第28話 ちなみに右折はどうするんだ?
「次を右折でござるよ。アキラ殿」
「おう。二段階右折ってやつだな」
二段階右折。二輪車限定のルールである。原付二輪の場合も、片側三車線以上ある場合は原則として取らなくてはならない方法だ。自転車の場合は、車線数や標識に関わらず義務付けられている。
しかし――
「いや、ここは右折レーンから一気に右折するでござる」
「え?いや、それって法律違反――おぉい!マジか!?」
ユイが左折レーンを外れ、さらに直進レーンも超えて、中央分離帯ギリギリまで自転車を寄せる。当然、後方は確認しながらだが、どう見ても法律違反だ。
「おい、なんでこんな無茶をするんだ?後続車両に追突されるかと思ったぞ。それに……」
信号が変わるまで――いや、信号が変わっても、しばらくの間はこの交差点ど真ん中に取り残されることになる。自転車という小さな車体で、ここに二人きりで放置される怖さは、アキラの想像を絶するものだった。
「ユイ。これは怖いぞ」
「うむ。しかしもう戻れぬぞ。それに、近いうちに矢印が出る。それを待てば確実に右折できるのでござる」
「いや、そりゃそうなんだけど、直進する対向車にすげー睨まれてる気がするし、後ろの車も苛々しているじゃないか」
それを聞くと、ユイは大きく車体を傾けて、アキラのさらに後ろを見た。確かに乗用車の中から、ドライバーのご婦人が睨んでいる。
何を思ったか、ユイは手を振ってにこやかに笑った。相手の視線はさらに厳しくなる。
「おいおい、ユイ」
何でお前はこの状況で悪びれもしないんだ?と訊こうと思ったアキラの質問を、ユイは先読みした。
「ん?まあ、よいじゃろ。実際、こうして車と一緒に曲がりさえすれば邪魔にならぬのでござる。デンマークごっこは道路整備が済んでからにしたら良いのにのう」
「デンマーク?」
「ああ、その話は後でござる。矢印が出る頃合いでござるよ」
信号が変わると同時に、ロケットスタート。まるでカタパルトに弾かれる戦闘機のように、一気に加速して右折する。後続車両など置いてけぼりだ。
「ケンゴさん。交差点では、必ず二段階右折が義務付けられます」
「まあ、自転車は必ず一番左の車線にいなくちゃいけないんだもんね」
裏通りとはいえ、信号があるところはある。ルリたちは真っ直ぐに進み、向こう側の交差点の角に止まった。
「
「お、おーけーおーけー。……なんか、凄く変な感じだけど」
ペダルをこぎながらブレーキをかけて、ゆっくりと減速していく。まるでアクセルとブレーキを同時にかけているような感覚だ。速度が落ちていくにつれて、足にかかる負担が大きくなる。
きちんと減速したところで、ペダルから足を離して停止。左足を地面について、倒れそうになる車体を止める。ピストに限った話ではないが、スポーツバイクのサドルは高い。車体を斜めに傾けて止まるしかないのだ。
「よし、このまま信号が変わるのを待っていればいいんだね。時間がかかるけど」
1か所の交差点で、最悪2回も赤信号を待たなくてはいけない。しかもどんなに運が良くても最低1回は停止しなくてはいけない。それは自転車乗りにとって面倒だ。特に、漕ぎ出しと停止時に最も体力を使うピストバイクなら余計に。
「まあ、その代わりに左折時に信号を無視できる裏技もありますから」
と、ルリが助け舟を出す。こうして会話を楽しむことが、信号待ちの一番のコツかもしれない。隣で止まっているオートバイのアイドリングが、もう少し静かなら言うことは無い。
「え?左折時の裏技?」
「はい。自転車は特に、歩道に入ってはならない規則がありません。なので左折時に信号が赤の場合、歩道内に侵入して左折することができます。まあ、車道に復帰する際に危険が伴いますが……」
などと言っている間に、賑やかな声が後ろから響く。
わいわい
がやがや
その集団は、全員が野球用のユニフォームを着ていた。頭には真っ白なヘルメット。それも野球用ではない。自転車用だ。
(部活動の帰宅時間……ですね。そういえばそろそろ日も落ちますか――)
ルリは知っていた。この近くに中学校があることも、その野球部が、ちょうど今頃に帰宅することも。
後ろのフェンダーに学校名の書かれた通学章。前のカゴにはスクールバッグとグローブ。背負っているのは着替えの入っているだろうリュックサック。反射テープだけはたくさん張り付けた通学自転車が、ぞろぞろと二段階右折をする。
すると、どうだろう?
「わわっ、ルリちゃん。これ車道塞いでない?」
「まあ、この交差点にはあまりスペースがありませんから、車道にはみ出すのも仕方ありませんね。少し詰めましょう」
ルリが端に寄る。しかし、次から次へと詰まっていくママチャリは、その数なんと20台あまり。登下校時には当然の数と言えた。
「これ、交通状況的にまずくない?」
「いえ、大丈夫です。――ほどほどに無視する人たちが増えますので」
「え?」
確かに、見てみれば二段階右折を避けて、わざと一発で右折していく人もいる。あとは車線を逆走して、右車線から右折する人たち。信号無視に近い形で、二段階右折との中間……つまり直進後に進路を切り替える者もいた。
「さすがに最後のだけは許せませんね」
「あ、ルリちゃんから見てもそう思う?」
「本当は逆走も禁止と言いたいところですが、こればかりは確信犯ですね」
頭を押さえ、ため息を吐くルリ。その悩ましそうな表情は、学校ではめったに見られないものだった。
(ルリちゃん。自転車に乗っているときだけ、ちょっと表情豊か……?)
と、ケンゴは口に出さずに思う。もっとも、魅せる表情は決して機嫌のいいものではなさそうに見えるが。
「ちなみに、自転車の先進国ことデンマークでも、二段階左折というルールがありますが……あちらは自転車が十分に待機できるスペースを、常に用意しているそうです」
「デンマーク……ってどこだっけ?」
「北欧ですね。グリーンランドの辺りです。当店のメカニックを担当している者が旅行で行ってきたそうですが、車線半分ほどの広さを持った自転車道に、長蛇の列を形成する自転車は圧巻だったそうですよ。ほら、これです」
ルリが見せてくれた写真(スマホに表示しただけだが)には、ママチャリをカバーでお洒落に彩ったような車体や、お馴染みのロードバイク。さらには花が植えられたプランターを運ぶ大きな自転車等が並ぶ。
「日本と違って、ちょっと自転車もお洒落だね」
「はい。私も一度は、行ってみたいと思う国です」
言っている間に、信号が変わっていた。
「行きましょうか。また信号が変わる前に……」
「あ、うん。分かった」
デンマークと同じだけの法整備を行ったはずなのに、実質中国と大差ない危険性をはらむ日本の交差点。それを見送りながら、ルリはすっと走っていた。
(そういえば、悪法をまた法だと言い切る女がいましたね……気に入りませんが、認めるしかありませんか)
「――というわけで、日本は法整備の立派さに、道路の設計が追い付いてないのでござる。
「まあ、役に立ってないってことはよく解ったよ。つーか、なんでお前はたまに発音がネイティブなんだよ」
「このような喋り方でも、意外とちゃんと発音できることを示しておかぬとな。こう見えても拙者、高校受験の時は頑張って練習したのでござるよ」
得意げに胸を張り、腕を組んだユイ。それでも両手離しの自転車がまっすぐ進むあたり、彼女も相当な乗り手だ。
目の前に交差点が見えてきた。歩車分離式信号と呼ばれるタイプの信号機だ。まずは歩行者用信号が全て青になり、そのあと東西の自動車用信号が青に、さらに後には南北の自動車用信号が青になる。と、3段階で切り替わるタイプだ。
「こういう場合、自転車はどっちに従うんだ?」
「自動車用信号でござるよ。車両であるゆえな」
と、いうことで、アキラたちはブレーキをかけて止まることになる。その目の前では歩行者たちが縦横に、あるいは斜めに横断していた。スクランブル交差点でもないこの場所で斜めは禁止のはずだが、特に誰も損していないので文句も出ない。
やがて、歩行者用信号が一斉に点滅。そして赤に変わる。
それから3秒後、ユイたちの目の前の信号が青になった。
「直進でござるよ。道幅が急に狭くなるゆえ、注意して進むのでござる」
「おう」
確かに、交差点の向こうは一車線しかない。というより、一方通行である。
「イッツーの標識出てるけど、大丈夫か?」
「下に『軽車両を除く』と書いてあるでござろう。この場合、自転車は逆走しても問題ないのでござる」
「ああ、なるほど」
ユイたちが交差点に進入し、直進しようとしたその時であった。
対向車が、急にアキラたちを轢くような軌道で右折してきた。
「うげっ!?」
アキラが反射的にブレーキをかけてしまう。相手の自動車も急にブレーキをかけた。おかげで、お互いに接触はない。
「アキラ殿。こういう時はブレーキではなくスピードアップでござる。止まった方がぶつかる確率が上がるでござるよ」
「そ、そうだった。すまん」
頭では分かっていたとしても、体は上手く反応しないものである。ここで急加速よりブレーキを選んでしまうのは、まだアキラが未熟だから、というものだろう。
「――チッ!」
相手を睨みつけて舌打ちをしたアキラは、同じく睨んでいるドライバーと3秒ほど目を合わせてから直進する。
お互いにこのまま喧嘩でもいいが、それよりも用事があるというわけだ。
「なあ、あれって俺が悪いのか?」
「そんなことも無かろう。しかし、ドライバーの気持ちも解らんでもないのう」
「は?普通は直進する車両が優先。それを待ってから右折だろ」
「とはいえ、こちらは一方通行でござる。まさか直進する車両がいるとは思っていなかったから、まったく何も見ずに飛び出したのでござろう。いわゆる『止まるだろう。行けるだろう運転』でござるな」
ついでに言えば、自転車が自動車用信号に従うというルール事態を、相手のドライバーが知らなかった可能性もある。
「まあ、このとおり法律に従ったとして、それでも危険運転とみなされる場合はあるのでござる」
「どうすればいい?」
アキラが訊くと、ユイは得意げに答えた。
「ぶっちぎればよいのでござる。相手に轢かれる前に逃げてしまえば、当たらずに済むでござろう。スタートダッシュが重要でござるよ」
「う、うーん。そう……なのか?」
納得がいかない。ユイの言っていることは、どう考えても危険運転をした相手ドライバーと同じ思想にしか聞こえないからだ。
信号が青になった瞬間、何も見ないで勝手にスタート。衝突してから文句ばかり言って、どっちが優先だのと罪をなすりつけ合う。そんな走り方が本当に正しいのか、と――
「アキラ殿、不満なのも解るでござる。ただ、拙者も長年の経験上、これしかないと考えているのでござるよ。少なくとも、現状の法律と認識の上では、のう」
「まあ、そもそも歩車分離式信号の場合、自転車を降りて歩行者として横断した方が安全ですね」
と、こちらは先ほどユイたちが通った場所とはかけ離れた交差点。ルリが自転車を降りて歩いていた。ケンゴもそれに続く。
「それにしても、降りたり乗ったりが続くね。俺はもう疲れちゃったよ」
距離的にはまだしも、時間的には乗っている時間と歩いている時間が同じくらいじゃないかと錯覚させられる。自転車本来の利便性はおろか、楽しささえ半減だ。
(確かに、初心者でこれだけの乗り降りを繰り返すのは疲れるでしょうね。せめて巡行を続けられれば、ケンゴさんもきっと楽しめたのでしょうけど)
そういう観点からいえば、アキラと最初のサイクリングをするときに、サイクリングロードを使ったのは正解だったのだろう。今回はケンゴの家からスタートだったので、そのコースを使えなかったが……
「ケンゴさん」
「はいはーい。どうしたのルリちゃん?」
まるでよく訓練された犬のように、ルリが呼べばケンゴは嬉しそうに返事をしてくれる。そうやって楽しそうにしてくれている間は、ケンゴが自転車を嫌いになることはないだろう。
ただ、このまま乗りにくい街中の現状ばかりを伝えていては、ケンゴが自転車を嫌いになってしまうかもしれない。それはルリにとって、とても悲しい事だった。
なので、
「今度、私とサイクリングロードに行きませんか?」
「ルリちゃんと?ふたりきりで?」
「え、ええ。もちろん他にお誘いしたい友人などがいれば、誘っていただいても――」
「いやいや、いないいない。良いんじゃない。ルリちゃんとデ……サイクリング。いつでも言ってよ。今週末?それとも明日?」
普通の女性であれば、ちょっと引くほどの食いつきようだが、
(ああ、よかった。ケンゴさんがこんなに自転車を好きになってくれた)
ルリのズレっぷりも堂に入ったものなので、ある意味でいいコンビである。
「ただ、いつかは街中を、みんなで楽しく走りたいですね」
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