第22話 フレームって曲がるのか?

 トアルサイクルは閉店後、本来ならそのまま終業。従業員は全員帰宅する。残業や、特別な片付けがあれば話は別だが、本日に限ってそれは無い。

 あるとしたら、ルリ一人だけだった。

「じゃあ、ルリちゃん。俺は帰るけど、頑張ってね」

 と、年若そうな男性従業員が手を振って言い

「ぼくも帰るから、鍵は閉めてってね。あと、この件は本社に絶対内緒だよ。その約束込みで店を貸すんだからね」

 店長が念を押す。

「分かりました。お疲れ様です。立花さん。店長」

 ルリが一礼して二人を見送り、やや時間をおいてくるりと振り返った。

「さて、アキラ様。本日はひとまず、私のアイローネをお使いになって帰宅してください。私は残って、アキラ様のローマを修理します。可能であれば明朝までお届けしますので、ご安心ください。もし修理ができなかった場合は、引き続きアイローネを……」

「いや、待てって。何もそんなに急がなくても、ゆっくりやってくれれば……」

「……いいんですか?」

「え?」

 ルリは、アキラを睨むように見据える。本人にそんなつもりは無いのだろうけど、そこそこ怖い。

 自分が殺されるんじゃないかと思うような殺気ではない。むしろ逆に、怒らせたらルリ自身が消えてしまいそうな殺気だ。先刻のチンピラ数人を潰したアキラさえ、このタイプの睨みは怖い。

 その恐怖を察してか、

「失礼しました。怖がらせるつもりはありませんでしたが、不愛想が地なので」

 スッといつもの無表情に戻ったルリが、眼鏡を上げるような仕草をする。ちなみに今のルリは裸眼である。というか、普段から裸眼である。


「アキラ様は、明日も学校ですよね。まあ、私もですが」

「ああ、そうだな」

「自転車、無いと困るでしょう?」

「……まあ、そうだな」

 歩いていけない距離ではないにしても、面倒な距離ではある。

「そんな時、自動車なら代車を貸し出すサービスがあります。中には無料で貸してくれるお店もあるでしょう。それならドライバーは出勤に困りません。問題は、自転車の場合です。代車はおろか、有料のレンタカーサービスさえ、無いのです」

 少なくとも現代日本において、仮にレンタサイクルがあったとしても、観光地などに限られる。ましてクロスバイクの代わりに十分使えるものとなると、なかなか見つからない。

 これが中国でもあれば、シェアサイクルやレンタサイクルは多数あるのだが、今それを言ったところで何の解決にもならない。

 こういう時、トアルサイクルも含めて多くの自転車店が、手も足も出ない状態になる。場合によっては数日預かっておいて代車無し。そういうパターンもあるため、本格的な自転車通勤者ツーキニストになると、自転車を2台持つのも珍しくない。

「せめて、アキラ様の自転車くらいは、私が個人的に保障したいのです。今回はアキラ様に、謝らなくてはならない事もありますから」

「初期点検の事だろ?」

「はい……」

 さっきも聞いたし、さっきも謝ってもらった。それでもこうして申し訳なさそうに視線を下げ続ける辺りは、真面目なんだか、ネガティブなんだか。

「いいよ。つーか、今回の故障は多分、点検不足じゃないぞ。グレーチングに引っかかったから、そのせいだって言っただろう?」

「はい。それでも……」

 ルリは納得しなかった。どうしよう?まさか本当にアイローネを借りていくわけにもいくまい。ルリが帰れなくなる。そもそも徹夜で修理するような重症だったら、明日はルリの講義に支障が出る。

「よし、じゃあ、こうしようぜ。ルリが俺の車体を治してくれるまで、俺もここにいる」

「え、でも、症状を見てみないと、どのくらい時間がかかるか分かりません。そもそも明日までに治せるかどうか……」

「大丈夫だよ。ルリなら悪いようにはしないだろう?それに、俺はドロップハンドル使えないからさ。アイちゃんは俺には乗りこなせない」

 アキラがそう言うと、ルリはそっと、アキラに抱き着いた。その細腕が、アキラの腰を一周する。

「アキラ様……」

「え?ルリ。これは……」

 アキラの胴体に、何やら柔らかいふくらみが当たる。顎にぶつかりそうな頭は、ほのかに良い匂いを鼻先に運んでくる。胸に当たる温かい吐息が、少しだけ湿っぽく、火傷しそうなほど熱い。

 そして、後ろに回した細腕が、背骨を折るように食い込んでくる。


 ――ボキッ!ベキベキ……パキャッ!


「ぎゃぁぁあああ!ルリ、痛い。痛い」

「アキラ様……私はアイローネの事をアイちゃんなどと呼ぶほど子供ではありません」

「わ、分かった。分かったから離してくれ」

「分かればいいんですけどね」

 さっぱり分からない。ルリがどこでキレるのか一切不明だ。

「まあ、アキラ様がそう言うなら、私も解説しながら仕事をしましょうか」

 整備用エプロンを締め直したルリは、店内にあったハンガーを手に取る。高さ150cmほどのハンガーは、自転車を宙づりにしておくための装置だ。

 アームの先端にローマのフレームを引っ掛けて、レバーを引くことで挟み込む。細かい角度を調整して水平にしたら、準備完了だ。

「衝撃を受けた時に、まず点検してほしいのがフレームです」

「おう、どこを見るんだ?」

「全体ですね。塗装が剥がれていたり、皺が寄っていたり、あるいはひび割れていたり……そういうところを探してください。車輪との間や、普段は見づらい隙間なども忘れずに」

 ルリが乾いた布を持って、砂ぼこりや泥を磨きながらチェックしていく。たまにスプレーしているのは汚れ落としのようで、車体に直接吹くのではなく、布に染み込ませるように吹いている。

「ちなみに、ひびが入っていたらどうするんだ?塗装し直したりするのか、それとも錆止め?」

「いえ、廃車です」

「はい?」

「廃車です。こちらで購入いただいた車体ですので、処分も無料で請け負いましょう」

「え?いや、そんな大事おおごとなの?」


 こういう説明をするとき、実はルリが一番心苦しかったりする。車体は消耗品。そう理解しているものの、やっぱり気分のいい話ではない。

「どこかに擦ってつけた傷なら、それは問題ないです。アルミなので錆びる心配もありませんから。ただ、問題は皺やひび割れです。これらは土台となる金属自体に変形がない限り、発生しえません」

「逆に言えば、発生していたらフレームが歪んでしまったことになるわけか?」

「はい。そうなってしまうと、矯正をかけることが困難になります。また、矯正しても危険ですので、あまり推奨できません。メーカーが言うには、一度事故を起こした車体は変形の有無にかかわらず廃車にするように、とのことです」

 喋りながらも、車体に顔を近づけて、真剣に状況を探る。必要によっては車輪を外し、場所ごとに丁寧に見ていくルリ。その吐息で一瞬だけフレームが曇り、すっと戻っていく。

「フレームが曲がったなら、力ずくで曲げ返すわけにはいかないのか?」

 アキラが訊く。その質問自体が作業の邪魔になるかと心配もしたが、ルリは丁寧に答えた。

「まあ、それがフレーム矯正の基本になりますね。ただ、金属疲労により破断する可能性も否定できません」

「きんぞくひろう?」

 聞いたことがあるような、無いような……そんな言葉に、アキラは首をかしげる。


「まあ、分かりやすく言いますと、金属に一定の負担をかけた時、その場所の元素同士に隙間が生じたり、小さな亀裂が入ったりして、強度が落ちます。もちろん、そのままお使いいただくと、ぽっきり折れます」

 レジカウンターに入っていったルリが、クリップを取り出す。書類整理などに使う、針金を3回折り曲げたものだ。

「これが、金属の棒です。試しに伸ばしてみます」

 グニャグニャと曲げられて、一本の針金に戻っていく。これでもうクリップとしては使えない。紙飛行機の時にも思ったが、店の備品を雑に扱い過ぎではないだろうか。

「この針金は、細くてもある程度の強度はあります。一応金属ですから、引っ張っても千切れません。ハサミでも切断は難しいでしょう。では、これをもう一度クリップの形に戻します」

 再び曲げられて、いびつなクリップが出来上がる。最初よりずいぶん歪んでいるが、一応クリップだ。

「はい。これを何度か繰り返します。先ほど言った通り、本来なら人力で千切ることは出来ない強度ですが……」

 何度か繰り返しているうちに、パキンと折れる。


「この通り、曲げて伸ばしてを繰り返しているうちに強度が足りなくなり、私のようなか弱い女性でも折れるようになります。これが金属疲労です」

「なるほど。ルリがか弱いってところ以外は納得した」

 つまり、フレームも歪んだ後に矯正すると折れる可能性があるという事だろう。ましてクリップより大きな重量を支え、強い衝撃にさらされるのだ。危険なのも分かる。

「っていうか、その理屈だと走っている振動でさえ、少しずつ劣化させる原因になるんじゃないか?」

「鋭いご指摘ですね、アキラ様。実は自転車は、あまり長い期間を使い続けることができない乗り物なのですよ。速度や環境、あるいは保管状態や走行距離によりますが、寿命はあると言われています」

 再びローマの下に潜り込んだルリが、車体下面部の泥を落としながら話す。その顔に、ポロポロと汚れが落ちて付着する。目に当たりそうになった泥を避けながら、ルリは話を続けていた。

「一説によれば、アキラ様のようなアルミフレームで3年。カーボンフレームで6年。私のようなクロモリ合金フレームで50年と言われています。もっとも、保存状態や走行距離に左右されるので、目安にもなりませんけどね」

「いや、クロモリ凄いな。聞いたことないけど」

「クロムとモリブデンを、スチールに対して配合した合金です。厳密にいえばスチールの配合比率が高いので、工業的には『スチール合金』と呼称するべきなのでしょう。ですが、自転車の性能的には『その他のハイテンションスチール合金』とは比べ物にならない乗り心地を持ちます。それゆえに『クロモリ』と『ハイテン』は別物として扱われていますね。自転車だけの話ですが」

「そ、そうなのか?」

「はい。ちなみに、マンガンなどの金属を使う場合もありますが、これも軒並み『クロモリ』の愛称で統一する場合があります。工業系の呼び名では『金属元素の成り立ち』が重視されるのですが、商品的には『使い心地』が重視されるのですよ」

「えっと……業界によって線引きが違うって事か?でも、それって詐欺っぽいと言うか、騙された気がするというか……食品偽装問題みたいじゃないか?バナメイエビを芝エビと偽るような……」

「うーん。食品に例えるなら、タラバガニを蟹として調理するのに似ていますね。あれは生物学的にはヤドカリの仲間なのですが、食品的には蟹として扱われます」


 車体の点検を終えたルリが、自転車の下から出てくる。ジャッキアップした自動車の下から出てくるような風情だ。せっかくの美人が台無しになっているのも含めて。

「ルリ。顔がやばい。泥だらけだぞ」

「はい。あとでメイクを落とすついでに洗っておきますから、ひとまず大丈夫です」

 そう言ったルリは、ディグリーザーを手に取る。自転車を磨くときに使う洗浄液の事で、スプレー缶の側面には、

『手袋を着用したうえでご使用ください』

『皮膚についた時はぬるま湯で洗い流してください』

 などの注意書きが並ぶ。ルリはそれを躊躇なく自分の手に吹き付け、雑巾で拭い始めた。

「あ、これは真似をしないでくださいね。ディグリーザーで手を洗った場合、湿疹や手荒れ、もしくはアレルギーの原因になるそうです。私は何度も繰り返しているので、大丈夫な体質であることが判明していますが、ときどき痒いです」

 油と泥で真っ黒に汚れた手が、真っ白に戻る。とはいえ、関節や爪の淵が赤く腫れあがっているのも確認できた。確かに推奨できた行為ではないのだろう。それでもルリがこの方法を取るのは、手っ取り早く手を綺麗に出来るからだ。

 汚れた手で車体に触れるのは、店員としての矜持が許さない。特にハンドルやサドル周りに触れる場合は、細心の注意を払う。

「よかったですね。ひとまずフレームは無事のようです。ミリ単位の計測となると、当店では不可能ですが……」

「いや、よくないだろう。なんつーか、自己犠牲が過ぎないか?」

「……いえ、作業を効率化しているだけですが?」

 心の底から言っているようで、アキラの中にはモヤモヤが溜まる。

 ルリとしては、無謀な作業をしているつもりはない。何度か試している作業を、今日も同じように実行しているだけだ。ただ、アキラにはそれが理解できないし『自分の車体のためにルリが傷ついている』とさえ思えてしまう。

(まあ、元はと言えば俺がローマを壊したせいだし、ルリに当たるのは間違ってるんだけどさ……これじゃ俺がルリに無理をさせてるみたいな……いや、事実か)

(などと、アキラ様は心配しているのでしょうね。私にとっては通常業務でやっている範疇ですし、普段からプライベートでも繰り返している事です。しいて言えば、営業時間外なのは唯一の特別サービスなのですが)

 と、お互いの認識に根本から齟齬が生じる。


「アキラ様」

「ん?何だ?」

 モヤモヤのせいか、アキラの返事がぶっきらぼうになる。アキラ自身、これはまずかったなと思った。しかしルリはそれを一切気にしない様子で、話を続ける。

「せっかくですから、ゆっくりお話ししましょうか。もちろん、明日の講義に響かない範疇で」

「え?」

 ルリが、少しだけ笑ったような気がした。この2カ月で分かったが、そんな表情のルリを見ることは滅多にない。その珍しい笑顔で、ルリは周囲を見回す。

「閉店後のバイト先。閉じたブラインドシャッター。灯りの消えた店内で、この整備スペースだけ照明がついていますね。私は毎日この店に来ていますが、こんな光景は珍しいのです」

 たしかに、そうだろうとアキラも思う。ルリは少し芝居がかった調子で、くるりと店内を歩く。

「日常の中の非日常……とでも言いましょうか。そこで、アキラ様と二人きり。大好きな自転車を囲んで、私の好きな整備の話をする。実はそういうの、好きなんです」

 普段は早口なルリが、この時は妙にゆっくりと喋っていた。

「アキラ様にとっては、それどころではないかもしれませんね。ご自身の愛車が故障しているのですから、焦る気持ちは分かります。だから、これは私のわがまま――このまま、ゆっくりと語りながら、整備していきませんか?」

 ルリは、本当に楽しそうだった。アキラの中のモヤモヤが、少しずつ晴れていく。

「そうだな。ルリがそれでいいなら、頼む。俺は聞き役に徹するくらいしか出来ないかもしれないけどさ。あ、あとは力仕事くらいか?」

「お手伝いいただける心遣いだけで、十分です。それに、アキラ様を相手に話していると、私も何故か楽しいんですよ。大学では浮いた存在ですし、同年代の人とこうしてお喋りするのは、少し珍しいので」

「自称クール&ミステリアスなんかやってるからだろ。近寄りがたいんだって」

「ふふっ、そうかもしれませんね」

「その目を閉じて声だけで笑うやつも、なんか本気で笑ってる気がしないんだよ。そういうキャラを気取ってんだろうけど」

「え?いえ、これは素です」

「素なのかよゴメン」

 アキラが謝ると、ルリがまた喉と鼻息だけで笑う。そっか。これがルリの笑い方なのか……まあ、大口を開けてゲラゲラ笑ったり、腹を抱えてのたうちまわるルリなんかイメージできないが。


(でも、本気で笑ったルリっていうのも見たいよな)

 心の中で、そんな気持ちが灯る。どうしても、ルリが笑い声をあげるのを聞いてみたい。くすくすと息を漏らすように笑うのか、それとも甲高い声で喉の奥から笑うのか。まさか以前みせた「ふふふっ」てのが本気じゃないだろうし。

 一度、腹がよじれる程の――とでも形容させるくらい笑わせたい。

(よし、やるか)


 ――ガタッ!


 意を決したアキラは、立ち上がって言う。

「細かすぎて伝わらない物まね。がっぷり四つで組み合って動けなくなった力士に、発破をかける『行司・木村玉治郎(六代目)』」

「え?あ、アキラ様?急にどうしました?」

 ルリは首をかしげたが、ノリノリのアキラはやや腰を落として、軍配に見立てた手のひらを立てる。


「見合って見合って――はっけよーい!

 なか、なかっと!んなか、なかなかっと!なかっ、

 ……よーい、はっきよぉい!……よーい、はっきょーい!

 ……よーい、はっきよ――なかっ、んなかなかっと。なかっなかっ」


「え?」

 ルリが心の底から発した、息の漏れかけた重い「え?」である。

「俺、ちょっとコーヒー買ってくる」

 真っ赤になった顔を見られないように、そっとアキラが背を向ける。

「は、はあ……お気を付けて」

 違うんだ。ただ、ルリの笑顔が見たかっただけなんだ。なのに今は恥ずかしくて、普段の顔もまともに見られない。どこで俺は間違ってしまったんだ。次に彼女に会うとき、どんな顔をして会えばいいんだろう。アキラ・心のブルーズ――




「さて、フレームは大丈夫でしたが、問題は後輪ですね。リムが確実にぶれているし、スポークも破断している……700C用のアルミスポーク、お店に残ってたでしょうか?

 いえ、どうしてもの時は、私のアイローネから移植してでも修理するしかありませんね。


 もしもの時はゴメン、アイちゃん」

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