第30話 お前らは何で喧嘩するんだ?
今日は、少し気分がいい。ルリはそう思っていた。接客していてもそうだが、話を真面目に聞いてくれる人と、そうでない人がいる。ケンゴは前者であった。
だからこそ、教え甲斐もあった。もっとも――
(アキラ様なら、もっと突っ込んだ話をするのでしょうけどね)
教えたことを吸収していくケンゴと、教えられてもいないことに疑問を持っていくアキラ。どちらといる方が楽しいか……
(
まあ、結論はそこに行きつく。
「ケンゴさん。もうすぐ大通りです。そちらまで出たら、本日は終わりにしましょう」
「おっけールリちゃん。今日はありがとう」
日も落ちてくると、ライトの装着が必要になる。夢中になっていて気づかなかったが、ケンゴはまだライトを持っていなかった。
(街灯の多い大通りなら許されますか……いえ、いけませんね。ルールはルールですから……)
偶然にも、トアルサイクルの近くである。こうなったら一度寄ってもらって、ライトの購入を勧めよう。もし安いので良ければ、買ってあげてもいい。ルリはそう思っていた。
一方、ケンゴは勝負を仕掛けるために、呼吸を整えていた。自転車による勝負ではない。
(いろいろ教えてもらったお礼に、食事でもどう?……いやいや、えっと……この辺に美味しい店が出来――てないね。じゃあ、思い切ってちょっと遠いけど美味しい店だ。今夜はもっと一緒にいよう。って――)
アキラやショウヘイを誘うのとは別次元の勇気が必要になる。どころか、今日アキラたちと飲みに行く約束をドタキャンした100倍の勇気が必要だ。
「る、ルリちゃ……」
「止まってください。ケンゴさん」
「え?」
突然のブレーキ指示のハンドサイン。ルリが片手で停止する。ケンゴもそれに倣って止まり、バランスを崩しそうになった。とっさに足をついて立て直す。
「おっとっと……どうしたの?」
ルリの表情が、普段よりミリ単位で険しい気がする。その視線の先には――
「この辺りは信号も多いゆえ、走りにくいでござるな」
「まあ、そうだな。つーか、お前すげーな」
サドルの高さ的に足のつかないアキラが、電柱に手を当てて信号を待つ。その隣では、ユイが自転車に乗ったまま止まっていた。
「スタンディングスティルというのでござるよ。体重移動を利用して、自転車を少しだけバックさせることができるのでござる」
ハンドルを自分のほうへ引き付ける。その時、ペダルも逆回転させて、後輪を開放。そうすると数センチ~十数センチほど後ろに戻れる。
「まあ、詳しいやり方は説明せぬが、少し練習すればできるでござるよ」
ペダルを漕ぎだせば、前に進む。これを繰り返して、前へ、後ろへ、ゆらゆらと移動し続ける。そうすれば、足を地面につくことなく停まれるのだ。
「少し練習……って、どのくらいだ?」
「お、アキラ殿もやってみたいのでござるか?むふふふ。やる気があれば1日や2日で覚えることができるのでござるよ」
「いいな。じゃあ、今度予定空けとくから、教えてくれよ」
また今日みたいに、放課後でも空けておこうと考えるアキラ。
「うむ。では週末に、の。拙者も平日は学校があるのでな」
文字通り、丸1日を練習に当てようとするユイ。二人の考える『やる気があれば1日で』の、やる気の量と1日の長さが違う。
「んお?あれは――」
信号を待っていたユイが、何かに気づいた。アキラもユイの視線の先を目で追う。
「あ、あいつら……」
ユイが方向を変え、横断歩道を渡る。向こうも気づいたようで、ブレーキをかけて立ち止まっていた。
「るーりーねーえー!!」
「ユイ。それにアキラ様も……」
「ケンゴ!お前、体調不良じゃなかったのかよ。つーか何だその自転車!そして何でルリと一緒にいるんだよ」
「うわぁ許せアキラ……と、誰だよ。そっちの女の子は!?妹か?百歩譲って従兄弟か?まさか彼女じゃないよな!!」
輪学市は広いようで狭い。
自転車を降りたルリが、ユイに一歩詰め寄る。
「ユイ。どうしてアキラ様と一緒にいるのですか?」
「そこで偶然会ったのでのう。今日は一緒にサイクリングがてら、自転車の手ほどきをしていたのでござるよ」
「手ほどき……」
「うむ。スピードの出し方やら、自動車の追い越し方やら、交差点の攻め方やら、いろいろでござる」
ユイが胸を張る。その態度も大きなものだ。一方、彼女の走り方を知るルリは、冷たい視線に静かな怒りも込めた。
「ユイ。危険走行を教えて回るのはやめなさい。まして、私のお客様に――」
「私の?いつからアキラ殿がルリ姉のものになっているのでござるか。アキラ殿が誰と一緒にいようと、文句を言う必要はなかろう」
「そういうことではありません。あなたが危険走行を広めるのが良くないと言っているのです」
「誰の運転が危険でござるか!こう見えても今まで乗ってきた10万キロの走行距離のうち、事故を起こしたのはたった1回でござるよ」
「1回でも事故を起こしているでしょう!それが危険だと言っているのです。なのにあなたは反省もしないで……」
「ルリ姉だって、以前の事故で側頭部を縫っているでござろう?拙者はそんな大怪我をしたことはないでござる。ルリ姉のほうが危険でござるな」
ユイの言葉に、ルリが右側頭部を押さえる。ヘルメットに守られた奥。まだそこだけ髪の生えない一本の縫合跡……
「る、ルリ姉?怒ったでござるか?」
さすがに言い過ぎたかという思いと、しかし言い過ぎなのはルリも同じだろうという考えが、ユイの中に混在する。
「……いえ。それは事実ですから、構いません。ですが、失敗から学んで次に生かす私と、失敗を偶然だと言い張るあなたと、明確に違うのです。安全は、危険の可能性を徹底的に潰す。そのさきに、真の安全があるのですよ」
その言葉に、ユイの目も吊り上がる。
「違うでござる。勝手に決めつけたレールを走れば、いつかそのレールが途切れた時に事故を起こす。自転車は本来、もっと自由であるべきでござるよ。責任と覚悟があれば、誰でも乗れる乗り物でござる」
眉根を寄せて、口角を震わせて睨むユイ。それを軽くいなすように、視線を外さずに顔だけ背けるルリ。
二人の気配に圧倒された男性陣は、ただ黙ってしまった。ケンゴのドタキャンを責める気もなくなったアキラと、彼女を食事に誘うタイミングを逃したケンゴ。
「おい、アキラ。あの子は?」
「ああ、ユイって言って、ルリの店の常連らしい。なんか、仲が悪いっぽいけど」
「見りゃわかるよ」
「俺が知ってんのもそこまでだよ」
蚊帳の外に放り出された男性陣が見守る中、ユイはルリに一歩近づく。ユイの持っていたビレッタが、ルリのアイローネに軽くぶつかった。
「勝負でござる。ルリ姉が正しいのか、拙者が正しいのか……走ればおのずと答えは出よう。どちらが道路に嫌われておるか――」
「いいえ。私は結構です」
「――え?」
ユイの言葉は、きっぱりと遮られた。
「公道はレース場ではありません。もちろん、ユイがいつも使っているサイクリングロードだって、勝負の場ではありませんよ」
そう言って、アイローネを遠ざけた。触れ合っていた車体が離れ、ハンドルにあった手ごたえがなくなる。
「それでは、私はもう帰ります。気分を害されました」
ルリが静かに言って、ペダルに足を降ろした。ガチャリ――何かがはまる音がする。
「では、アキラ様。また学校か、お店で」
「お、おう」
「ケンゴ様。暗くなる前に、気を付けてお帰りください。ああ、それと、これはお守りのようなものですが、ないよりましかと思います。差し上げますよ」
「え?あ、うん」
もらったのは、小さなシリコン製のライト。大して明るくもないこれは、ヘッドライトとしてではなく、その補助として作られた商品だ。
「ごきげんよう」
言い残して、ルリのアイローネが走り出す。まるで、この道路で唯一の正義は自分だと、走りによってのみ語るように。
「アキラ、俺も帰るよ。明日、学校でな」
「お、おう。悪いな。明日、その自転車、じっくり見せてくれよ」
「おう」
ケンゴもまた、去っていく。ルリからもらったライトは、結局ポケットの中に入れて行った。取り付け方がわからなかったのか、まだ明るいからいいと思ったのか。
「じゃ、じゃあ俺も――」
「アキラ殿……」
残された二人が声を出したのは、ほぼ同時だった。このまま家に帰ろうと思っていたアキラは、そのタイミングを失う。
「……」
彼女は、何を言ったらいいのか分からなかった。なんとなく呼び止めてしまったが、話すことなどない。
「……」
アキラも、特に詮索する気が起きなかった。とはいえ、呼び止められてしまったのは確かだ。何より、こんなに落ち込んでいるユイを放っておきたくない。
「まあ、あれだ。ルリと喧嘩なんて、いつものことなんだろう?」
「……そうでござるな。うん。その通りでござる」
「じゃあ、気にすんなよ。また仲良くなれるって」
「……うむ。そうじゃな」
「……」
疲れていたアキラは、腰かけられるところを探した。が、近くにそんなものはない。しいて言えば自分のローマがあるが、サドルに座るには少し高く、フレームに座るのは強度的に良くないとルリから聞いている。
まさか道端で、しかもスカートを穿いた少女の前でしゃがみ込むわけにもいかないだろう。仕方がないから、電柱に寄り掛かった。
「アキラ殿。拙者とルリ姉、どちらが正しいでござるか?」
「え?いや、えっと……」
そういわれても、比べようがない。この間まで素人だったアキラにとって、二人ともすげーとしか言いようがないからだ。
「拙者は、ルリ姉に相手にされてないのか。もしかして――」
ああ、そういうことか。と、察しの悪いアキラでも思う。
いつもは元気に喧嘩して、元気に去っていくユイ。それなのに今日、こんなに落ち込んでいるわけは……
「ルリも、同じ気持ちだと思うぞ」
「え?」
ユイが顔を上げると、アキラは笑った。作り笑いだと分かるような、下手くそな笑顔。ただ、そこに『ちょっとでもユイを元気づけたい』という気持ちは感じ取れる。
「俺さ。ちょっとうらやましいんだよ。ユイが」
「拙者が?」
「ああ。だって、ルリと喧嘩ができるってことは、それだけ自転車を知っているって事だろう。今日もいろいろ教えてもらったけど、その――ルリに教わってるときみたいに、いろいろ知れてよかったぜ」
「そ、そうかの」
ユイも脚が疲れていたのか、その場にしゃがみ込む。そのせいでスカートの中が見えそうになった。
こんな話をしていても、目がそっちに行くのは男の性分か何かなんだろう。なので、アキラもさりげなく隣にしゃがみ込む。うん。こっちからであれば気にならない。
「ルリってさ。普段、大学ではあまり喋らないんだぜ」
「え?そうなのでござるか?」
「ああ。まあ、綺麗な顔してるから、不愛想には見えないんだけどさ。どこか壁があるような気がして……さっきのケンゴとか、俺の友達の間じゃ『高嶺の花』みたいな扱いされているんだよ」
「ほう。拙者の知らない一面でござる。とはいえ、ショップでも常連客からは、そのように扱われておるか」
「だろ?だからさ――」
一呼吸おいて、そっと呟く。
「あいつ。ユイと一緒にいる時が、一番よく喋ってるよ」
ユイが、目を見開いた。先ほどまでの上の空な相槌はない。ただ、無言でも驚いたと分かる反応。そのままぱちくりと瞬きを繰り返し、無言で『本当でござるか?』と聞いてくる。
そんな様子が分かったから、アキラも無言で頷いた。そして、今度は作り笑いではない笑顔を見せる。ユイが元気になってくれそうだと、そう思って出る笑顔。
「だから、さ。お前がルリの実力を認めて、ライバルみたいに突っかかっているように、あいつだってユイのこと、対等に議論できる相手だと思っているだろうよ。じゃないと、あんな態度はとれないって」
「そ、そうかの?……しかし、競走はしてくれないのでござるよ」
「そりゃまあ、お前らが本気で戦ったら、町のみんながビックリするだろうよ。それこそちょっと心臓の弱い人なら、すれ違っただけでぶっ倒れるぞ」
そういえば、アキラはルリの本気を見たことがない。いや、ショップのローラー台では見たことがあるのだが、あれは短い時間だったし、使った車体も
ユイは、見たことがある。彼女が本気で走る姿を――
「確かに、拙者たちが本気を出すには、この町は狭いでござるな」
「だろ?……つーか、ルリから本気を引き出すのがすげーよ。俺なんか軽くあしらわれて終わりそうだしな。それこそ、俺が競走しようって言ったら『いいですよ』って言われそうだ」
「ふむ。そうでござるな……ルリ姉は、拙者を認めてくれないわけではなかったのか」
すっと、ユイが立ち上がる。アキラもそれにつられて立った。
「アキラ殿。礼を言うでござるよ」
「ん?」
「あー、えっと、その……今日のサイクリングが楽しかったでござるからな。また、こうして一緒に走りたいでござる」
照れ隠しのように、にかっと笑うユイ。その顔が少し赤いのは、さっき泣きかけていたからだろう。ズズッと鼻水をすする仕草が、どことなく子供っぽい。
「そ、それでは、今日は解散でござる。また、いつでも連絡待っているでの」
「お、おう――って、お前の連絡先なんて聞いたことがないぞ!?」
「ではのー」
「いや、聞けよ。おい」
ユイが一気にペダルを回す。勢いあまって前輪が浮き上がり、カゴの中にいるからあげ(クマのぬいぐるみ)が跳ねた。
逃げるように走り去るユイの背中を、アキラはただ茫然と見ているしかなかった。
「な、なんだよ。急に元気になったな」
ユイは、速度を上げていた。フォームは乱れ、体力はどんどん消費される。それでも、もっと速く、もっともっと風を切って――
そうしないと、心臓が張り裂けそうだった。
(なんでござるか。無駄にドキドキしおって――いや、これは自転車のせいでござる。こんな風に必死で走っているゆえ、ドキドキするのは当然でござる。だから、これは自転車の所為。降りたら、いつもの拙者でござる)
そう、自分に言い聞かせる。しばらく、自転車を止める勇気は出なかった。
夜……
すっかり日も暮れた時間に、ルリは自宅アパートにいた。実家を離れてもう一年半。食事の準備も慣れたものである。
(アキラ様……ユイから変な話を聞かされていないといいのですが……)
店員として、当然のように客の心配はする。もしお客様が事故を起こせば、店員としても哀しいのだ。場合によっては保険屋と交渉する必要が出てくるし……
(私のお客様なのに、ユイが勝手に取っていって……)
気に入らない。今までだってユイを気に入らないと思っていたが、今日は特に気に入らない。
嫌いだ。自分の知らないところで、一緒に走っていたユイが嫌いだ。
嫌いだ。ケンゴさんは私に声をかけてくれたのに、アキラ様はユイに声をかけていたのだろう。それが嫌いだ。
いやだ。アキラ様がユイと一緒に、楽しそうにしていた。それを認められないのが、いやだ。
いやだ。ケンゴさんと一緒にいた私は、楽しそうに見えただろうか?もしアキラ様から見たとき、私も同じように見えたなら、いやだ。
ん?どうして私は、こんなに意味のない思考を持っているのでしょう?別にアキラ様だけが特別ではありませんし、ケンゴさんだって……
テレビでは、バラエティ番組が流れている。視聴者の体験談を寄せ集めて、それを再現ドラマ化する番組だ。いろんなコーナーがあるが、決まって最後は女子受けしそうな胸キュン系。壁ドン、顎クイ……
主人公の女子が、イケメンと話している。その前に立っているのは、悪役の女子。外面だけはいいのに、陰では主人公をいじめていた女だ。
その女が主人公に文句を言い、嫉妬深く喚き散らす。それを見たイケメンが、主人公の女子を守るように抱きしめ、悪者女には冷たい言葉を浴びせる。
それを見て、ルリはなんとなく、悪者に感情移入してしまった。
……ああ、そっか。
顔が痺れる。目の下あたりが、ビリビリと……
その痺れは、頬に一筋の線を描き、顎にまで痛みを運ぶ。
熱い。それに、重い。あまりの熱さと重さに、顔の形まで変わってしまいそう。
いや、変わってしまっただろう。きっと鏡を見れば、誰にも見せられないほど汚い、醜い顔があるに違いない。
「私は、アキラ様を――」
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