何か異常を感じたら、必ずお店にいらしてください

第21話 点検って買ってから1か月なのか?

 あれから、2か月ほどが経過したある日のこと。




 ――ガリガリガリガリガリ……ガチャン!


 少し遅れる変速ギアの反応に気をとられながらも、アキラは一人で街を走っていた。

(たしか、自転車は常に一番左の車線を通行、だったよな)

 この2か月で、ルリに教えてもらったことは多い。例えば、自転車は追い越し以外に車線変更してはいけない。常に左側を走るため、交差点では左折レーンに侵入して直進するという状態になる。つまり、左折レーンに侵入して直進するという状態になる。

(信号、青。障害物、なし)

 頭の中で周囲を計算しながら、不測の事態に備える。その右側に、自動車が迫ってきた。黒いSUVだ。

 これから交差点に入るというタイミングにもかかわらず、そのSUVはアキラを追い越す。

(交差点付近での追い越しはルール違反だろうが!しかも車線変更なしだと?)

 と、自転車を車両だと認識するアキラは思った。しかし相手ドライバーは違う。自転車を追い越すことは自動車の使命だと思っているし、何よりも自転車を車両と見ていない。歩道を歩く歩行者の横を通る気分だ。

 そして、アキラの進行方向を塞ぐように、勝手な左折を開始する。

「ふざけんな!危ないだろうが」

 アキラは叫んだ。咄嗟にブレーキをかけて、お互いの衝突を避ける。アキラが止まってくれたおかげで、SUVとぶつからずに済んだ。

 だと言うのに……

「おう、兄ちゃん。自転車の分際でなに騒いでんだコラ!」

 SUVから降りてきた男は、なんとアキラに文句をつけ始めたのだ。余談だが、交差点でいきなり車を降りたものだから、軽く渋滞し始める。

(ああ、こいつには自分が悪いことをしたって認識がないのか)

 自転車とぶつかっても、『自転車がちょろちょろしていたのが悪い』『道路は自動車のためにある』などと誤解する人間は割と多い。教習所で何も習ってなかったのか、あるいはエンジンが強いのを自分自身の強さと錯覚しているのか。

「轢き殺すぞ兄ちゃん。おお?」

 喧嘩になるのはめんどくさい。そう考えたアキラは、

「すんません」

 適当に謝ることにした。しかし、この行為は割とよくない。相手をつけあがらせるだけだ。

「金払え」

「は?」

「だから、謝るんだったら金払えって言ってんだよ」

「嫌だね」

「おう?じゃあ、河原に行こうや。俺らで話しつけてやるからよ」

 後ろから、ぞろぞろと人が下りてくる。

(ああ、あるある。集団でいると気分が大きくなって、自分が強いと錯覚するやつな)

 呆れ気味にため息を吐く。そんなアキラの態度は、相手の気に障ったらしい。

「舐めてんじゃねぇぞ。ごらぁ!」

「ああ、はいはい。それじゃあ河原に行こうか。俺の自転車についてこれたら、な」

「あ?」

 社会勉強、というのも必要だろう。特に、彼らにとっては。




「チャリンコマンズ・チャンピオンシップ?」

 ルリが首をかしげると、店長は頷いた。

「そうなんだよ。ぼくも詳細は知らないんだけどね。まあ、貼っといてちょうだい」

「まあ、いいですけど」

 店の窓に、内側から裏返しでポスターを貼る。こうすれば外からよく見えると言うわけだ。ついでに掲示板と、レジ横にも貼る。コマンドタブが大活躍だ。

「ところで、これについてお客様からお問い合わせを頂いた場合は、どう対応しますか?」

 イベントの詳細が未定のまま告知することは、まあ珍しくは無いのだが、困る。

「ああ、それについては『詳細が決まってないんです』って素直に答えればいいよ。それで絡んでくるような変な客はいないだろうし」

「いや、たまにいますよ。自分を『お客様という神様』だと思っている方が」


 先月も、メンテナンス不足の車体についてクレームが来たばかりである。ブレーキが利かないという苦情だったが、販売時には確かに『購入から1か月したら点検に持ち込んでください。初回に限り無料で調整いたします』と言ったはずだ。

 そもそも、自転車というのは乗り始めが最も調整の安定しない時期である。今まで何の重さも乗らなかった車体が、人間の体重を乗せる。すると良くも悪くも『馴染む』のだ。

 ブレーキにしてもそう。手元のレバーから、車輪付近のアームまでを繋ぐワイヤーがある。あれは販売直前まで張らないのだが、張って数週間で『初期伸び』が出るのだ。そうすると、あっという間にブレーキが利かなくなる。

 だから、1か月後の初回点検はサービス期間中に行った方が良い。逆に言えば、この初回点検さえ済ませれば、あとしばらくは点検がいらない。それがトアルサイクルの考え方であり、ルリもおおむね同意していた。


「それを、半年もほったらかして『ブレーキが利かない』なんて言われましても、当店では対応しきれないはずです。お客様の自己責任ですよ」

 別に怒っているわけでもなく、むしろ自転車を憐れんでいる風情でルリが言う。ルリにとって客の態度はどうでもよくて、むしろ自転車の点検に来なかったこと自体が悲しいようだ。

「うーん。まあ、我々ショップ側としてはそうだけどね。お客様からしたら『何で一年も経ってないのに壊れるんだ』って感じだと思うよ」

「壊れたわけではありません。再調整が必要になっただけです」

「うん。多分、お客様には『修理』と『再調整』の違いは分からないと思うんだ」

 店長の言う事も、また一理ある。そもそもママチャリとは、修理も調整も出来ない素人のために進化した車体だ。ならばサポート無しでも安全を保障するのは当然になってくるだろう。

「まあ、ルリちゃんも土下座までさせられてたし、悔しいのは分かるけどさ」

「……いえ。それはいいんです。ただ、大事に乗ってあげたら、素晴らしいママチャリだったので」

「勿体ない?でも、現代社会において車体は消耗品だよ。たとえ高級でも、安物でもね。だからお客様がどんな乗り方をしたって、我々ショップは口を挟まない。それも接客の心得だよ。割り切りな」

「……はい」

 ルリが俯いて答える。当然、納得はしていない。顔には出さないが、ちょっとした態度には表れるものだ。

 店長は、そんなルリに向けて500円玉を差し出した。

「え?」

「ルリちゃんに奢り。それでコーヒーでも飲んできなよ。休憩30分。お客さんもいないからね」

「いいのですか?時給以外でこのようなやり取り……」

「いいよ。店長とバイトの関係じゃなくてさ。頑張っているお嬢さんに、おじさんからお小遣い。っていうか、本当なら交通費とか支給しなきゃいけないのに、うちの方針で支給していないし、ね」

 ルリの本音としては、趣味を兼ねた自転車通勤に交通費の支給は必要ない。それよりも、バイトの時にしか使わないメイク道具の代金でも支給してくれた方がありがたいのだが。

 そんな理屈や金額ではなく、店長の気遣いが、単純に嬉しい。




 差し出された財布を、アキラは全て拒否した。

「いや、俺はカツアゲじゃないし。お前らと違ってな」

 そういうアキラに、4人の男たちは土下座する。

「「「ほんっとーに、すんませんした!」」」

 こう見えて、と言うべきか。単純な基礎体力と筋力なら、アキラはかなり強い部類に入る。集団でしか喧嘩のできない相手に後れを取ることは無い。

「ほら、お前ら顔を上げろよ。……うわっ、ひでぇ顔だな。やったの俺だけど」

 ちょっと引くくらいにボコボコになった顔を見て、アキラは反省する。いくら何でもやり過ぎた。とはいえ、あそこまで執拗に絡んでくる相手に対して、他の対処法などない。自業自得と言えばそれまでか。

「じゃ、二度と俺の前に現れるなよ。お前らの身分証明書は写メったからな。もし警察にチクったら自宅住所が駐車場になると思ってくれ」

 と、心にもない脅し文句を最後に、アキラは自転車で去っていく。

(ここまで強い俺も、自転車じゃ女子に負けてるんだよな)

 単純な筋力では勝てない奥深さ。それからメカニックとしての楽しさ。両方を与えてくれる自転車とは、なんて奥が深い乗り物なのやら……

「――っと!うわぁ」


 ガタタンッ!


 道路のグレーチング……あの金属でできた格子状の蓋に、車輪が引っかかった。

 オンロード自転車のタイヤは、30mm未満の太さしかないことが多い。それに対してグレーチングは、場合によっては50mmほどの隙間を持つこともある。この隙間が自転車やスーツケース。そしてハイヒールや杖などを突っかからせる危険性がある。

 アキラはそれに、見事にはまり込んだわけだ。

(今日は災難だな。パンクはしていないようだけど……)

 と、自転車を見てみる。一見すると壊れたところは無いが、走り心地が悪い。何というか、タイヤが回るたびにブレーキがかかるような感覚だ。

(これは、一回ルリに見てもらった方が良いか)

 時計を見れば、まだ営業時間内だ。点検には時間がかかることもあるだろうけど、持ち込むだけでも効果はあるだろう。

(さて、行きますか)

 少し抵抗のあるペダルを力いっぱい回して、スピードを出してトアルサイクルに向かう。あの店は平日20時で閉店だからな。早くしないと間に合わない。




「店長、戻りました。ありがとうございます」

 休憩を終えて、店に戻ってきたルリが頭を下げる。その様子を笑い飛ばした店長は、

「じゃあ、あとは閉店まで接客お願いね。ぼくは纏めなくちゃいけない書類があるから」

 そう言って、バックルームへと入っていく。あまり接客が得意でないのか、店長が客前に立つことは少ない。整備士たちはよく客とマニアックな会話をしているのだが、店長はそんなことなかった。

(お客様の見方と、私の見方……)

 そんなことを、ルリはゆったりと考える。誰もいない店内で、流行りの曲のインストアレンジを聞きながら。

(私たちの言う『再調整』は、お客様の言う『修理』にあたる。調整されていないブレーキが役に立たないのは、私にとっては常識で、お客様にとっては非常識。ブレーキはついていたら使えると、お客様は考える……)

 実のところ、ショップのマニュアルと自分の考え方にも差があると、ルリは考えていた。きっと、マニュアルはお客様の目線にも合わせた内容になっているのだろう。

(常識がないのは、私だけ……ですか)

 そもそも常識とは何か?と自問自答するような歳でもない。そんな哲学は中学校に置いてきたはずで、今の自分は20歳。立派に成人しているし、こうして働いて給料も貰っている立場だ。子供じみた言い訳を繰り返す時期ではない。

(私は……)

 ルリは、この仕事についてから1年半、仕事で大きなミスをしたことがない。周囲の先輩たちとも仲良くやれているし、接客も……態度は悪いと言われるが、トラブルになったことは少ないはずだ。

(私は、よくやれていますよね?受けた報酬に見合うだけの成果を、私は上げていますよね……アキラ様)

 ふと、頭の中に思い浮かんだ顔は、アキラだった。一番ご贔屓にしている客で、友達でもある。でも、最近は会っていない気がした。

 カレンダーを見て、それが気のせいであることを確認する。どう確認しても3日前に学校で話したばかりだ。だとすれば、この3日間が長かっただけだろうか。最近、時間が経つのが遅い。まるで子供のころのようだ。

(最近、お店にも来てくれませんし……)

 と、思った時だった。一つの疑問がわく。

(あれ?そもそも私、アキラ様に初回メンテナンスのお話、伝えましたか?)

 あの日――アキラがクロスバイクを買った日。どうだっただろう。

 たしか、ローラー台で勝負した後、先に帰宅しようとした。その時にアキラから、クロスバイクの乗り方を教えてほしいと頼まれたのだった。もう夜だったから、簡単な乗り方の説明はしたが……

(言い忘れていたかもしれません……いえ、でも、あれは勤務時間外の事。それに本来は防犯登録などを行いながら、雑談ついでに説明しているはず……)


「店長。2ヵ月ほど前になりますが、アキラ様に初回点検のお話はしましたか?」

 気になったら止まらないルリは、一応店長に訊いてみる。

「んー?いや、言ってないね。そういうのはルリちゃんに訊いた方が良いんじゃないかな?って思ったからさ」

 なるほど。アキラが店に顔を出さない理由はこれで判明した。

「店長。そもそも、どうしてあの時、私に購入後の説明を任せたのですか?」

 本当に今更だが、聞いてみる。よく考えなくても、あの説明は店長がすべきだったのだ。あるいは他のスタッフでもいい。あの日のシフトはもう覚えていないが、まさか自分と店長しかいないなんてことは……いや、あるか。

「いやー、ルリちゃんが楽しそうだったからね。あんなに真剣にルリちゃんが接客しているの、あの日が初めてだったでしょう?まあ、アキラ君ほど真剣にお店で悩んでいたのも、珍しいお客さんだったけどね」

「……まあ、楽しかったですね。ビアンキを語るのは久しぶりでしたから……」


 なるほど。これで説明がついた。と、ルリは一人で納得する。

 最近アキラの事ばかり考えていたのは、初回点検に来る期間が遅いからだ。ちょっと会っていないだけで久しぶりに感じるのは、彼の乗るビアンキ ローマが心配だからだろう。

 アキラと少し話した日、もっと話すことがあったような物足りなさを感じていたのも、これが原因だ。これほど話すべき内容を残しておきながら、会話を切り上げる。だからまだ話し終わっていないようなモヤモヤが残ったのだ。

(次に会った時は、必ずアキラ様にお話をしましょう。明日、学校で……いえ、バイトが終わり次第、電話で)

 と考えているときに、店の扉が開いた。

「よう、ルリ。悪いんだが、自転車の調子がおかしいんだ。さっきグレーチングを踏んじまってさ。修理頼めるか?」

 噂をすれば、というくらいのタイミングで、アキラ本人が入ってきた。それも、問題のローマを引き連れて。

「あ、アキラ様。どうなさいましたか?」

 若干の動揺を見せつつも、平静を装って訊く。

「いや、走っているときに変な音がしたり、最近ギアの切り替えも遅くてさ。まさか壊れたわけじゃないよな?これ仮に壊れてたら、修理代とか高かったりする?」

(ああ、まさか……私が伝え忘れたばかりに、そんな……)

 ルリの中に、大きな罪悪感が膨らんでいく。事態を軽く見ているアキラは、ひょうひょうと話を続けていた。その言葉がルリの耳に届かない。頭が働かない。

「ルリ?大丈夫か?」

 アキラが訊くと、ルリは突然頭を深く下げた。あまりの速さに、整備用エプロンの中の工具がガチャリと揺れる。


「申し訳ありません。私の落ち度によるものと思われます。もしお時間頂けるなら、閉店後でも……何なら私が持ち帰ってでも整備し直します。どうか、お許しください。この通りです。お代も結構ですのでっ……


 全責任は私がとりますので、まずは車体を預からせてください」

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