめぇか! こんな朝っぱらからなんのまねだ!」


 通信越しに唾でも飛んできそうな怒声に、思わずカイは顔をしかめた。


「乱暴な起こし方しやがって、ティム、おめぇだってタダじゃおかねぇ――」


「オヤジ、聞け……聞けって。悪かったからさ。でも大変なんだ。クジラだ!」


「……あん? なんだって?」


「だからクジラが来たんだよ。ク・ジ・ラ、クジラが――」


「バッッッ――」


 カイは賢明だった。そこでとっさにゴーグルをずらせるくらいには。


「――ッッッキャロー!! カイ、それを早く言いやがれ!!」


 先ほどとは比較にならない大噴火。

 やれやれ、すくめる肩の上に苦笑が浮かぶ。


「こうしちゃいられねえ。ティム! ほかの連中も叩き起こせ。オレの倍は乱暴にしていいからな」


「了解デス。では――」


 巻き起こったのは悲鳴の渦。音楽とは程遠いそれをBGMにして、カイはゴーグルをかけ直し、ゆっくりとホバーバイクにまたがった。

 回線の向こうではまだ鼻息の荒い指示が飛んでいる。


「いい目覚めだったか野郎ども。とうとうクジラのお出ましだ。手はず通りにいくぞ。おいカイ、お前も向かえ」


「あいよ」


 応えながら前を向き、カイは一度大きく深呼吸をした。


「となりゃショートカットだね」


 スロットルをひねり、ホバーバイクを一瞬で走行モードに切り替える。

 ギュィィィンとモーター音を響かせて、前後ふたつのタービンが高速回転。天空塔からさらに上。カイは今、空の一部になった。


 見下ろすと円形の居住エリアが五つ、天空塔をぐるりと囲っている。オレンジに染まった姿はその名の通り常夏の花だ。

 海面までおよそ七百メートル。立ちくらみを覚えそうな高さに、それでもカイは不敵な笑みを浮かべ、ためらいもなく天空塔から飛び出していく。

 足場を失った白いホバーバイクは落ちるしかない。どこまでも、どこまでも。滑空というには速すぎる勢いだ。黄色いジャケットが羽になろうと暴れまわる。

 カイは必死に歯を食いしばり、スロットルを限界まで絞り込んだ。

 青い瞳がとらえるのは天空塔の根本、放射状に伸びるスロープだ。線のように細かったはずのそれが、あっという間に目の前に広がってくる。


 ガンッ――


 尻を強く打ちつけながらも、なんとか白い機体はバランスを取り戻し、そのままスロープに沿って滑り降りていく。


「いーやっほぉおー!!」


 すれ違いざまに緑の葉が舞った。

 叫び声も置き去りにしてカイは進む。まだ進む。

 スピードに乗り過ぎた白い機体は、居住エリアの真ん中に引かれた大水路に勢いよく飛び込んで、噴水のように盛大な水しぶきを上げながらようやく止まることができたのだった。


 カイの身体がガクンとハンドルに沈み込んで、


「――っかぁ、やっぱこれ、骨にくるねぇ」


「急激な高度の低下を確認。カイ、また天空塔から飛び降りマシたね? 安全運転をお願いしマス」


「しょーがねぇだろ。時が時だ。ちんたらエレベーターなんか乗ってられるかって」


 ティムの苦言も意に介さず、カイは姿勢を整えた。

 耳元でまたしゃがれ声が響く。


「カイ、クジラはまだ見えてるか?」


「ああオヤジ、しっかり見えてるよ」


 カイは空を見上げ、また同じように指先を向けた。空飛ぶ白いクジラに狙いを定め、意気揚々と歌い上げる。


「飛んでいきたいよ、ベイベー」


 その青い瞳は陽の光を浴びて、何よりも強く輝いていた。

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