第18話 巡航ってどうやればいいんだ?
3台の自転車が、ごちゃっと固まって走る。先頭を行くのはアキラのローマ。後ろにつくのがルリのアイローネ。どちらも10万を超えるスポーツバイクだ。
その周りをちょろちょろと付きまとうのは、ユイのビレッタ。ママチャリではあるが、改造費含めてざっと15万を超える。このメンバーの中では最高級車だ。
そのビレッタに乗ったユイが、アキラの隣に出てきて言う。
「まずは、速度をアホみたいに上げてみるのでござる。アキラ殿の限界まででいいのでな」
「お、おう。分かった」
アキラがギアを上げて、荒っぽく走り出す。まだ粗削りなペダリングだ。回転数が上がりきる前にギアを変えてしまっているため、脚への負担が大きい。腰も浮く。ルリがローラー台で教えたことを忘れたわけではないが、実践できていない。
それでも……
(速い……持ち前の筋力のせいでしょうか?)
後ろを走るルリは、サイクルコンピューターと呼ばれる機械に視線を落とす。これは文字通り自転車を管理するコンピューターで、通称サイコンと略される。スピードメーターのようなものだ。
ハンドルに画面を取り付け、自転車の各部にセンサーを取り付けることで、走りの詳細を知ることができる。残念ながらルリの持っているのは安物なので、速度と時間くらいしか測れないが、
(ピタッと後ろをついて走る私が、時速40キロ。という事は……アキラ様も同じ速度を出しているはず)
サイコンの表示は40.8km/hと出ている。誤差はあるだろうが、これは初心者にしては驚異的な速度だ。何より、ルリとの対決でローラー台を使った時より速い。これも誤差の範囲だろうが、たった数日で成長している可能性は否めない。
「うおおぉぉぉ……無理。もうダメ」
アキラがペダルを止める。自転車は見る見るうちに減速していった。と、そこでユイから激励が飛ぶ。
「まだでござる。アキラ殿。変速ギアを下げて、再びペダルを回すのじゃ。空回りでも構わぬ」
(変速ギアを下げて……?)
アキラがギアを思いっきり下げる。ペダルが軽くなるが、それは車輪に力が加わっていないときの感触だ。つまり、本当に空回り。
「そのまま、ギアを少しずつ上げるのでござる。靴の重さだけでペダリングする感覚でござるよ。少しでもペダルが重いと感じたら、すぐにギアを戻すでござる」
「わかった」
20段変速とは、後ろが10段、前が2段あるギアを掛け合わせて使うものだ。
まずは後ろをシフトアップ。このスピードなら、最大まで上げても大丈夫そうだ。なので、前をシフトアップする。ペダルが急に重くなり、脚に大きな負担がかかる。
(やっぱ、前の変速はきついな。後ろの数倍は重くした気分になるぜ)
なので、同時に後ろの変速ギアを3段ほど戻す。
それでも、自転車の速度は落ちる一方だった。またペダルが重くなる。アキラはさらに2段、後ろのギアを落とす。
(あ、あれ?)
その時、アキラの感覚に変化が訪れた。
ペダルが、勝手に前に進む。力を入れていないのに、靴の重さだけで回転する。
足を止めるより、よほど気持ちいい。体中の力が抜けるのに、それでも自転車だけが勝手に前に進んでいくような気分。
それを、ルリも見極めていた。
(なるほど。たしかに、暫定的に巡航自体を味わうなら、これでいいのかもしれませんね)
アキラは今、本当の意味で『巡航』を味わっている。大した力も使わず、すっと走るような感覚を――
その証拠に、アキラの身体から変な力みが消えた。それまであったはずの重心のブレが消えて、サドルにリラックスした姿勢で座っている。
(もっとも、こんな方法で巡行が、誰でもできるとは思えませんが……アキラ様の特性でしょうか?)
ユイの言っていた攻略法が、割と雑なのは否めない。
「アキラ様。現在21km/hです」
そこから、速度が下げ止まった。同じ速度を維持したまま、ずっと走り続けている。
「21キロ?……それって」
「はい。アキラ様の、暫定的な巡航速度です」
それは、思ったほど速くはない。別に改造していないママチャリだって、本気を出せば走れる速さだ。重要なのは、それを体力消費せずに出しているという事。
「ふむ……丁度この辺は、平坦な道でござるな。風もないようでござるし、綺麗に走っておる。これが巡航速度で間違いないでござろうよ」
周囲の状況から、ユイも結論を出す。
高級な自転車となると、単にトップスピードが速いだけと勘違いする人もいるだろう。しかし、それだけがクロスやロードの価値ではない。この体力を使わずに移動する感覚も、またオンロードバイクの特性だった。
余談だが、トップスピードだけならクロスバイクも競技用ロードも大差ない。
「すげぇよ。ルリ。ユイ。これなら俺、どこまでも走れそうだ」
「そうでござろう?今のアキラ殿なら、自転車で県境を超えるようなサイクリストの気持ちが分かるはずでござる」
「水を差す用ですが、同じ姿勢を維持するのもまた大変ですから、たまには巡航以外の走り方もしないと逆に疲れます」
ルリが言う。アキラは振り返らないまま、ルリに聞いた。
「あれ?そうなのか?俺はこのままでもいいと思ったけど」
「確かに、今のアキラ様はリラックスしていますよ。でも、人間は同じ姿勢でリラックスを続けるのが難しいのです。例えば、寝心地のいいベッドでも寝がえりは打ちますし、座り心地のいいソファーでも足を組み替えるでしょう?」
言われてみれば、この巡航も少しずつ辛くなってくる。同じ筋肉を使い続けているからだろう。
「たまった乳酸の除去。そして上半身への負担の分散。そのために少しフォームを崩すのも大切です。そうやって身体をリフレッシュしたら、また巡航に戻るんです」
「ふむ。たしかに一理ある。ではアキラ殿。もう一度速度を上げてみるのはどうでござろうか?ダンシングでござる」
ユイの提案に、アキラは首を傾げた。
「ダンシング?踊るのか?」
「いや、違うでござるよ。立ち漕ぎでござる。ルリ姉から説明を受けてないでござるか?」
「あれ?聞いたっけ?」
アキラに確認されて、ルリは首をかしげる。何しろ、ルリにとっては常識の範疇なのである。わざわざ説明する事でもないとさえ思っていたし、だからこそ説明していなかったかもしれない。時々あるうっかり。
「失礼しました。私たちの業界では、立ち漕ぎをダンシング。座ったまま漕ぐことをシッティングと言います。これを機に覚えて下さい」
「うむ。やはりカタカナ語の方が、かっこいいでござるからな」
ござる口調のお前が言うのか。と突っ込んだら負けなのだろう。
「よし、じゃあ早速、ダンシングで行くぜ」
アキラが再び速度を上げる。加減を知らないのか、また意味もなく最高速度である40km/hを叩きだした。
(毎回、そこまで加速する意味は無いのですけどね)
(アキラ殿、楽しそうでござるな)
せっかくのサイクリングロードなのだから、こういった楽しみ方もあっていいだろう。そう考えているうちに、アキラが再び体力を使い果たす。
シッティングに切り替えて、先ほどの巡航速度に戻す。熱くなった身体が風に冷やされていく。疲れた脚もまた、回復していく。ペダルは基本的に回し続けているはずなのに、どうして回復するのだろう?
何となく、分かった気がする。使う筋肉が違うんだ。巡行しているときと、速度を上げているとき。全く違う筋肉を使っているから、片方を使っているときにもう片方が回復する。恐らくそんな感じだ。
「ルリ。分かってきたぜ。これをずっと繰り返せば、どこまででも走れるんだな?」
「はい。ただ……そこまで極端に速度を変えると、かえって疲れると思いますが?」
本当なら、シッティングを重視して速度を維持。ダンシングする時も、そこまで本気で漕ぐ必要はない。大事なのは一定の速度で、体力に頼らずに走ることだ。
まあ、でも、
(いいでしょう。今日くらいは――)
いきなり沢山の事を教えても意味がない。学校の勉強と違って、理屈だけを理解しても意味がないのだ。体に染みつくまで、時間はかかる。今は分からなくても、そのうちに理解してくれればいい。
(あるいはアキラ様の場合、先天的な『スプリンター』なのか……)
と、生まれ持った才能の可能性も頭をよぎる。
長い長い道を、ひた走る。自動車の通らない、自転車だけの細い道を……
途中で、道端の草が伸びていたり、雑草がアスファルトを突き破っていたり、川の合流地点で道に迷いかけたりする。川同士が合流するたびに、急カーブして橋を渡る。徐々に道は悪くなっていき、町から少しずつ外れていく。
景色も、がらりと変わる。アパートやショッピングセンターが並ぶ市街地から、コンクリートブロックの塀が目立つ住宅街。そして垣根を並べる古い住宅地。農村らしいビニールハウスの羅列。
数十分ほど走っただろうか。ずっと最後尾をキープしていたルリが、対向車線に出てアキラに並んだ。
「アキラ様、次の交差点でゴールです。お疲れ様でした」
「え?マジで?」
前方に信号機が見える。サイクリングロードはそこまでのようだ。
「ちなみに、このサイクリングロードは全長25kmほどの長さがあります」
アキラが最初に足を攣ったのが、たしか10km地点だ。そこから巡航を覚えて15kmほど走ったが、特に足の痛みなどは無い。
「これこそ巡航のいいところでござるな。余計な痛みを感じず、ただ心地よい走りだけを楽しめたでござろう?」
「ああ、そうだな」
疲れていないと言えばさすがに嘘になるが、嫌なタイプの疲れではない。何といったらいいのやら、これだけは文章化することができないだろう感覚だ。
夏の日差しの暑さも、汗が風で飛ぶ心地よさに。
わずかに痛む脚も、伸ばしたときの快感に。
呼吸が乱れる苦しさも、深く息を取り換える新鮮さに変わる。実は脳内麻薬でも出ているだけじゃないかと思ったが、言わないでおこう。心地よいことに変わりはないのだから。
「ところでアキラ様。お腹がすきませんか?」
「ん?ああ、そう言えば、めっちゃすいてる気がする」
カロリー消費が多いというのは、自転車の特徴だろう。短期間でダイエットでもしたいなら効果は絶大だが、そうでないならきちんと食べないと持たない。特にルリのように元から細い娘は大変だ。これ以上痩せてどうするという話。
時間的にも、丁度お昼時だろう。
「この近くに、新しく出来た喫茶店があるんです。ランチメニューがわりと豊富で、美味しいお店だという話なのですが……」
「おお、それは良いでござるな。3人で行こうぞ。ルリ姉のおごりで構わぬか?」
当然のように割って入ったユイを、これまた当然のようにルリが押しのける。
「ユイさんはここでお別れですね。お疲れ様でした」
「え?待ってルリ姉。どうして拙者を仲間外れにするでござるか?」
「お帰りが遅くなると、また
「まだ昼でござろう?それに、父上もそこまで過保護ではござらぬ。電話で一報いれれば大丈夫でござるよ」
力説するユイと、何とか追い返そうとするルリ。それを見ていたアキラは、
「なあ、せっかくだからユイも連れていこうぜ」
意外にも、ユイに味方をする。サイクリング中に世話になったのは事実だし、ここで無下に追い返すのもかわいそうな気がしていた。
「お、アキラ殿のおごりでござるか?」
「やっぱお前帰れ」
「う、嘘でござる。自分の分は払うでござるよ……アキラ殿のケチ」
前輪の大きな19世紀風の自転車(ペニー・ファージングと言うらしい)が、看板の代わりに立っている喫茶店。店名は『la.commenser』と言うらしい。
「なんて読むんだ?」
「ラ・コマンセ。フランス語でスタートという意味ですね。サイクリングロードを練習場にするレーサーが増えたため、そんな人たちを応援したいと言う意味でつけられたそうです」
どうやらあのサイクリングロードは、どちらかと言えばこちらがスタートだったらしい。とはいえ往復する人も多いし、そもそも途中から途中までを通常の移動に使う人がほとんどだ。
「ルリ姉。正確には『ら・くぉまんしえぁ』でござる」
「ユイは帰るそうです」
「帰らないでござるよ!?どうして拙者を邪険にするでござるか」
「ござる口調のくせにネイティブなのが気に障るからです」
「理不尽でござる!」
まあ、確かに今のドヤ顔はイラっとくるかもしれない。
「ところで、俺たちの自転車ってどこに止めればいいんだ?スタンドもないし、壁に立てかけるのも少し不安なんだが……」
そもそも、全面ガラス張りに近い大きな窓のせいで、精神的に立てかけづらい。これで傷でもつけたら申し訳ないからだ。
「ああ、それなら大丈夫です。こちらにハンガーがありますから」
「ハンガー?」
ルリが指さした方向に、公園にあるような鉄棒が設置されている。そして、
「何これ?」
サドルの裏側を引っ掛けるようにして、自転車がぶら下がっている。まるで物干し竿だ。
「ご覧になったことがありませんか?自転車店やレース会場などに多いのですが」
「いや、見たことがないな。トアルサイクルにもあったっけ?」
「いえ。当店には設置していません。本当は設置予定もあったのですが、思ったほどスポーツバイクの売れ行きが良くないので」
「え?結構な台数が揃ってたと思うけど、あれで売れ行き悪いの?」
「逆です。売れ行きが悪いからこそ、結構な台数が在庫になるんです。当店の場合は」
トアルのような自転車専門店になると、未だにママチャリが主力商品である。あとは安めの初心者向け自転車が売れる程度だろうか。同じ量販店でも、スポーツショップになるとママチャリが売れなくなる。まあ、店によると言ったところだろう。
「それより、店に入ろうぞ。拙者、暑くて敵わんでござる」
自転車に乗っていた時は涼しそうだったユイが、二人を急かす。
「ああ、先に行ってていいぞ」
「本当でござるか。すまぬなアキラ殿」
聞いた途端に、ユイはスタンドを立ててママチャリを駐輪する。こちらはハンガーに頼らず、片足スタンドで自立するわけだ。
シリンダー錠をガシャリとかけて、さらにカゴから取り出したワイヤー錠で前輪をロックする。そしてぬいぐるみだけを持って、店内に消えていった。
「こういう時、ママチャリの方が有利だよな」
「ええ。正直勝てる気がしません。どんな車体よりも、日常生活に寄り添うように開発されていますから」
コンセプトの明らかな違いが出る。これは分かりやすいな。
アキラたちも、ワイヤー錠で車体をダブルループ。そしてブレードロックで後輪を固定して、ハンガーにかける。前輪だけ接地させて、後輪を宙づりにする姿は奇妙だ。
「ちなみに、あのビレッタについている鍵は、意外と高性能なんですよ」
自分のアイローネを固定しながら、ルリはそんなことを言う。
「そうなのか?」
アキラもローマを固定する作業をしながら、話に耳を傾けた。
「まあ、鍵自体はよくあるシリンダーロックなのですが、ワイヤーロックと共通の鍵を使っているので、複数の鍵を持ち歩くことが必要ないわけです」
「ああ、そう言えば、あいつはシリンダーから抜き取った鍵でワイヤーをかけてたな」
「はい。初期装備で鍵が二つ付いてくるのもお得ですね。そして合鍵が3本あるので、仮に紛失しても安心です。しかも、ブリヂストン独自の保証もあります」
「保障?」
「はい。手元に純正のキーが3本ある状態ですと、確実に鍵をかけた証明になります。その状態で盗まれたなら、3000円払うだけで新車を購入することができるサポートを3年間サービス保証します」
「マジか。鍵なんて壊されたら終わりだろうと思っていたけど」
「だからこそ、ブリヂストンは保証するのでしょうね。増え続ける自転車盗難に対して、これほど安全な取り組みはありません。なにしろ盗まれて戻ってくる確率は意外と低く、その間に代車もありませんから」
自動車なら、修理などの際に代車を出したり、盗まれたらレンタカーに頼ったりできる。自転車はそれがない。となると、盗まれたらすぐに買い替えが必要になる。新車が3000円で戻ってくるサービスは、その時になると驚くほどありがたい。
「さて、アキラ様は施錠できましたか?」
「お、おう。こんなものでいいのか?」
喋っている間に、二人の自転車がハンガーに固定された。ルリが入念に、アキラのローマを眺めまわす。
「良いですね。100点です」
「よかった。ルリの教え方が上手いおかげだぜ」
アキラがそう言うと、ルリは鍵をもう一本取り出した。バネ状になった細い鍵だ。
「これで、120点ですね」
ルリが自分のアイローネと、ローマを繋ぐように鍵をかける。2台の自転車は寄り添うように近づき、一本の赤い鍵で結ばれた。
「え?これって……」
「はい。自転車泥棒は、こういった奇抜な鍵のかけ方を嫌います。特に手慣れた相手は余計にね。他にも、上下逆に駐輪する方法や、金網などに宙づりにする方法などがありますね。何がどうなっているのか分からないと、盗みにくいんです」
「防犯も奥が深いな」
アキラが納得していると、ルリはその横に回り込んだ。
「さあ、アキラ様。ユイが待っていますので、早めに店内へ。
ちょっと、お話ししたい事もあるので。
自転車の知識について、少しだけ情報を提供させていただきます。
まずは自分自身を知ることが、強みになるかもしれませんよ」
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