【22】翼を持たずに生まれてきたって
「なぁクゥ、もう嫌だって思ったことはないのか?」
そんな問いが、カイの口から自然とこぼれた。
空飛ぶクジラの横っ腹、ガラス張りの広い船腹からは真ん丸に輝く月がよく見える。
カイの隣で、クゥは無言のままその月を見上げていた。少し休んで、今は体の調子も良いらしい。
降り注ぐ月の光をドレスのように身にまとう白銀の小さな身体。これより綺麗なものなんてこの世にないんじゃないか。芸術にうといカイでさえ、そう思わずにはいられない。それほどまでにクゥは静かで、落ち着いていた。
夜明けまであとわずか。
そのときが来たらカイはクゥと共にハイビスカスへ降下して、
地球を救う。事の大きさを意識すると、カイはまさに地に足がつかない気持ちだった。
ブラットンからは、ハイビスカスに着くまでしっかり睡眠をとるようにと言われていたが、目がさえてしまってとてもそれどころではなかった。
だから余計に隣に不動のまま座るクゥの様子が不思議に思えてならなかった。
「つらいって思ったことは何度もあル」
しばらくの沈黙の後、クゥがぽつりと言った。
重力に慣れるための訓練、身体に埋め込まれたテクノロジーの使役、いずれも幼少期から繰り返されてきたらしい。全てはこの時のために。
「けど、これは私にしかできないことだかラ」
クゥの決意は固い。
むしろそれゆえに、何かの拍子に粉々に砕け散ってしまいそうな脆さを、カイはその細い身体に見て取れるような気がした。五千年の間、地球を元に戻すことを夢見て果たせなかったすべての人の想いが、その双肩に乗っているのだから。
ブラットンによれば、月を目指した科学者たちの未来は決してやさしいものではなかったという。宇宙空間では放射線というもうひとつの問題が残っていたからだ。
放射線は人間の細胞にとって有害だ。浴び続けるとDNAが破壊され、
ゆえに月に住まう人はひとり、またひとりと生身の身体を捨てて、デジタルな存在へと生まれ変わっていった。そうせざるを得なかったのだ。子供たちの成長も同じく、宇宙空間では常に何かしらの問題がつきまとってきた。新しい世代の維持に苦しんで、苦しんで、苦しんで、結局うまくいかないまま、最後に残ったのはクゥただひとりということらしい。
つらいなら逃げたっていいんだぜ?
勢いでそんな言葉も出かかった。
生まれたときから地球を救うという使命を負わされて、そのためだけに生きてきた。そんなクゥのこれまでにクゥの意思はあったのだろうか。そして自由は。
もちろんカイだってまだ生きていたいし、ハイビスカスも守りたい。
けれど、カイは次のマムになるという周りの期待をはねのけてここまで来たのだ。仮にここでクゥがその使命を放り出そうとしたって、それを非難する権利は自分にはないように思えた。
けれどクゥの様子を見ていたら、そんなふうに逃げを促すのも無意味なことに思えてくる。
まだクゥは月を見ている。そこに置いてきた色々な思い出があるのだろう。
「重力を元に戻したらさ、その後どうするんだ?」
代わりにカイはそんなことを尋ねた。
そこでクゥは少しはっとしたような顔になって、
「どう……しようかナ。それはぜんぜん考えてなかっタ」
その答えも、カイはなんとなくわかるような気がした。
「じゃあさ、これが終わったらいろんなとこ一緒に回ろうぜ。まだ行ってないとこ、たくさん行きたいんだ。案内してくれよ。月にだって」
「うン。……でも、いいのかナ? 私がそんなことしテ」
その疑問を聞くや、カイは反射的に立ち上がった。
重力を元通りにする。クゥがどれだけその使命に縛られて生きてきたかを、カイは強く感じ取れた気がした。
世の中の
「何言ってんだよ。ダメなわけないって。さっきティムの話だって聞いただろ?」
さっきの話とは、ブラットンが最後に付け加えた説明のことだ。
ティム、ハイビスカスを統べる人工知能。それが彼女たちの障壁となっている。
もともとティムを用意したのは月に向かった科学者たちだ。
彼らがティムに組み込んだルールはふたつ。彼らの研究についての情報を遮断すること。そして、それに反しない範囲で住人たちの生命を維持すること。
これまでの約五千年、ティムは想定以上に安定して機能してきた。
それがいま、人類はハイビスカスのエネルギー源を絶つ必要に迫られている。
それは住民の安定的な生活を脅かす。ティムの根本的なルールに完全に反するものだ。ゆえにティムはどこまでも頑なに抗うのだ。
ティムの生みの親が込めた願いと、彼らから引き継がれた遺志が、こうもすれ違うものだろうか。皮肉なもんだ、とカイは思わずにはいられなかった。
「ティムだってさ、最初はちゃんとみんなのためを思って創られたはずだろ。重力が増したこの地球で、みんながちゃんと生きていけるようにって。でも、どれだけ良い目的で創られたものでもさ、凝り固まったままだったら、良くないものに変わっちまうこともあるんだ。クゥだって、地球を救うために生まれて、そのために生きてきたかもしれないけど、きっと本当は違うんだ」
「……違ウ?」
「ああ違う。生まれてきたのがどんな環境でも、どんな時代でも、誰が親になったとしても、こう生きなきゃいけないってのは本当はないはずんだ。翼を持たずに生まれてきたって、空を飛んだっていいようにさ」
半分くらいは自分自身に言い聞かせる言葉だったかもしれない。
けれどしゃべりながら、うん、きっとそうだ、と確信できた。クゥが目的を果たして使命から解放されたとき、本当の意味でクゥは自分自身になれる。そうカイは思うのだった。
「自由だよ。きっと。その先にあるのは。オレも、クゥも、自由でなきゃいけないんだ」
「そうなの……かナ? うん、そうカ。そうかモ」
クゥはそう言って、少しだけ笑った。
それを見て、カイはまたひとり意気込んだ。
やってやるんだと。クゥが自分を外へ連れ出してくれたように、自分がクゥを解放するんだと。
「あ、夜明ケ――」
いまクジラはゆっくりと旋回を始め、気がつけば窓の外は少しずつ白み始めていた。
まだ黒が圧倒的に支配している海の上に、オレンジ色の帯が現れて水平線の位置を教えてくれる。
その光を背に一筋の線が垂直に浮かび上がり、輪郭が輝きを放っていた。
「綺麗だな……」
夜明け前に何度も見ていた景色を、今は空飛ぶクジラの中から眺めている。
それだけでいつもの海が、いつもの空が、まったく違うように見えることをカイは知った。
その事実にカイは言いようのない震えを心の中で感じていた。もう前の自分とは決定的に何かが変わっている。そんな気がしたのだ。
クゥにも教えてやれるだろうか。この胸に沸き起こる感情を。血管を巡り巡って叫び出しそうになるこの感触を。
「自由……」
隣でクゥが小さく
彼女はまだそれが何かを測りかねているようだった。
きっとすべてが終わったら、この海も、この空も、あの月だって、クゥには違って見えるのだろう。いや、そうじゃなきゃいけないんだ。
そのために自分たちはハイビスカスに向かうのだ。
ふたりなら間に浮かぶ雲のように、どこまでも輪郭を変えて進んでいける。
果てしなく広がる海と空はそのために用意されているのだと、いまならカイは信じることができるのだった。
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