第27話 交差点ってどう直進するんだ?
大通りを行くユイと、それに続くアキラ。彼らのサイクリングは、まだ続いていた。
「なあ、ユイ。目的地ってどこなんだ?」
「秘密でござる。アキラ殿も、こういったサプライズはあった方が楽しいでござろう?」
「まあ、そうだけどさ」
そういえば、この輪学市に詳しいのはどちらなのだろう?隣の市から来ているユイは、ずっとそこに住んでいたはず。一方のアキラは、この市に住んでいるとはいえ大学生になってからだ。
赤信号で、前方の自動車が停車した。後続の車も合わせて3台。その後ろに、ユイが接近する。
「アキラ殿。拙者たちもブレーキでござる」
「お、おう……って、ここかよ?」
ユイが止まったのは、3台目の車の後ろ。つまり最後尾だった。それも車線ど真ん中だ。
「なあ、左に寄ったら、車の横を通り抜けられるんじゃないか?」
路側帯にはみ出す結果にはなるが、十分に自転車が通れる幅が確保されている。
「ううむ。拙者もそう思っていた時期があるのでござるが……メリットは少ないでござる。大渋滞ならいざ知らず、たかが車3台分でござろう。おおよそ十数メートルの距離を急いでみたところで、目的地への到達時間は変わらぬよ」
「ああ、それもそうか」
「うむ。それと、デメリットも多いのでござる。結局のところ、自動車の方が速い故な。いま前に出ても、すぐに追い越されるのでござるよ。特に交差点付近でそれをやられると、いろいろ面倒でござるからな」
可能な限り、お互いに追い越しの回数を増やしたくないという考えに基づく意見である。
「まあ、自動車って自転車を意地でも追い越そうとするやつが多いからな。アホだぜ」
「……ついでにもう一つ、危険があるのでござる」
「ほう、それは?」
「それは……」
何かを言おうとしたユイの視界の先。先ほど通ろうとしていた路側帯を……
ひゅーん!
一台のクロスバイクが駆け抜けていく。ユイたちの前方から、後方へ。いわゆる逆走だ。
「このように、自転車乗りにもアホがいるのでござる。もし拙者たちが路側帯をすり抜けようとしていたら、正面衝突でござったな」
「……あぶねぇな」
「うむ。逆走禁止じゃ。これ基本でござるな」
実はアキラもたまにやるのだが、それは秘密にして、これから気を付けようと決意した。
一方のルリは、狭い道にもかかわらず、歩道ギリギリまで寄って停車した。ケンゴもその後ろにぴったりとつく。
「そっか。縁石に足をかければ楽に停車できるね」
「ええ。ケンゴさんも、もう少し慣れたらサドルを上げてみるのがいいですね」
足が地面に届かないスポーツバイクの場合、こういった段差を使ったり、電柱に手をついて止まるのはよくあることだ。
引き締まっていながら、それでも細いルリの脚。それは直線的なアイローネと対比して、とてもきれいに見えた。
「それにしても、前の車もぴったり左に寄ってるね。これじゃ横をすり抜けられないかな」
「そうですね……」
ケンゴの言う通り、こちらは道幅も狭い。路側帯もないようなものだ。
と、ルリがその時、何かに気づく。
「危ないです。ケンゴさん」
「え?……おっ!ととと!?」
ルリとケンゴがいる場所すぐ左に、自動車が強引に割り込んできた。そのまま幅寄せしてケンゴを押しつぶすかと思われた車体は、しかしギリギリで止まる。
こんこん――と、ルリがその車のドアを叩いた。相手ドライバーはそれをいぶかしんでいたが、
「失礼します」
ルリが顔を覗き込ませると、パワーウィンドウが開く。ルリが美女だったからか、ドライバーも気を良くしたようだ。
「おう、お譲ちゃん。どうしたの?」
相手ドライバーが助手席まで身を乗り出しそうな勢いで聞いてきた。それに対して、ルリは言う。
「下がっていただけませんか?信号待ちで私たちの車体を無視するなんて、非常識です」
その冷たい物言いに、ドライバーは気を悪くした。
「は?いやいや。お嬢ちゃんたち自転車でしょ。だったら俺と関係ないじゃん。歩道でも走りなよ。最近の若いのは危ないんだから」
「……お言葉ですが、自転車も車体です。どうか、私たちの後ろまでバックしていただきます」
「出来ないね。詰まっちゃったもん」
そのドライバーの言う通り、後ろからもう一台来てしまった。
と、ルリはドライバ―との対話を諦めて、上体を起こした。
「……ケンゴさん。信号が変わったら、気を付けてください。この間合いでスタートは出来ません」
この幅で自転車を……ましてケンゴがピストバイクを漕ぎだすのは無理だろう。どうしても横にブレる。そうなれば隣にいる自動車に、側面からぶつかる可能性は高い。
「でもルリちゃん、気を付けるったって、どうすればいいの?」
「そうですね……他の自動車が通り過ぎて、私たちの横に隙間ができるのを待つしかありません。このまま」
「え?そんなぁ……」
結局ルリたちは、この信号ではすべての後続車を見送り、次の赤信号で体勢を立て直し、青に変わるまで2回分を待つことになった。
「さあ、アキラ殿。行くでござるよ」
信号が青になる。交差点を横断する歩行者を待ってから、1台目の自動車が左折。つづいて2台目も左折。3台目が直進していく動きに合わせて、ユイもペダルを漕ぎ始めた。
「意外と、車間距離は適正に保つんだな。お前のことだからてっきり『相手を風よけに使うでござる』とか言いそうだったけど」
中には、自動車を風よけに使おうとしてギリギリまで接近する者もいる。しかし、
「ああ、スリップストリームというやつでござるな。あれは自動車側が信頼できればこそ可能な技でござる。急にブレーキなど掛けられた日には、追突間違いなしでござるからな」
「言えてる」
「ちなみに、自転車で煽り運転は違法でござるからな」
「え?そうなのか?」
「うむ。まあ自動車を煽ることが滅多にない故、問題視されていないでござるが……自転車同士でも、車間距離に違いはないのでござるよ」
へぇ。と感心しそうになったアキラは、しかし違和感に気づく。何か見落としている気がするのだ。そう思ってユイのほうを見ると、彼女はわざとらしく視線をそらした。
「おい、殺戮ベア。お前と初めて会ったときサイクリングロードで――」
「み、見なかったことにしてほしいでござる」
「……お前、いつか絶対に捕まるぞ」
そんなことを言っているうちに、次の交差点に差し掛かる。ここも直進。
「ちなみに、横断歩道の横に、自転車横断帯なるものが設置されている道路があるのでござる。ここもそうでござるな」
「ああ、あの自転車マークのレーンか。確かにあるな」
「これがあるところと無いところでは、走る場所が変わるのは存じておるかの?」
「え?いや、聞いたことはある気がするが……」
以前、ルリに軽く教わりはした。思い出そうとしているうちに、ユイが確認の意味を込めて解説を行う。
「自転車横断帯が無い場合は、車道に合わせてまっすぐ進めばよいのでござる。自動車と同じ進み方でござるな。しかしある場合は、一度左折して自転車横断帯に入り、それからレーン内を直進して、また車道に戻る。という流れでござる」
「ああ、そうだったな。思い出した」
喋っているうちに、今の交差点を通り過ぎていた。次の交差点が迫ってくる。信号はまだ青だ。
「今のうちに渡るでござるよ。またしても自転車横断帯ありでござる」
「おう」
まっすぐ交差点に入って、そのままハンドルを左へ。そうして自転車横断帯まで曲がったら、再び右にハンドルを切る。
アキラの後ろを走っていた自動車のドライバーが、その自転車を見つけた。
「ん?あいつらも曲がるのか」
左にハンドルを切った二人を見て、ドライバーはそう思う。
「よし、俺も左折だ。端に寄ってろよ。ガキども――!?」
そう思った次の瞬間、ユイが再びハンドルを切り返して、交差点に進入する。左折すると思わせておいて、急に直進方向に切り替えるとは――
「危ないだろうが!ガキが」
クラクションを鳴らし、さらに窓を開けて怒鳴り声まで発するドライバー。ぴたりと、ユイが自転車を止める。
「なんじゃ?拙者に文句があるのか?」
「あぁ?お前いま左に曲がろうとしただろうが!いきなり方向変えて飛び出してくんじゃねーよ。死にてーのか!?」
「むしろ殺したいのでござるか!拙者は法律どおりに直進したのでござる。なのに拙者たちに接触するという事は、お主の方こそ違反でござろう。交差点付近での追い越し未遂。および一時停止を怠った、お主が悪い」
アキラはその様子を見ながら、なんかまずいことになったらユイに助太刀しようと、自転車を降りていた。昔から何故か喧嘩に巻き込まれやすいため、割と勝てる自信はある。
(まあ、出来れば殴り合いにならないのが良いんだけどな)
そんなアキラの願いが通じたのか、後ろの車がクラクションを鳴らす。信号は変わりかけていた。
「――ちっ」
ドライバーは舌打ち一発。アクセルを踏んで、走り去っていった。ユイも信号が変わる前に渡り切らなくてはならないと、再び自転車に跨る。
このまま直進すると、自転車横断帯を越えて歩道に入ってしまう。その直前でハンドルを右に切り、車道に復帰する。
この瞬間も、ユイはサイドミラーで後方を確認しながら走っていた。後ろの自動車から見れば『歩道に入るはずの自転車が、再びふらふらと車道に侵入した』ように見えるからだ。それで追突されてはたまらない。
「アキラ殿……」
前を走りながら、ユイが小さく呟いたのを、アキラは聞き逃さなかった。
「うん?」
「こ、怖かったでござる……」
振り向くことなく、ただ小さく、ユイがそう言った。その声は隣を走る自動車のエンジン音に混ざりながら、しかしギリギリでアキラに聞こえる。
「そっか。そりゃ怖いよな」
女子高生であるユイが、成人男性に怒鳴られる。それだけでも怖いだろう。相手が自動車で、自分が自転車ならなおさらだ。
「実は、のう……あのドライバー殿の言う事も、一理あるのでござる」
「え?」
「自転車横断帯は、今からずいぶん前――拙者が生まれるより前から、設置が始まったと聞いているでござるよ。その当時は、自転車が歩道を走るのが当然。車道を走るなど、もってのほかでござった」
「ああ、そうだったな」
「しかし、法改正で車道を走るのが原則になった今、あれは邪魔でしかないのでござる。事実、多くの自治体が撤去を開始していると聞くのう」
法改正に伴い、必要になるものは多い。国民の意識の変化。道路の在り方。全てを急に変えることは出来ない。
まだ、10年前の法律が尾を引いているのが現状なのであった。
ただ、別に自転車が歩道を走ってはいけないわけではない。徐行する分には歩道を走れるし、何より降りて歩く分には歩行者だ。
ルリとケンゴは、自転車を押しながら歩道を歩いていた。
「なるほど。歩道なら、さっきみたいなトラブルに巻き込まれなくて済むってわけね。でも、どうして自転車に乗っちゃダメなの?法律上?」
ケンゴが訊くと、ルリは静かに首を振る。
「いいえ。法律上は、ゆっくり徐行するのであれば走って構いません。しかし、ピストバイクの固定ハブを使って徐行するのは、初心者には難しいですよ」
「ふーん」
ルリが歩く中、ケンゴも後ろをついて行く。横並びにならないのは、単純に歩道が狭いからだ。ようやく人ひとり分の広さしかなく、自転車は身体に密着させるようにして運ぶしかない。
「ピストバイクの場合、ペダルを止めると車輪も停止します。すると、そのまま転ぶ人が多いんですよ。ママチャリやロードバイクであれば、一漕ぎした後にペダルを止めて、ブレーキで減速することも出来るのですが……」
ガシャン!
ルリの背後で、軽い音がする。
「……まあ、大事なのはペダルをゆっくり回し続けて、かつバランスを保つ技術ですね。それが出来ないと、前の人に追突しそうになったり、慌ててペダルを止めた瞬間に急停止して転んだりします。分かりましたか?」
「はーい、ルリ先生。痛いほど体に叩き込まれました」
ブロック塀に肘をぶつけた姿勢で、ケンゴが言った。倒れたコッチペダーレを起こして、傷が無いかを確認する。
「おお、大丈夫かな?」
「まあ、少しの傷は勲章ですよ。使い込んだ証だと思ってください。いずれ傷つくのですから、早いうちに体験しておいた方が良いかもしれませんよ」
ルリはそう言いながらも、自身が初めてアイローネで転んだ時、同じように心配していたことを思い出す。あの時はサドル横の小さな亀裂がとても気になった。今はもう気にしていないが。
「さあ、渡りましょう。信号が変わります」
「おーけー」
自転車を押して、二人で横断歩道を歩く。これなら歩行者扱いなのだから、自動車も相手を優先できる。
渡り切ったところで自転車に跨り、再び車道に戻る。ここからは自転車本来のスピードが出せるところだ。
「ところでルリちゃん。気になったことがあるんだけど」
「はい。どういたしました?」
「これってさ。車通りが多かったら、車道に復帰できないんじゃない?横入りみたいになっちゃってるし」
「はい。だからこそ、本日は裏通りを走っているのです。ここなら比較的、自動車も通りませんからね」
ケースバイケース。何が正しいかではなく、何が状況に合うかを見定めるのも、ライダーの才覚である。
「ちなみに、ルリちゃんが大通りを走るときは、どこを走っているの?」
「ずっと車道ですね。自動車と並走すればいいだけですから」
「うわぁお。すっげー脚力」
ユイもまた、自動車並みの速度を出していた。
アキラは、それについていくのがやっとだ。ここが時速40km制限で助かったと思うほどである。
「こうして自動車と並んで走るのは爽快だな。疲れるけど」
「うむ。それに一番安全でござる。速度とは周囲に合わせることが重要でござるからな。遅いと邪魔になるでござるよ」
いつの間にか、車道を走るようになった自転車。それは、自動車だけが車道を走っていたころに比べて、きっと邪魔になっているのだろう。
「アキラ殿が、拙者とともに走れるまでに成長してよかった。これだけスピードを出すことこそ、安全でござる」
「ああ、遅いままだと、いつか自動車に轢かれるからな」
初心者であるケンゴを気遣ったルリは、ギアを落としっぱなしで走る。
「ケンゴさんは、無理のないペースで走ってくださいね。本来なら、スピードを出すほど危険であるはずなんです」
「おっけー、ルリちゃん。……本来なら、か。俺、このまま一緒にゆっくり走れたら、それでいいんだけどな」
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