第34話 その靴は危なくないのか?
「――まあ、走って逃げたケンゴには、後で俺から説明して誤解を解くとして」
アキラは頭を掻きながら、さて次にケンゴと会った時にどんな顔をして声をかけようかと考える。一方で、
「ルリ。行き過ぎた接客はどうかと思うぞ」
「大丈夫です。私がここまでするのはアキラ様が最初で最後でしょうから」
「あ、最初だったんだ。それは良かった」
自分が最初なのが偶然だったと思ってしまうあたり、アキラも困ったものではある。ルリにしてみれば、最初からアキラ以外でここまでの接客はしない。
「さて、レーシングビブにジャージ。それからヘルメット……と、基本的に一通り装備も整いましたね。あとはグローブも選びますか?」
「あ、それなんだけどさ。もう一つ気になってたことがあるんだ」
「はい。何でしょうか?」
「ビンディングシューズってやつ。ルリがいつも履いているのって、自転車用の特殊な靴だよな。今は違うみたいだけど」
ビンディングシューズ。それは、ルリが教えた覚えのない単語だった。
「ユイから聞いたんですか?」
「いや、自分で調べてみたんだ。ルリが自転車に乗るとき、ガシャン!って音がするのが気になってさ。その、カッコいいなって」
アキラがそう言うと、ルリはすっと表情を柔らかくした……ような気がした。最近、少しだけでもルリの表情が読みやすくなった気がするアキラ。
「そうですね。では、そのビンディングシューズも一応、ご紹介しましょう」
「サンキュー」
「ですが……」
「ん?」
「個人的には、あまりお勧めしません。自転車そのものに慣れていないと、危険なので」
シューズコーナーには、いくつものペダルと靴、そしてクリートと呼ばれる金具がついていた。これらはセットで使うものであり、それぞれ規格が違うらしい。
「ビンディングシューズは、靴の裏についた
「へぇ、ルリもやったことがあるのか?」
「ええ。恥ずかしながら、信号が変わって発進し直すときに、いつもの位置でペダルを踏み込めなくて転んだことがあります」
最初は割と、誰でも一度は転ぶものとさえ言われている。
「もちろん、メリットも絶大です。足を上げるときにもペダルに動力を伝えられる……いわゆる『引き足を使う』という行為が出来ますので、速度も持久力も上げられますね」
「どのくらい違うんだ?」
「普段からギアが2~3段ほど上げられるくらいですね。例えば、アキラ様は10段変速のうち6段目くらいで平地を走るので、これを8段目くらいまで上げても疲れないと思います」
ギアが2段上がる。その感覚は車体によってだいぶ違うが、アキラの使っているギアはルリのものと同じだった。shimano Tiagraというパーツだ。
「2段も上がるのか」
アキラにとって、それはすでに魅力的だった。この魅力が分かるくらいには、彼も成長したのだろう。
(危険なのでもう少し慣れてから、と思っていましたが……そうやっていつまでも使わないでいると、いつまでも練習にならないのも事実ですね)
そう考えなおしたルリは、アキラに本気でシューズを勧めてみようと思う。
「基本的に、この業界はshimano社が一番のシェアを誇っています。当店でもshimanoの取り扱いしかないので、必然このメーカーに限った話をしていきますね」
ちなみにルリ自身は、ネットで購入したSPEEDPLAYを使っている。非常にマニアックで個性的なメーカーだ。それはさておき、
「基本的に、SPDとSPD-SLに分かれますね。こちらがSPD-SLとなります」
ツルンとしたプラスチックの靴底に、3個のネジ穴が開いている。歩くことを考えていないようなデザインで、靴の裏とは思えない見た目だ。
「滑らないのか?」
「ペダルとはがっちり固定されるので、乗っていて滑ることはありません。ただ、歩く時に滑ったり、歩きにくいとは思います」
次に、ルリはSPDの靴を手に取る。靴底に2個のネジ穴があるタイプだ。
「こちらは、
「あ、こっちはちゃんと溝もあるんだな。さっきの真っ平よりは安心感があるぜ」
「ええ。これにクリートを付けた時、靴の底の一部にクリートが埋め込まれる形になります。埋め込まれているので、地面を歩くときも違和感は少ないですね」
「こっちの、SPD-SLってのは?」
「クリートむき出し。と言うより、つま先全体がクリートにふさがれる形になります。なので歩きにくく、場合によってはクリート自体が潰れてしまう可能性もあります」
「えー……じゃあ、俺はSPDの方がSLよりいいかな」
「まあ、アキラ様は比較的まっすぐ足を出せるようになってきましたし、それでいいのかもしれませんね」
「ん?まっすぐ?」
「はい。クリート自体にはある程度の角度がつけられるのですが、より自由度が高いのがSPD-SLになります。こちらはつま先が外側に向いている蟹股の人や、逆に内側に向いている人にも使いやすいと思います」
「あ、そういうメリットもあったんだ」
「ええ。細かいフォームに適応する、こだわりの調整。それが出来るのは、SPD-SLの特徴ですね」
それを加味して、ふたつの靴を見比べる。正直、違いがあるとしたら本当に靴の裏くらいだ。
「ちなみに、こちらがそれぞれのペダルになります」
ルリがいくつかのペダルの箱を空ける。
「まず、こちらがSPD-SLのペダル。クリートの大きさも相まって、ペダル全体で靴を受け止める構造になっています。なので、他の靴で踏むのは難しくなりますね」
「ああ、たまにコンビニに行くくらいの用事の時って、軽くスニーカーとかサンダルで行きたい時があるよな」
「ええ。その場合ですと、少し乗りにくいかもしれませんね。まあ、少しの距離なら我慢もできると思いますが……」
その次にルリが取り出すのは、SPD-SLのペダル。
「こちらは、クリート受けが小さいのですけど、やはり中央が盛り上がっています。なので、乗りにくいことに変わりはないのですが……」
もうひとつ、SPDペダルを取り出す。
「こちらの『片面フラット』と呼ばれるペダルはユニークですね。ペダルの表側はビンディングシューズ用。そしてペダル裏側が
「ペダルに裏表なんかあるのか。なんか不思議な感じ」
「はい。SPD-SLにも裏と表があって、裏側は使ってはいけない面になっています。一方、SPDのペダルの多くは裏も表も同じデザインなので、踏み間違いはないですね」
3個のペダルを見比べる。表しか使えないSPD-SLと、裏表のどちらも同じように使えるSPD、そして靴に合わせて裏と表を使い分ける片面フラット。
「俺、片面フラットがいいな」
アキラがそう決定すると、ルリは「かしこまりました」と一言答えて、他の商品を箱に戻し始めた。
「それでは、こちらの商品でよろしいですか?それとも、もうワングレード上の商品をお持ちしましょうか?大した違いはありませんが」
「それでいいや。あ、そうだ。取り付けもやってもらえる?」
「もちろんです。当店でお買い上げいただいたので、特別に工賃無料でやってもらえるように、メカニックに掛け合ってみます」
幸いにして、アキラが来る時間帯はさほど混んでいない。今日は修理予約も受け取り予約も無かったはずなので、ものの10分くらいで渡せるだろう。
と、ルリは考えていたが、アキラがここで意外な提案をする。
「えっと……ルリがつけてくれるわけじゃないのか。って、そういえばルリは資格ないから無理って言ってたっけ?すまん」
「え?……ええ、当店の正式なメカニックがいますので」
アキラからの信頼を得られたのは嬉しいが、店の規則などもある。ルリが今バイトとして雇われているのは、あくまでレジ打ちなどの接客担当だ。
本来であれば、こうした商品紹介も『分かる範囲で対応』『専門的なことは担当者と交代して』と言われている。
のだが……
「いいんじゃないかな。ルリちゃんがやってごらんよ」
話を近くで聞いていたのか、ルリと同じ整備用エプロンを付けた店員が言う。年齢は40代くらいだろう。黒髪を適当に刈り上げた痩身の男性だ。
「チーフメカニック、よろしいのですか?」
「いいよ。チーフの私が言うのだし……それに、工賃も無料にする予定だったんでしょ。じゃあ私じゃなくてもいいはずだよ。店長には私から言っておくから」
「……はい。チーフ」
ルリが頷いて、それからアキラに向き直る。そして一礼。
「この度、アキラ様の自転車を整備させていただくことになりました。よろしくお願いします」
「お、おう。改めてよろしくな」
少しだけ、いつもより足を高く上げて歩くルリ。嬉しさからスキップしかけているのだか、それとも緊張から自然な歩き方を忘れているのか。
(まあ、ルリの実力なら何も気にしなくていいと思うんだけどな)
と、アキラは彼女を信頼しきっている。以前のホイール修理の時にも思ったが、少なくとも素人から見て、ルリの仕事は丁寧で綺麗だった。知識もあるし、時として行き過ぎたほどの愛情も見せる。
(ペダル交換だって、たかがネジを締めるだけだろうし、大丈夫だろう)
固着防止のため、薄くグリスを塗りつけるルリ。そっと布で余分なグリスをふき取り、ペダルレンチをはめ込む。
(かけるトルクは、メーカー推奨で35N-mでしたね。手締めですが、それに近い感触になるように……)
意外と脚力のあるアキラなので、もしかしたら踏みつけが強いかもしれない。それでも割れないように、力加減に気を遣う。
グリスが少し多いのは、外で雨ざらしにされてもいいように……そして、これから長く使い続けてもらえるように、だ。
こんな事でも、部品の寿命が変わってくる。ルリが自転車を弄るときに自信を持ちきれないのは、経年劣化を見てきた件数が少ないからだ。
(私がメカニックとして評価されるときがあるなら、それは今から2年後か、3年後か……その時にまだ、アキラ様が不調を訴えなければ、私の仕事は上手くいったことになるでしょう)
今日や明日で褒められても、それはルリの成功を意味しない。
だから、いつも以上に真剣に、ルリは車体を見ていた。
それが、はたから見ると、
「楽しそうだな。ルリ」
そんな風に見えた。少なくとも、アキラにとっては。
隣にいるチーフメカニックの男性には、そうは見えなかった。彼女の表情はチーフにとって、何も変わらないように見える。今日は少し濃いメイクのせいで余計に、だ。
なので、
「アキラ君……だっけ?」
「はい」
「君がルリちゃんを見て『楽しそうだ』と思えるなら、良かったよ。私には彼女が何を考えているのか、未だに分からなくてね」
「ああ、確かに分かりにくいですよね。俺もだんだん分かってきたというか……いや、分かったつもりになっているだけかもしれませんけど――」
アキラがそう言ったが、チーフは首を横に振る。
「実際、彼女は自転車を弄るのが好きみたいなんだよ。将来は、自転車安全整備士の資格とか取りたいらしくてね」
「え?そうなんですか?」
アキラさえ初めて聞いた。
「まあ、その資格を取るためには、誰かから推薦を貰ったり、店に勤続したりって必要があるんだけどね。彼女がこの店でバイトするのも、そのためじゃないかな」
だからこそ、チーフも店長も、少しずつ彼女に仕事を任せているのである。そのうち推薦状も、このチーフが自ら書く予定だ。
「出来ました……」
ルリが言って、チーフが頷く。
「どう?アキラ君」
「いや、どうって言われても、俺には何も分からないですけど」
アキラから見れば、ただネジを締めただけに見える。そんなものだ。
ルリもそれをよく解っている。だからこそ、
「アキラ様。もし何か異常がありましたら、すぐに私に報告してください」
と、言っておくのだった。もちろん、チーフから見て何も問題ない。
「お会計。合計で35890円になります」
「これまた随分高い買い物になっちまったな」
アキラの財布が一気に軽量化される。いつもの事だが、つい衝動買いしてしまう癖があるようだ。
「これほどいっぺんに手を出さなくても、少しずつ買いそろえて行けばいいと思うのですけどね」
「いやー、なんか思い立ったらドカンと買いたくてさ」
「ちょっと分かります」
ヘルメット。ジャージ。レーパン。グローブ。そして靴と、ペダル。急に本格的な装備を整えてしまったアキラ。
こうなってくると、どこかに長距離サイクリングでもしたくなる。あるいは、レースにでも出るか……
「ルリ」
「アキラ様」
二人が、同時に喋り出してしまった。
「あ、えっと、ルリから先で」
「はい。それでは僭越ながら」
レジを挟んでの会話。この不思議な距離感から、ルリが少しだけ身を乗り出す。
「今度、サイクリングに行きませんか?例えば、海にでも」
「海か。この季節に?」
「別に泳ごうという誘いではありませんが?」
すっかり秋である。残念ながら、ルリの水着は見られないらしい。
でも、
「ルリとサイクリングか。もちろんいいぜ。……っていうか、俺もちょうど誘おうと思ってたんだ。場所は決めてなかったけど、海か。いいな」
「気にいっていただけて、何よりです」
ちなみに、アキラが想像していたのは近くの海岸だったのだが、ルリはもっと遠いところに行こうとしていた。一日がかりの計画を立てて、夕日の落ちる水平線を眺めて、それから夜中までかけて帰ってこよう、などと。
少し、上級者向けのコースかもしれない。だからこそ、アキラと一緒に行きたい。
「では、アキラ様。今度の週末は、予定を丸一日ほど開けておいてください」
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