第20話 ペース配分って大事なのか?
帰りは、ルリが前を走る。来るときと逆だ。
(すげー。なんて軽快に走れているんだ)
後ろを走るアキラは、軽く飛ばしていた。いや、そんな気がするだけで、大して速度は出ていない。20~25km/hという、かなり絶妙な時速だ。
それでも、ペダルを漕ぐ疲労感は無い。心肺機能に対する過度な負担も、これまたない。わずかに息が上がるが、足も腰も痛くないのだ。しいて言えば、肩が痛い。
(これが、巡航……つーか、ロングライド)
さすがに、日差しは熱い。それでも、まだ風を受けているだけマシだった。
「アキラ様。いかがですか?」
前方から、振り返ったルリが訊く。
「ああ、楽しいな。それに、体力的にも軽い気がするよ。ここって、中盤くらいのところだよな?」
アキラの問いに、ルリはサイコンを見て答えた。
「はい。現在、12km地点ですね。丁度、復路の折り返しと言ったところです。あと半分で帰れますよ」
「そっか。ずいぶん、楽に走ってる気がする」
「アキラ様が成長したのですよ。おめでとうございます」
と、おべっかを言うが、真相は別だ。
(私がペースを握っているのです。当然ですね)
ルリはドロップハンドルの端に、サイドミラーを仕込んでいる。この位置についているおかげで、小さいながらも後方を確認しやすいのだ。
ついてくるアキラの状態を細かく確認しながら、ペースをコントロールする。自分の心拍数とギアを固定して、常に同じ速度をキープ。たまに休憩のタイミングなどを、アキラに口頭で指示する。
「アキラ様。そろそろ、お渡ししておいた補給食を使う訓練をしましょうか」
「お、あれか」
事前に渡した、一口サイズの羊羹。コンビニなどでよく売っているものだ。
補給食、という考え方がある。自転車で長距離を走る人が使うものだ。
一説によれば、自転車を20km/hで1時間ほど走らせた時の消費カロリーは、およそ500kcalにもなる。ご飯2杯に相当するカロリーをたった1時間で消費する計算だ。もちろん、体重や路面状況、ライダーの腕前や気候にも左右されるが。
何も食べないで走り続ければ、血糖値が下がり、危険な状態になる。それを防ぐ役割として、チョコレートや羊羹などを食べるのだ。
「ところで、補給食ってどのくらいの頻度で食べるんだ?」
「さあ?人によりますけど、大概は小腹がすく程度の段階ですね。ちなみに、完全に空腹になってからでは手遅れです。胃袋に入ってから消化されるまでに時間がかかりますから、それを逆算して補給するのが良いでしょう」
ちなみに、食べる物にもよるが、大体30~60分に一回と言われていたりする。
「まあ、今回は食べるのも訓練だと思ってください。自転車を停めないまま、走りながら食べましょう」
ルリが背中のポケットに右手を入れ、羊羹を一つ取り出す。それを右手に持ったまま、左手であっさり封を切った。
この間、速度は全く落ちない。両手をハンドルから離して、余裕の表情で運転している。バランス感覚と、無駄のないペダリングの賜物だ。
ちゅるんっ
一口サイズの羊羹が、小さな口に吸いこまれる。ゴミはポケットに再び入れておく。自然環境に配慮する意味もあるが、そもそもこの程度のフィルムでもスリップの原因となるのだ。ロードバイクのタイヤにとって、小さなゴミすら事故の元である。
アキラもルリの真似をして、ジーパンのポケットから羊羹を取り出す。若干潰れている気がするが、パッケージは傷ついていないからセーフ。
それはそれとして、
「ルリ。トラブルだ」
「どうしました?」
「ハンドルから両手を離せない」
「は、はぁ……そうですか」
クロスバイクやロードバイクの場合、前傾姿勢で走るのが前提になる。そのため、サドルは後ろに寄せて取り付けられているのだ。この状態でハンドルを離せば、重心は後ろに傾く。すると前輪はグリップを失い、コントロールが効かなくなりやすい。
もっとも、アキラの場合はそれ以前の問題。左右にバランスが崩れているせいだと思うが。
「片手でも食べられると思いますよ。歯を使って封を開けてください」
「あ、それでいいのか。うーむ……でも、ルリみたいに格好よく両手で開けたい」
「格好いいかどうかはさておき、両手放しでの運転は自然と身に付きます。走っているうちに出来るようになりますよ」
「そうなのか……あ、でも練習法とかあるんだろう?ネットで見たけど、手を交差させてハンドルを握ると、両手放し運転ができるようになるとか……」
「絶対にやめてください。非常に危険なだけならともかく、変な癖までつくので自転車がどんどん下手になります。やればやるほど悪影響を生む練習です」
「え?そんなのあるの?てっきり難しい練習をすれば訓練になるのかとばかり……」
ルリは軽くため息を吐く。頭をガックリと下げて、ハンドルの下を握ってうなだれた。
「日本人の悪い癖ですね。効率を重視せず、ただ苦労することに価値を見出してしまう。例えば、野球ボールの代わりに砲丸を投げれば、エースピッチャーになれますか?」
「いや、力み過ぎてワイルドピッチ連発するだろ……あ」
「そういう事です。まあ、曲芸師になりたいなら話は違いますけどね」
ちなみに、手を交差してハンドルを握ると、バランスを取る動作が左右で逆になる。すると転倒する危険が上がるだけでなく、普通に乗った時にバランスを取れなくなるのだ。必要以上に前傾姿勢を取るので、車体にも負担をかける。
「そんなことより、普通に走る練習をしてください。そのうち出来るようになりますから」
「そうだな。じゃあ、今日のところは歯で開けるよ」
フィルムの端を前歯で咥えて、右手で千切るように開ける。そのまま片手で羊羹を押し出し、口に放り込む。
甘い。疲れた身体に染み込む。
「ところで、なんで羊羹なんだ?」
「理由は、3つあります。一つ目の理由は、携帯しやすい事」
ゼリータイプや、液状。あるいはブロックタイプでもいい。ただ、持ち運びやすさを考慮するなら、候補はそのくらいにとどまる。まして、自転車で走行することを考えると、振動や衝撃、熱や直射日光に強い食品が求められる。
「二つ目の理由は、糖分が高い事。これはハンガーノック対策ですね」
血糖値が下がると、脳に糖分が行かなくなる。すると、思考回路だけでなく、自律神経まで機能低下を引き起こすのだ。これがハンガーノックと呼ばれる現象。手足のしびれや震えが発生し、最悪の場合は失神、そして落車。命にかかわる場合もある。
まあ、そこまでお腹がすくほど走るのは、一般的にはあり得ない。レースに出るときや、非常に長い距離を走るときに意識する話だ。
「三つ目の理由は、私の個人的な好みです。どうせなら美味しい方が好きですから」
「ああ――まあ、うん。そっか」
これに関しては説明不要。
「ちなみに、水分補給も喉が渇く前にしてくださいね。常に消化するまでに時間がかかることを意識してください」
徐々に道が開けてきて、町並みが変わってくる。先ほどの農村から、住宅地へ。そして、市街地へ。
「なあ、ここって、もうすぐゴールか?」
「はい。あと10分もかかりませんよ」
まるで机にそうするように、ハンドルに両肘をつくルリ。そのまま手を組んで顎を乗せる姿は、自転車に乗っていると思わせない体制だ。
「ほんと、器用だよな」
「ええ、そうでしょう」
「謙遜はしないのか」
とはいえ、ルリの走り方を見ていると、ロードバイクに対する気持ちも変わってくる。
あのハンドルは、頭を前に突っ込んで、体重を腕で支える過酷なものだと思っていた。レーサーは全員、腰を痛めながらも前にかがんでいるものだろうと決めつけていた。まあ、実際にそういう選手もいるのだが、ルリは違う。
本当にリラックスした状態のまま、まるでベッドに寝そべるように上体を曲げる。これを見ていると、あのドロップハンドルの方が楽に見えてくるくらいだ。
「なあ、ルリ。そのハンドル、楽か?」
「そうですね。慣れてしまえば楽です。もっとも、ある程度不安定な乗り物なので、最初から楽に乗れるものではありません」
「そっか……ちなみに、ストレートバーハンドルとどっちが楽だ?」
何となくドロップハンドルがうらやましくなったアキラは、思い切って訊いてみる。ルリは少し悩んでから、
「私の主観ですが、まっすぐ平らな道を走る分には、ドロップの方が楽です。ただ、曲がりくねった道を走ったり、ギアをこまめに切り替えるなら、ストレートバーの方が簡単ですね。体力の消費も、やはりシチュエーションによると思います」
と、素直にニュートラルな答えを示す。
「ただ、腰の骨の角度は重要になってきますね。人間の脚は真下に向かって動くとき、一番力を発揮するように作られています。なので、仙骨まで前に倒すと力が入りにくいとも言われます。まあ、その方が空力抵抗も少ないのですが、ね」
ルリの場合、回転型だからこそ、脚に力を求めない。そのためか、上半身と同じくらいに腰を倒すフォームを使っているようだが、これはあまりいい方法ではないらしい。
ちなみに、そのフォームのおかげでアキラがずっと目のやり場に困ったのは余談である。
「俺も腰骨の角度を考えてみた方が良いのかな?どこの骨か分からないけど」
「そうですね……クロスバイクの場合は、そこまで考えなくても大丈夫だと思います。これもストレートバーの特徴ですね。あとは……地面の傾斜にもよるのですが、詳しくはいずれ話しましょうか」
本日のスタート地点。サイクリングロードの端まで戻ってくる。ここで急激に道が途切れているのは、改めて見ると不気味だ。
「さすがに疲れたなー。つーか、止まったら急に疲れが出た気がする」
自転車を降りたアキラが、大きく伸びをする。同じ姿勢をずっと取っていたので、筋肉が固まっていた。本当は、定期的にストレッチをしながら走るのが効率的だ。両手がハンドルから離せれば、だが。
「そんなものでしょうね。私も経験があります」
「ああ、やっぱり乗ってるときって気にならないよな」
「はい。でも、この疲労感も含めて、私は自転車が好きです」
なんだか分かる気がする。
今日一日で、ずいぶん走った。サイクリングロードだけで往復50kmもの道のり。自宅からスタート地点までも、片道3km近いはずだ。
ギアの事、ペース配分の事、個人のスタイルの事。いろいろと覚えることは多いが、ゆっくり覚えていこう。そうアキラは思った。
「今日は、ここで解散しましょうか。明日からまた講義があるでしょうから、ゆっくり身体を休めてください」
「ああ、そうだな」
ルリに至っては、明日からまたバイトもある。大学とバイトと趣味をすべてこなしているわけだから、単純に凄い。
「今日は、ありがとうな」
「え?」
唐突に礼を言われたルリは、きょとんと眼を見開いた。とはいえ、ほとんど普段と変わらない程度だが。
「自転車について、いろいろ教えてくれただろう。だから、ありがとう。本当は忙しいのに、バイト休んでまで俺に合わせてくれたのかと思ったら、なんか嬉しくて、少し申し訳なくてさ」
そもそも、アキラとルリの関係は何だろう?同じ大学に通う同学年。ただし、学部が違う。店員と客という関係でもあるが、それだけでこんなに丁寧に自転車指導してくれるサービスは無いだろう。
ただ、自転車を乗っているもの同士。と言っても、これまた実力も違えば、乗っている車種も違う。
それでも親切に、こうやって自転車を教えてくれるルリは……
「友達ですからね」
「友達だから?」
「はい。アキラ様は、普段から多くのご友人に囲まれているでしょう?一方の私は、普段はアイちゃんと二人きり……いえ、アイローネと二人きりですから、友達は少ないのですよ」
「アイちゃんって呼び方は言い直したのに、自転車を一人と数えるのは訂正しないのか」
「まあ、アイローネを人数に数えるかどうかは、一旦置いておきましょう。自分で言ってて寂しくなってきました」
「お、おう。俺もツッコミを入れるべきじゃなかったと後悔し始めてきたところだ」
ちょっとだけ、ルリが笑った気がした。気のせいかどうかを確かめる前に、ルリは後ろを向いてしまう。何で笑顔を見せてくれないのだろう?その顔は自転車にしか見せられないのだろうか?
「アキラ様。また、サイクリングに付き合ってくれますか?もちろん、その時も指導させていただきますので……私も、あまり偉そうなことは言えませんけどね」
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