第29話 方向指示って何だ?
「ケンゴさん、だいぶ慣れてきましたか?」
ルリがケンゴに並びながら訊く。本当ならこの自転車による横並びも禁止されている行為の一つである。もっとも、自転車の幅なら2台並んでも車線の半分しか使わないし、今なら他の車もいないのだが。
「ああ、ルリちゃん。結構慣れてきたかもよ。……まだルリちゃんほどじゃないけどね」
「当然ですね」
ルリは、ハンドルから両手を離して走っていた。一見すると危険に見えるその走り方だが、実はもっとも無理な負担なくコントロールできる方法だったりする。ついでに視界も高くなるので、見通しも良い。
「やっぱルリちゃんカッコイイなぁ。俺もいつか、そんなことができるようになるのかな?」
「ええ。普通に走っているうちに身に付きますよ」
ルリが再びすいーっと前に出る。そして、ハンドルに手を戻した。
「せっかくですから、ハンドサインも覚えてみましょうか?」
「ハンドサイン?」
「ええ。自転車におけるウィンカーのようなものです。方向指示以外にも使えますが、今日は基本的な内容を――もちろん、実践するのはもっと慣れてからで構いませんよ」
要するにデモストレーションである。
「おっけー。なるべく覚えるよ」
「気負わないでくださいね。私としても、暇つぶしに教えておく程度の意識です。ずっと走ってばかりだと、気分転換も欲しいですからね」
ルリが、右手を横に伸ばす。
「これが『右折』のサインです。ちなみに走り出すときにも使います」
「はーい。分かりやすいね」
「まあ、わざわざ分かりづらく作る意味はありませんから」
ちなみに、実際に手を上げてしまった以上、ルリは右に曲がる。ケンゴもそれに倣おうとしたが、
「おっとととと……ゴメン。俺にはまだ片手離しさえ無理だよ」
「ええ。ケンゴさんはしっかりハンドルを握っていて下さい。まして固定コグのピストでは、コーナーで神経も使うでしょうから」
ペダルを一瞬たりとも止められないピストバイクで曲がるとき、バランスをとりながら地面にペダルをぶつけないだけでも大変である。
一方のルリは、ロードバイクなので余裕……というわけでもない。右手を離してしまったため、ギアの切り替えができないまま減速してしまった。おかげで直線に戻ってからの加速が遅い。無駄に体力も使う。
「さて、次は『左折』をしてみましょう。ハンドサインは、こうです」
ルリは右ひじを90度折り曲げ、手を上に向ける。
「え?左折なのに右手を使うの?」
「ええ。おそらく左側通行を前提にしているため、左手でサインを出すと見づらいというのが理由でしょうね。あとは、電柱などにぶつける危険性もありますから」
「なるほど。じゃあ、まっすぐ横に出すのが右折で、上に曲げるのが左折ね。なんだか解りにくいなぁ」
「まあ、慣れればどうという事はありませんよ」
出した指示通り、ルリが左折する。
「こうして方向を指示すれば、自動車と接触する危険なども減らせます。まあ、記憶の端の方に留めておいてください」
「はーい。ルリちゃん」
ところ変わって、
「……って、前にルリに習ったことがあってさ」
ハンドサインのことを、アキラはユイに言った。いつぞやルリと一緒に走ったときに教わったことだった。まさに今ケンゴが同じ説明を受けているとは知らないだろうが。
「ふむ。拙者もビレッタを買ってすぐ、ユイ姉から同じことを教わった記憶があるでござる」
「だろ?あのハンドサインを使えば、さっきみたいに自動車とぶつかりそうになることも減らせるんじゃないか?」
アキラが名案とばかりに言う。今日は大通りばかりを走っているせいか、交差点のたびに何かある気がしてならない。安全なら使うに越したことはないだろう。
しかし、ユイは……
「……うーむ。拙者は反対でござる。ハンドサインなど要らぬよ」
と、首を横に振った。たなびく茶髪がふわりと広がる。
「な、何でだよ?さっきだって、俺たちが直進するって伝えられれば、相手のドライバーも止まってくれたかもしれないだろ」
「そうでござるが……アキラ殿。よく考えてみてほしいでござる。自動車にしても自転車にしても、『直進』のサインはないでござるよ?」
「あ……」
自動車のウインカーにしても、自転車のハンドサインにしても、曲がるときに使うものだ。直進を意味するサインはない。
「それに……まあ、ちょうどいいので実演して見せるでござるか」
「?」
「次の交差点、直進でござる」
前方から、自転車が接近していた。ユイと同い年くらいの男子だ。向こうは歩道を走っている。お互いに、同じタイミングで交差点に入るだろう。
そのタイミングで、ユイは右手を曲げた。『左折』のハンドサインだ。
「え?ここは直進って……」
「まあ、見てるでござるよ」
接近してきた男子は、ユイを見て同じように手を上げた。つまり向こうも左折のハンドサイン……だが、
「あ、あれ?」
その男子は特に曲がるようなそぶりも見せず、普通に直進して通り過ぎていく。ちなみに、ユイたちも特に曲がることはないが、周囲の誰もがそれを気にしなかった。
「このように、自転車のハンドサインなど同じ自転車乗りの間でさえ、あまり通じないのでござる。お互いにそういう認識を持っていないと意味がないでござるからな」
「え?じゃあ今の少年は?」
「おそらく、挨拶されただけだと思って、挨拶を返しているのでござろうな」
「……」
「まあ、ハンドサインなどそんなものでござるよ。こんなものに頼るくらいなら、ハンドルをしっかり握ってた方が幾分か安全でござろう」
腕を伸ばして背筋を逸らしたユイは、大きく深呼吸した。
そこまで後ろに体重をかけているのに、確かに車体はまっすぐ走る。それはハンドルに手を添えているからに他ならなかった。
「ところでルリちゃん。ハンドルから手を離さないまま方向指示を出せる道具ないの?ウィンカーみたいなやつ」
と、ケンゴが秘密道具をねだる。背中にポケットを付けた青い美女、ルリえもんは……
「いや、ないこともないのですが……あまりお勧めは出来ません」
と、答えを渋った。当然、ポケットから出て来るのも今の話と関係ないものばかりだ。
「私も以前、傾きを検知して自動で光るタイプのウィンカーを取り付けたことがあるのですが……」
「お、どうだったの?」
「全く認識していただけませんでした」
「え?」
ケンゴが口をぽかんと開ける。ルリはそれをサイドミラーで確認し、説明を再開した。
「そもそも方向指示とは、曲がり始める前に表示するから意味があるのです。自転車の傾きを検出して自動で点滅するということは、つまり曲がり始めてから指示を出すという事ですから」
「あ、そっか。もう遅いんだね」
「ええ」
ケンゴは少し落胆した。というのも、自転車にオートバイや自動車のような装備をつけることに少し憧れを持っていたのだ。それは、ルリだってかつては憧れたものである。
ふと、思い出した。
「……一応、ハンドルにコントローラーを取り付け、赤外線通信でウィンカーを操作する商品もあるにはあるんですよ」
「え?そうなの?」
「ええ。当店では扱っておりませんが、大手ネットショップで取り寄せが可能です。もし面倒であれば、私が個人的に代行しますが?」
「あ、いやネットショップは慣れているから大丈夫だよ。でも、取り付けは大変だったりするの?」
「いえ、簡単だと思います」
「そっか。じゃあ自分でできるよ……あ」
「どうしました?」
「い、いや、えっと……」
ケンゴは迷う。
(これはもしかして、ルリちゃんに取り付けをしてもらったついでに、『お茶を入れたから、中へどうぞ』とか言って家に連れ込む口実になったりしたんじゃないか?)
気づいたまでは良いのだが、一度『大丈夫』と言ってしまったことを取り消すのも気まずいし、何より家に誘うだけの度胸もない。チャンスとは何もしない人に幸福を運ぶものではなく、何かする人に覚悟を問うものだと、この時ケンゴは気づいた。
一方、ルリは別なことを考える。
(私の場合、ハンドルのどこにつけても邪魔になるコントローラーが嫌いで、つけませんでしたが……変速ギアのないケンゴさんのコッチ・ペダーレなら……うーん。どこに取り付けましょう?誤作動が起きても困りますし……)
この手の追加装備を取り付ける時、割と困るのはそれだった。
もともと無駄なスペースを可能な限り排除して作られている自転車にとって、多くの部品を積むような余剰スペースなど限られているのだ。ましてハンドルなど、ベルやライトを取り付ければ、いっぱいいっぱいになることが多い。
「いや、そんなもの取り付ける意味はないでござるよ」
ユイがさらりと言った。ちょうどこちらも偶然、アキラとウィンカーの話をしていたところである。
「ええっ!?割と興味あったんだけどな」
「まあ、それに関しては先ほどと同じことが言えるのでござる」
「先ほど?」
はて、先ほどと言うと何だろう?とアキラは首をひねる。
「ハンドサインでござる」
「ああ、あれか」
「うむ。ハンドサインが相手に伝わらなかったように、この自転車用のウィンカーも伝わらないのでござるよ」
ユイが言って、手元のコントローラーを操作する。ハンドル中央付近に取り付けられたそれは、丸い形に左右ボタンのついているものだ。そのボタンを押すと、確かに後ろカゴに取り付けられたランプが点滅する。
「おお、カッコいいじゃん」
「そうでござろう?拙者も最初はそう思って買ったのでござるよ。ちなみに、隣の県のプロショップにあったでござる」
「と、隣の県?」
「うむ。なに、ここから50kmくらいでござるよ?」
さも近いように言うユイだったが、決してママチャリで気軽に移動する距離ではない。
「しかし、のう……これ、光ったところで『お、ウィンカーだな』って思ってくれる人は周囲にあまりいないのでござる。正直『何か光ってるなぁ』程度の認識になることが多くて、の」
「そっか。自動車の場合は必ずついているから分かるけど、自転車の場合はたまについてたって、普通のライトと何が違うのか分かりにくいもんな」
「うむ。相手に伝わらないのでは、ただの自己満足でござる。……かっこいいでござるが」
「あ、ああ。そうだよな。カッコいいぜ!」
「……」
そっと、ユイは意味もなくコントローラーをいじる。別に曲がる気はないが、ブレーキランプのボタンを5回。
チカッ、チカッ、チカッ、チカッ、チカッ……
後ろカゴの中央にある赤いランプが、5回点滅した。それを見て、アキラは言う。
「やっぱ、カッコいいよな」
「ほら、やっぱり伝わらぬでござるよ」
「え?」
「何でもないでござる」
ユイはそう言って、すねたように前を向いた。何か悪い事をしてしまったかと思ったアキラだったが、
「ふふふふふんふふーんふーふーふーふんふふーんふふーん♪」
ユイが上機嫌に鼻歌を歌い出したので、どうやら機嫌を損ねたわけではないらしいと安堵する。
(ま、今のは伝わってもらっても困るでござるが、の)
歌い始めた鼻歌もワンフレーズで切り上げ、代わりに言うのは、ちょっとした愚痴。
「周囲が気づいてくれないサインを出すほど、恥ずかしいこともござらんよ。これからも、自転車にウィンカーやハンドサインなど要らぬでござる」
ケンゴの目の前を走るルリが、右手を斜め下に向けて降ろす。このサインは……
「あ、さっき習った『停車』のハンドサインだね」
「はい。その通りです。よく覚えていましたね」
右手で指示を出しながら、左手だけでリアブレーキとフロントギアを操作。ゆっくりとルリが停車する。ケンゴもそれに倣って止まった。
「えへへ。なんか、俺たちだけの暗号みたいでワクワクするよね。これ」
そう笑ってみせるケンゴは、まるで子供のようである。事実、ルリと自分の間にしか伝わらないサインを持っているのは、何かしら優越感があったのだろう。二人の距離が縮まったような気がして、単純に嬉しいのだ。
しかし、ルリは違う。
「……暗号、ですか」
「うん。俺も初めて知ったし、今日はいろいろ教えてもらえて嬉しいよ」
「……それでは、ダメなのですけどね」
「うん?」
本当なら、この手のサインは広く伝わらなければならない。だから、『暗号』などと言われたルリは、少し寂しかった。
もっとも、同時に嬉しくもある。ケンゴには、確かに伝わるようになったのだから。
「今はまだ、多くの人には伝わりませんが……もっとたくさんの人に、この暗号を伝えられるといいですね。だから一人でも多くの人に、これを教えたい。私はそう、願っていますよ」
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