第16話 遅いほうが疲れるのか?
少女を追いかけ始めてから、もう30分が経過していた。だと言うのに……
(おかしい。どうして追い抜けない?)
アキラはついていくので精一杯。むしろ主導権を握っていたのは、相手の少女だった。
「さあ、どうしたでござる?降参するのは早いでござろう?」
時折振り返った少女は、挑発するように声をかけてくる。その様子は余裕そのもの。息が上がったような節は一切ない。
「まだ、まだだ!」
ルリに教えてもらった、回すようなペダリング。対向車線に出たアキラが、ここで抜きにかかる。
「おお、拙者も負けてられぬのう。からあげ」
相手も同じように、足首のスナップを利かせてペダルを回す。その回転はアキラより速い。
横並びで走るような状態になる中、やはり少しだけリードしているのは、少女の方だった。なかなか抜けないでいるうちに、対向車が来る。
(やべぇ。避けないと)
仕方なくブレーキをかけたアキラが、再び少女の後ろに戻る。ふと見ると、少女のペダリングはさらに速くなっていた。
(まずい。今のタイミングで引き離されたら、二度と追いつけない)
そう思ったアキラは、ブレーキを離すと同時に加速する。ギアを切り替えている暇はない。速攻で勝負に戻る。
しかし……
(意外と遅い!?)
少女は思った以上に、速度を落としていた。このままでは追突する。アキラはすぐにブレーキをかける。
(なんでだ?どうして速く見えたのに遅いんだ?)
実際のペダリングの回数と、速度が合わない。その理由は、
(変速ギアか)
ママチャリに装備されることも珍しくなくなった、変速ギア。よく見れば確かに彼女の自転車にもついている。ギアを軽くすれば、ペダリングは速くなる。しかしギア比は下がるので、実際の速度も落ちるという寸法だ。
(でも、この一瞬で抜ける。今しかない)
相手のペースが落ちた今こそ、抜きにかかる。対向車線に出て、少しづつ追い上げていく。しかし……
(あれ?こいつ、速くなってる?)
あと一歩のところで抜けない。それもそのはず。少女はギアを上げていた。お互いに横並びのまま、さらに速度を上げる結果になる。
幸いなことに、対向車は来ない。
(まだだ。まだ、まだ俺は走れる)
自分に言い聞かせるようにして、アキラは走った。
自転車乗りは、しばしば自分の体調が分からなくなることがある。素人はもちろん、手慣れたレーサーであっても、だ。
脱水症状、熱中症、あるいはハンガーノックと呼ばれる低血糖症。それらを発症していながら、平気で走れることがある。それは、一種の脳内麻薬による効果。ランナーズ・ハイの自転車版だ。
一見すると無敵状態だが、大きな負担を隠しているだけに過ぎないそれは……
(そろそろ、頃合いでござるか?)
何かしらの衝撃で『正気に戻る』ことで、瓦解する。
「覇ぁっ!」
少女が叫んだ。それに気をとられたアキラが、わずかにペダリングのフォームを崩す。
ただ、それだけ……たったそれだけで……
「っぐあぁあ」
右足を攣った。
右ペダルを下げたまま、これ以上回せない。太ももが大きく脈打ち、ピンと張ったまま動かない。
まるで、自分の筋肉で骨を圧迫しているような痛み。これ以上は、走れない。
サドルに腰も落とせぬまま、車体バランスを取る。こうなっては仕方ない。転ぶ前に、ブレーキをかけて止まらないと……
「くはぁっ――はぁ、はぁ、あ、が……」
しっかりとブレーキをかけて、無事な左足を地面につけた。そこでストップだ。身動きが取れない。
「アキラ様。大丈夫ですか?」
ルリが駆け付ける。
「あらら、拙者……やっちゃったでござるか?」
少女もUターンして戻ってきたようだ。ママチャリにしては、小回りの利く自転車である。
飛び跳ねながら、やっとの思いで自転車を降りたアキラは、
「あ、脚を、攣った」
それだけを告げると、すぐに倒れ込んだ。
額に、冷たいタオルが当てられる。木漏れ日が眩しい。どうやら仰向けに寝かせられているようで、草の感触が背中に伝わる。
それはそうと、頭の後ろに伝わるこの感触は何だろう?柔らかく包み込むようで、少ししっとりとした質感。ああ、最高級の枕に違いない。そのほかの寝具(?)は雑なのに、枕だけにこだわるとはバランスの悪いことだ。
パタパタと風が吹く。目を開けると、扇子が動いていた。誰かが扇いでくれているようだ。おかげで涼しくて気持ちいい。扇子に書いてある『史上最強』という文字が気になるが……まあ、いい。
頭を動かす気にならなかったので、視線だけをさまよわせる。木漏れ日の眩しさに目が慣れてきたので、いろいろ見えた。左には草原と、寝かせられたクロスバイク。上には、さっき走っていた道。そして木に立てかけたロードバイク。
右には、白い布。何やら見覚えのある色合いに、大きな影が落ちる。その陰の元となっているのは、何やら大きなふくらみのようだった。よく見れば二つに分かれているようで、その形に添って皺が落ちる。
そのふくらみの上から、ルリが顔をのぞかせた。
「気が付かれましたか?アキラ様」
「……」
状況は察した。
(うおおおっ。これ、ルリの、ひひひ膝枕ってやつじゃないですか。おいおいおいおい、マジか!?)
ある意味、最高級の枕で間違ってなかった。驚きの余り跳び起きそうになって、しかし起きるのは勿体ないと気付いたため再び寝る。何やらほのかに香るいい匂い。首に当たる柔らかさ。ああ、夢ならもう少し覚めないで……
「あの……私の膝の上でドッタンバッタンしないでください」
「あ、ああ、すまない。なんだかその……っ痛てぇ」
せっかくの夢心地だったが、右足が痛みだす。そう言えば、攣ったんだった。
「ああ、まだ安静にしてないとダメみたいですね」
ルリがそっと、身体を傾ける。右手を地面につき、左手をアキラの下半身に伸ばした。そして、そっと擦っていく。
「右の太もも、でしたよね?少し落ち着いてきたみたいなので、擦った方が良いかもしれません」
こういう場合、マッサージはした方が良いと言う人と、そうでない人に分かれる。重要なのは無理に刺激しないことと、的確にツボを押さえることらしい。そんな高度なことができないルリは、気休め程度に撫でる。自分に出来る精一杯だ。
「足が攣る原因ですが、実は医学的にもよく分かっていません。今のところ、自転車業界でよく言われるのが、筋力不足ですね」
「そっか。筋肉が足りないのか。鍛えてるつもりなんだけどな」
「自転車に使われる筋肉は、他の生活で使うことがありません。一般的に鍛えている人でも、自転車となれば話は別です」
ルリはアキラの額に乗せたタオルを取る。そしてボトルの中の冷水で絞って、再び額に乗せる。冷たい。
「脱水症状なども、筋肉が攣る原因です。それから、いきなり速度を上げ過ぎたことも、重いギアを急に漕いだことも問題ですね。アキラ様が気を失ったのは、おそらく熱中症でしょう」
「熱中症……」
話には聞いていたが、こんな風になるのか。と、人生で初めて熱中症を経験したアキラは納得した。
「でも、俺どのくらい走ってたんだ?」
「そうですね。時間にして30分ほど。距離にして10kmほどです」
自転車にしてはそこそこ走ったくらいだ。たしかに体力的にキツい距離と時間だが、足を攣るほどだとは思えない。
「こんなに疲れるのか。クロスバイクって」
「いいえ。クロスバイク自体は、通常の自転車よりも疲れないはずです。長距離を走るのに適した設計になっていますから」
「ん?ならどうして……」
アキラが疑問を投げかけると、ルリは傍らにあったクマのぬいぐるみを手に取った。
「あの女と競争なんかしたからです。私は止めたのですけどね」
そのぬいぐるみをアキラの横に置くと、ルリはさらに話を続ける。
「あの女の走りは、ペース配分を狂わせます。変速ギアを用いて、でたらめな走り方をするのです。そのせいでペダリングも一定でないうえに、速度も比例しません。
しかも、ママチャリという見た目のせいで、勝手に『遅い乗り物』との認識をしてしまいます。だからこそ、そのペースに引き込まれてしまう。アキラ様みたいに……
自転車は、一度スピードに乗ると、あとは勢いで進んでいく乗り物です。だからこそ一定のペースを保った方が楽なんです。ブレーキをかけてから再加速する方が、よほど体力を使います。
レーサーなんかだと、ペダルを止める方がつらいという方もいらっしゃいますね。そこに付け込んでペースを狂わせ、相手の体力を削る戦法もあります。あの女が得意とするのは、その方法。
まんまとやられたんですよ。そうでもなければ、この程度の距離でこんなに消耗しません」
アキラはその話を、あえてクマのぬいぐるみを見ながら真面目に聞いていた。
人の話を聞くときは相手を見ろ、とよく言う。しかしルリは今、アキラの足をさするために、膝枕をしたまま身体を伸ばしていた。
そのせいで、ジャージ越しに見えるお腹が気になって話どころじゃない。ウエスト部分はゴムが入っているのだが、たいして丈が長くないのでチラリと素肌が見える。滑らかな白い肌。柔らかな曲線。話に集中できなくなる。
というわけで、クマのぬいぐるみを真剣に眺めながら、真面目に話す。
「速度を落とすと辛い訳か。でも、速く走るのも辛いだろう?」
「そうですね。だからこそ、丁度いい速さで走るのが一番楽だと言われています。私たちはそれを、巡航速度と呼びます」
「巡航速度って、何だ?」
アキラは、当然の疑問を口にする。しかし、それは多くのサイクリストを悩ませる疑問であり、ルリにも正しく回答できる自信がなかった。恐らくプロのレーサーでさえ、よく分からないまま使っている用語だ。
つまり、本作で扱うには重すぎるテーマだが、複雑に考えなければ何という事もない。
「実は、定義はあいまいなんです。短絡的な人は『単純な平均速度』と考えていますが、辞書を引けば『もっともエネルギー効率のいい移動速度』と出てきます。
ですが、自転車にとってはどんな速度でも、距離に対するエネルギー効率があまり変化しないのです。だから厳密に言うと、自転車に巡航速度なんて無いのかもしれませんね。
ここからは私の見解ですが……
簡単に言うと『巡航』と呼べるような漕ぎ方があると思ってください。その時に出る速度が『巡航速度』です。体力の消費を一番感じにくい速度と言いますか……疲れ方が最も心地よい速度ですね。
実はこれ、本人の体重や自転車の性能、そして空力抵抗や路面との摩擦がファクターになる速度なんです。たまに筋力と肺活量だけで巡航速度が決まると勘違いした方々が、ネットで巡航速度の自慢をしては叩かれてますね。
もちろん体力もわずかに関係してきますが、単に巡航速度を上げることより、その間にどれだけの回復を行えるか。そしてどれだけ巡航状態を維持するかが勝負どころだと思います。
だからこそ、本格的なレーサーが巡航速度を自慢する風景を、私は見たことがありません。それを平均速度と混同するから、よく分からなくなるのでしょうね。ロードにしか乗ったことのない人が陥る悪い癖です」
ハッキリ言い捨てたが、ルリも高校生の頃は勘違いしていた人である。自虐が入っている解説だ。
「その、巡航ってのは、どうやるんだ?」
アキラが聞くと、ルリは考えた。わりと長く悩む。
「そうですね……普通は無意識に出来るものだと思います。感覚的に『あ、いま巡航してる』って思える瞬間がありますから、そこを見逃さないのが重要ですね」
「なんだそれ?」
「あとで教えますよ。今日は、それを目的に来たと言っても過言ではありません」
マッサージを終えたルリが、上体を起こす。何となくそれが合図だと思ったアキラは、膝枕に文字通り後ろ髪を引かれながら起き上がった。この経験は一生忘れない。
「おーい。ルリ姉!戻ったでござるよー」
遠くから、あの少女がママチャリに乗ってやってくる。カゴには数本のペットボトルが入っていた。スポーツドリンクのやつだ。
「あいつ、いないと思ったら買い出しに行ってたのか」
「はい。私が頼みました。『スポーツドリンク数本、ダッシュで買ってきなさい。それまでクマのぬいぐるみは人質です。逃げたら燃やしますし、待たせても燃やします』と言って頼んだのですが」
「鬼か!」
アキラがツッコミを入れている間に、少女のママチャリは急接近する。そのままブレーキをかけると、スタンドを立てるのもそこそこに放置。降りてきた少女は走ってクマのぬいぐるみを抱きしめた。
「からあげー。どこも燃やされてなかったでござるか?」
その少女の目には、大粒の涙がたまっていた。ひとしずくだけ、瞬きした瞬間あふれて落ちる。
「可哀そうに。本気にしちゃってるじゃないか」
「このくらいの方が、彼女には薬になるでしょう」
ルリはカゴの中からペットボトルを一本引き抜いて、アキラに差し出す。
「とりあえず、飲んでください。脱水症状には早めの対処が重要です。既に遅すぎてはいますが、遠慮なくどうぞ」
「おお、ありがとう。ルリ」
「礼には及びません。そこの女のおごりですから」
「鬼か!」
結局、自分の飲む分は自分で支払う形でのお買い上げとなり、アキラは少女を少しだけ不憫に思った。
「それでは、もう少し休憩したら、巡航速度を割り出してみましょう。難しいことを考える必要はありません。今回はレースではないので、巡航中の回復などに気を使わなくても構いません。
まして、平均速度を競う意味もありません。最高速度も今回は置いておきます。
ある意味で最も基礎的なテクニックであり、ある意味で上級者でさえ出来ていない『巡航』の世界。
ほとんど力を使わない走りに、私がいざないましょう」
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