【20】ああ、そうか、そういうことか
重力。地球が万物を地表へ引き寄せる力だ。
これまでのカイにとって、いわば打ち倒さなければいけない最大の相手でもあった。
その力はいつだって強大で緩みがない。
カイが幼い頃はどうにか重力の隙をつけないかと策を練ることもあった。夜を狙ったり、音をたてないようにしたり。
けれど、どれだけ跳躍を繰り返そうと、ホバーバイクで飛び出そうと、見逃してくれたことはなかった。いつだって例外なく、誰に対しても平等に、この惑星のありとあらゆる場所で働きかけている。
だから重力の存在はこれまでカイにとって世界の前提みたいなものだった。
「重力って……変わるのか?」
いま、そんなカイの知る世界は大きく揺さぶられていた。その前提と共に。
まさに隕石が頭に落ちてきたかのような衝撃だった。
「うむ、それであれば恐竜の絶滅も説明がつく。隕石だけじゃない。同時に重力が強まったことによって恐竜は死に絶えたのだ。自身の重さを支えられなくなってな。後にはもっと小さな生き物だけが残った」
「その、なんていうか、信じらんねぇよ。この重力が変化するだなんて……」
「無理もないさ。昔はみな君と同じように考えていた。だがね――」
そこでブラットンが右手を掲げた。
すると何もない空間に長方形のビジョンが映し出される。
「今から約五千年前、本当に重力は変わってしまったのだよ。それまでの地球の重力はまだ可愛げがあったものだ。少なくとも人が海に浮いていられるくらいには」
映像記録だ。海で泳ぐ人々の姿。
カイとしては信じられないものを見る思いだった。
なにせ誰も浮き輪をつけていない。生身のままでぷかぷかと浮いているのだ。
これがハイビスカスなら、エアジャケットなしで海上に繰り出すのは自殺行為もいいところだ。ひとたび海中に落ちてしまえば自力で浮かび上がってくるのは不可能に近い。
それだけ強い力で下に引っ張られているのだ。
「嘘……みたいだ。いったい何があったっていうんだよ」
「
続けざまに複数のビジョンが立ち上がる。そのどれもが悲惨な内容だった。
黒煙が立ち昇る街角、力なく倒れたままの人の姿、助けを求める叫び声、赤子を腕に抱き泣き叫ぶ母親、響き渡るサイレン。
奇妙なことに、映る人はみな地面にへたり込んだり、這いつくばるような姿だった。まるで歩き方を忘れてしまったように。
「再びの重力の増大だ。ただ重力が強くなっただけじゃない。それは太陽系のバランスを乱し、火星の外側の小惑星群のうちいくつかを地球に向かわせた。文明は壊滅したよ。一夜にしてね」
映像のうちひとつでは、夜空に一筋の光が流れていった。
それが地表にまで届いた途端、画面内のありとあらゆるものが掻き混ぜられていく。逃げ惑う人々の狂乱さえ飲み込んでいく衝撃波。
カイは思わず目を背けた。
「そのときの衝撃は地球の自転さえ歪めたほどだ。以来、一日は二十四時間ではなくなった。……しかしそれ以上に、重力変化の影響は甚大だった」
ブラットンはまた静かに語り始める。その後の暗黒時代の到来を。
隕石によって街は崩れ、津波に流され、生き残った人間はごくわずか。
だが一番の問題は、重力が元に戻らないということだった。身体への負担はどうしたって避けようがない。
とりわけ老いた人々への影響は致命的なレベルで、平均寿命はそれまでの半分以下にまで減少することになる。脳への血流も抑制され、重度の貧血がしばしば繰り返された。
「潮風病か」
「ふむ、君たちはそう呼ぶのかね? 私たちはもっぱら重力貧血症と呼んでいたよ」
そして重力が弱い頃を生きてきた身体が、延々と遺伝で受け継がれていく。だからカイたちはずっと苦しんでいるのだ。五千年の歳月が経ったとはいえ、重力の変化にはそう簡単に適応できるものではないらしい。
「どうにもならなかったのか?」
「いいや、恐竜と違い、人間は対策を考えることができたし、道具を使うこともできた。それが私たちの良いところだ」
ハイビスカスの原型にあたる海上都市が建造されたのは、大破壊後すぐのことだという。水の中であれば、強い重力の中でも負担を軽減することができる。水で満たされたベッドもそれを考慮してのことだ。
一方で、もうひとつの対応策も進みつつあった。
目指したのは宇宙。正確には月面だ。
月の重力は地球の六分の一でしかないが、月も同様の重力変化を起こすことにより、むしろ月面のほうが以前の重力に近いくらいに変わっていた。
「ちょ、ちょっと待てよ。あの月に人が住んでいるっていうのか?」
「住んでいた、というべきかな。いずれにせよ
動き出したのは一部の科学者を中心としたグループだった。彼らは自分たちこそがこの状況を打開できると信じていた。
月面基地も大破壊の影響で大きなダメージを被っていたが、それを改修し、新たな未来の可能性を探そうというのだ。
それは決して簡単なことではなかった。
過去に蓄積された宇宙開発の知識はまだ重力が弱い頃のものだ。彼らはそれを緻密に再計算する必要に迫られたし、月に向かう手段と物資の確保だって困難を極めるものだった。
だが彼らはやり遂げた。地道な努力と、ひたむきさによって。
完成したのは宇宙船コフチェク号。その後二十年が過ぎるくらいには、彼らは安定して月と地球を往来できるようになっていた。
「すげぇ話だな。月に行くだなんて、オレには想像もできねぇ」
「ふむ、だが事はスムーズにいくばかりではないよ。人間、良いところもあれば悪いところもある」
月面への移住。この問題が徐々に人間たちをふたつに引き裂くことになる。
なぜなら月に収容できる人数には限りがあったからだ。せいぜい千人。それ以上は資源が追いつかない。しかし月での暮らしを望む人々はその何百倍といた。
科学者たちは優先して月に住まうことができた。事態解決に向けて、それは合理的な取り決めだった。
しかし望みがかなわなかった人たちから見れば、月を独り占めしている、そういう風に見えていたのかもしれない。反感は日を追うごとに膨れ上がり、妨害活動が始まった。あの宇宙船を落とせ、などとテロまがいの事件も起きた。
一度両者の間に入ったひびは、結局長い年月では広がる一方で、気づけばほとんど戦争のような状態にまで悪化してしまっていた。
「さっきオレが攻撃されたのもこれか」
「その通り。あれはもともとはこの船を攻撃するために作られたシステムだよ。いまだに動き続けているのが悩ましい限りだがね」
仕方なく科学者たちは地球でアクセスできる情報に制限をかけることにした。空と宇宙に関する情報だ。自分たちの活動を妨害されないように。
そういった知力は科学者たちの方に集まっていたから、制限をかけるのはそこまで難しいことではなかった。
「まさか、ティムのエラーって……」
「うむ、月側の
「それで……」
「賛否のある対処法ではあったが、実際に効果はあった。次第に攻撃は散発的なものになり、月にまで危害を及ぼすものはなくなっていく」
月での安定した生活を手に入れることで重力に対する研究も進んだ。何が大破壊をもたらしたのか、その原因も少しずつ明らかになってくる。
宇宙に広がる何もない空間。そこにあるのは決して空虚ばかりではない。実は目に見えないエネルギーで満ちているエリアがあるという。
それがふとしたきっかけで流れ出すというのだ。科学者たちはその現象を
その流れが太陽系に到来したのだ。一億年に一度あるかないかの出来事だろう。
グラヴィティ・ストリームが物質にぶつかるとそのエネルギーは物質の内部に蓄積される。内部にエネルギーが蓄積することでその物質は質量を増す。質量が増せば重力は強まる。それこそがまさに大破壊の際に地球が経験したものだった。
いつしか、そのエネルギーは重力エネルギーと呼ばれるようになった。
現象の一片が判明することで、次第にそのエネルギーを活用できるようになってくる。重力に反発する力のコントロールにも成功し、それがコフチェク号の新たな動力として採用されることになった。
同時に既存の海上都市を改造して、地中に取り込まれた重力エネルギーを吸い上げることにも成功する。
人類は次第に重力を操るすべを身につけつつあった。否応なく期待が膨らんでいく。
これなら取り戻せるかもしれない。かつて失った、地球での自由な暮らしを――
「はぁー……すっげぇなあ……」
繰り広げられた歴史に、カイはそれしか言葉を見つけられなくなっていた。
最後の重力のくだりまでは、さすがに理解できたとは言いがたい。でも月に人がいるだなんて、これまで考えたことすらなかったから。夜明け前、何度も見上げていたあの月にだ。
ようやく空を知ることができたのに、世界はさらに外へ広がっていた。その果ては一体どこにあるというのだろう?
カイは目を輝かせて笑っていた。初めて
「じゃあさ、この船で月にまで行けるんだよな? 月から来たんだろ? この船」
「ああ、興味があるのかね?」
「もちろん――」
「だがその前に、やらなければいけないことがある」
はやるカイを押しとどめ、ブラットンはまたひとつのビジョンを立ち上げた。
そこにはシンプルに数字だけが書かれている。
『0.97』
「その数字! なぁ、これ、どんな意味があるんだよ」
「すべてはこれまでの延長線上だよ、カイ。大破壊の前、月は地球から徐々に遠ざかっていた。しかし互いの重力が強まったことで、その関係が逆転したのさ」
月が沈ム――
いつかクゥが言った言葉を、カイは思い出した。
それは単に水平線に月が隠れるとか、そういう意味だとばかり思っていた。
「……ああ、そうか、そういうことか。ジェリー、オレらは完全に勘違いしてたみたいだぜ」
いまようやくカイは理解した。この地球に何が起きているのかを。
クゥの言葉は実際には機械で翻訳されたものだ。だから誤訳もしょうがないのだろう。
だって、いままでこんなことは一度だって起きたことはないはずだから。
「そう、月は少しずつ地球に近づいている。残された距離はもう限界に近い」
立体映像のブラットンが、そこで初めて深く息をついたように見えた。
デジタルな彼の身体には本来必要ない動き。しかしまた大きく息を吐き出すようにして、彼は静かに告げるのだった。
「このままでは月は地球に衝突する」
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