第33話 レーシングパンツって下着を穿かないのか?

「さしあたって、レーシングパンツかビブは必要ですね」

 ルリが言った。

「パンツは分かるけど、ビブっていうのは?」

「肩ひもが付いたタイプのものです。真剣にレースなどで使うのであれば、ビブの方が着心地が良いと言われていますね。下がって来ないので」

 ルリがいつか穿いていたスパッツみたいなのが、レーシングパンツ。それに肩紐がつき、レスリング選手みたいな恰好になってしまうのがビブである。

 どっちにしても、

「ダサいな」

「まあ、それは主観によるところもあると思いますが……」

 ルリはついでに、ジャージも持ってくる。

「どうせこのように、上からジャージを着る形になります。なのでどちらであっても見た目に影響はしません」

「あ、そうなんだ」

 たしかに、上は気にならない。問題は腰より下……このピッチリ感だろう。なんなら股間もっこり感と言ってもいい。あまりにもフィットしすぎる。


「ちなみに、そういう格好のお客様、どんどん増えているのですよ」

 ルリが言った。

「え?そうなの?」

「はい。特に当店での売り上げは、私がバイトに入ったころから急上昇しているとの噂です。この店舗だけですが」

 言われて周囲を見れば、確かにぴっちりしたレーパンの客が2、3人いる。普段もちらほらと見かけると言えば見かけるような……

「なるほど」

 と、アキラは納得する。

 確かに他人がどんな格好をしていようと、だいたいは無関心だ。他の客がレーパンを穿いているのに、アキラは気に留めなかった。

 つまり、アキラも恥ずかしがる理由は無いのだ。

 何より……

「体格のいいアキラ様なら、似合うと思いますよ。好みに寄りますが、私は好きです。ピタっと着こなしているライダーを街で見ると、つい目で追ってしまいますね」

 と、ルリが言っているのだ。

(うーん。たとえ他人にダサいと思われても、ルリが恰好いいって言ってくれるならいいか)

 そんな気持ちも湧いてくる。ルリに褒められるのは、その辺の100人に褒められるより嬉しい。

「ちなみに、おすすめのブランドは?」

「こちら、当店のオリジナル商品、TOALはいかがでしょう?」

 この店、トアルサイクルで出しているブランドだ。他の店では扱っていない。

「私も愛用しているブランドですね。着心地は他社に劣りますが、コスパの良さが特徴です。何より、入門編としてはこのくらいでも充分な違いを感じていただけるかと」

「あ、見たことある。確かルリは、それの白い文字のヤツを使ってたよな」

「はい。こうしてお揃いで走ると、まるでチームメイトやカップルのようですね」

 カップル……お揃い……

「中には、私と同じ色が良いと言ってくださるお客様も多いんですよ。なのでそのカラーだけが取り寄せになったりして」

 お揃いの色……


「それルリに乗せられて買ってるだけじゃねーか!」

「え?そうなんですか?」

「天然か!」


 危ない。騙されるところだった。いや、別に騙してはいないのだが。

 そりゃ可愛い女の子から好きだの似合うだの言われて、気を悪くする男性などそういない。このセールストークもあって売れているのだ。

「それで、どうしますか?」

「……買おうかな」

 アキラもまた、そのセールストークに引っかかる。見えていても食らいつきたい釣り針が、そこにあるのだ。




 試着室――そんなものが、この店にもある。アキラはとりあえずMサイズのビブとパンツを持たされて、両方を試着することになった。

「実際に穿くときは、下着を着けないのが正しいのですが……」

「え?そうなの?」

「はい。私もレーパンを穿く時は、下にショーツなどは身につけません」

 つまり、サイクリングロードで見た時、ルリはあのスパッツみたいなの一枚で走っていたのである。アキラに膝枕したときも、アキラの前を前傾姿勢で走っていた時も、ずっと……

「早く言ってくれよ」

「アキラ様?」

「あ、いや、えっと……は、速く走れるようになるかな、なんて」

 うっかり滑った口を立て直す。幸いにして、ルリもよく聞き取れていなかった。

「そうですね。やはりサドルとのフィット感は、ペダリングにダイレクトな違いを与えてくれます。よりパワーを伝えやすくなりますね。そのためにも、下着を着けないのが正しいのですが……」

「ですが?」

「今回は下着の上から試着してください。一応、まだお買い上げいただいていない商品なので」

「あ、ああ、そうだよな」

 水着の試着などと同じ感覚なのだろう。


「では、着替えましたら呼んでください。私はすぐそばにいますので」

 ルリがカーテンを閉める。

(試着室か……服屋でも滅多に入らないな)

 目の前に鏡。そして横にハンガーがあるだけの、1メートル四方の部屋というか箱。特になんの変哲もない試着室だ。

 レーシングパンツを穿いてみる。やはりピッチリとしていて……

「あれ?」


 シュッ!


「どうかしましたか?」

「おぅわ!お前、急に入ってくんじゃねーよ!」

 突然カーテンの端から顔を出したルリに驚く。危うく尻餅をつくところだった。

「すみません。ああ、でもお着替えが終わっているようですね。とても似合いますよ」

「似合いますよ、じゃねーよ。……まあ、いいか。着替え終わってんのは本当だし」

 アキラはどうしても違和感のある裾を気にして、指で引っ張って見せる。

「これ、正面の布が縮んでないか?」

「はい?」

「いや、だから、ウエストとか太ももとか、どうしても前の方が短い気がするんだが……」

 不良品ではないかと疑う。

「いえ、それで間違ってませんよ。そういうデザインです」

「え?そうなの?」

「はい。アキラ様。自転車に乗っているようなポーズをとってください。少し身体を前に傾けて、それから足をペダルに乗せるように……そうです。その状態でどうですか?」

 普通、身体をこうして丸めた時、背中やお尻の布地が引っ張られてしまうものである。そのため、腰がチラリと見えてしまうこともあるのだが、

「あ、そういうことか」

 このレーシングパンツは、背面の布地が多いのだ。なので隙間が開かない。

「ちなみに、ジャージも背中の方が長いです。これも同じような工夫ですね」

「そっか。そんなところまで計算されて作られているんだな」

 本当に、自転車のためだけに作られた服である。


「それでは、フィット感の確認を致します。失礼します」

「え?」

 ルリの細い指が、太ももと裾の間に滑り込む。そのままくるりと一周。

「なっ!何すんだよルリ」

「いえ、確認ですのでお気になさらず」

「気にするからな。待て待て。なんで何もなかったかのようにウエスト回りまで確認してんだよ」

 見る人が見たら誤解しかねない絵面である。いや誤解しかない。

「つーか、ちょっときついぞ。俺いつもLサイズだし」

「ええ、ですのでMサイズで丁度いいかと思いまして」

「なんで?」

「ちょっときついくらいピッチリしていた方が、空力抵抗を避けられるんです。まあ、あまりきつすぎて圧迫するのも問題ですが、普通はワンサイズ下を選びますね。中には3サイズも下を好む人もいます」

 そういうものであるらしい。

「まあ、そういったフィット感の確認も、私たち専門家がやった方がアドバイスしやすいのですよ。なので私は確認することにしています」

 ちなみに、他の店員はそこまでしない。もっと言えば、ルリの行き過ぎた接客は、店長はじめ他のスタッフから止められていた。にもかかわらず、全力で命令違反するスタンスのルリは、まだウエスト回りの確認を続ける。

 指をおなかに沿わせて、ゴムの内側をなぞりながら、正面中央へ……

「アキラ様はウエストも細いので、いっそSサイズでもいいかもしれませ……」


 ふにょん。


「――?」

 彼女にとって未知の感触が、指先に触れた。ルリの記憶をたどれば、こんなところにタグやゴム紐などは縫い付けられていないはずである。すると縫製ミスだろうか。そう疑い、さらに確認しようと摘まみ上げたところで、

「マジでそれはやめろ」

 手首を掴まれた。そのまま無理やり引き出される。

「何か入っていたのですが、こちらの手違いかと」

「手違いでも何でもない。だから忘れろ。そして二度と触ってフィット感を確認するな。マジで」

 いつになくアキラが真剣に言うので、ルリも気圧された。結局、ルリが何に触ったかは分からずじまいであったが、少なくともアキラが本気で怒る程度には悪い事なんだとは理解したルリ。

(そ、そんなに不快でしたか……今後は控えましょう)

 そうした方がいい。




 気を取り直して、ビブの試着。こちらはウエストを確認される心配はなさそうだ。なにしろオーバーオールのように、胸まで布がある。

(お、こっちの方が持ち上げるような力が強いか)

 股間をしっかり支えて、しかもずり落ちない。これならチンポジも固定できそうである。

 ――そう、チンポジだ。

 自転車に乗る際、これが結構重要になることを、アキラはこの数か月ほどで痛感していた。定まらないと違和感を感じるだけでなく、場合によっては痛い。まして立ち漕ぎからサドルに腰を下ろすときなど、不慮の事故があっては大変である。

 なので――

(俺、ビブの方が好みかもしれない)

 と、アキラなりに真剣に選ぶ。

「ルリー」

「はい。どうかしましたか?」

 カーテンの端から入ってくるルリ。

「俺、ビブの方がいいな。しっくりくる」

 アキラがそういうと、ルリは頷いた。

「アキラ様がご自身で選んでくださったのは、私にとっても嬉しい事です」

 表情こそ変わらないが、そのまっすぐな視線から、本気で言っていることは分かる。

(ああ、本当に、こいつは真面目に接客しているだけなんだな)

 ひたむきに、ただまっすぐ――だからこそ、たまに先ほどのように行き過ぎるのだろう。

 しっかりしているからこそ危なっかしく、いつも助けてくれるからこそ助けたくなる。そんな彼女に、アキラの気持ちも、じわりと暖かくなった。

「ありがとうな。ルリ。いつもいろいろ教えてくれて」

「いいえ。こうしてお客様のお手伝いをさせていただけるのが、私どもの最大の喜びですよ。アキラ様」


「でも、トイレの時は不便だよな」

 改めてビブの話に戻る。

 ファスナーも無いうえに、肩までしっかり止まっていて、しかもこの上からジャージを着るらしい。そうなると、トイレに行くだけでもジャージを脱ぎ、肩ひもを外して、それからビブを降ろさないといけない。

「面倒くさいな」

「ええ。確かにそこが大きなデメリットですね」

「ところで、ルリはビブだっけ?パンツだっけ?」

「私はパンツ派ですね。トイレの問題もありますが、何より胸が苦しいので」

 そりゃ、そこまで立派ならそうだろう。と言いかけたのを飲み込むアキラ。どうやら男性が男性特有の部位で悩むように、女性も女性特有の悩みがあるらしい。

「あ、そういえば」

 と、ルリが思い出したように言う。

「ん?」

「男性の場合ですと、胸のところを掴んで下げれば、トイレも何とかなるらしいですよ」

 ビブによっては、肩ひもが伸縮性の高い素材で作られていることがある。この場合、ぐいっと力づくで下げれば、股間まで肩紐を伸ばすことができる。

 あとは男性器をそこから出して、用を足せばいい。

「こんな風に……」

「実演は結構だ」

 アキラの胸元に手をかけたルリ。その手首をガッシリ掴むアキラ。

「でも、こうして下げれば……」

「分かった。分かったから手をどけろぉ……!」


 ぐぐぐ……と意外な力で下げてくる彼女に対して、アキラも少しずつ押し負けていく。どんな状況なのか全く分からん。




 ところ変わって、店の前の駐輪所。そこには、コッチペダーレのピストバイクを駐輪するケンゴの姿があった。

(昨日のルリちゃんとのサイクリング、楽しかったなぁ。結局アキラの邪魔が入っちゃったけどさ)

 ルンルン気分で店内に足を踏み入れるケンゴ。もちろんお目当てはルリ……だけではない。

 地味に自分も、スポーツバイクの魅力にハマりだしてきたのだ。今日だって、ここまで来るのにピストを使って加速と減速を繰り返したり、昨日習ったハンドサインを試したりと、ピストをエンジョイしていた。

(もっといろいろ教えてほしいな。できれば、手取り足取り……)

 少しばかり純粋ではない気持ちも混ざっているが、おおむね問題ない。

 店内に入り、ルリを探す。1階のレジと整備スペースを眺めて、その中にルリがいないことを確認。あとはママチャリコーナーばかりだが、なんとなくこっちにルリがいるイメージは無い(偏見)。

 なので、2階のスポーツバイクコーナーへ。その奥のサイクリングウェアのコーナーから、聞きなれた声が聞こえた。

(ん?この声……アキラとルリちゃん?)

 声のする方に行ってみる。


 ちょうど、ルリがアキラにビブの下げ方をレクチャーしようとして、彼に止められている状況だった。

 見ようによっては――

(アキラが、ルリちゃんの手首をつかんで、自分の股間に導いている!?)

 ように見えても不思議じゃないわけで、



「……」

「……」

「……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る