より速く走れる装備をおすすめします
第31話 レースに必要なものってなんだ?
昨日、ユイから教わったことが、アキラの気持ちを奮わせていた。こういった知識がそこそこ増えると、もっといろんなことを知りたいと思える。
アキラは、いつも通りにトアルサイクルを――ルリを訪ねようとしていた。
「昨日はケンゴと一緒にいた――ってことは、休みだったってことだよな」
ルリのバイトに連休は殆どない。曜日にかかわらず、ぽつりぽつりとシフトが組まれている。
基本的に土日は朝から出勤。あとは夕方から閉店にかけて(厳密に言えば、閉店後の片づけまで)勤務しているはずだ。
この数か月ですっかり常連の顔になったアキラが、扉を開く。すると店員の一人(安全整備士で、正社員であるらしい)が、ルリを呼んでくれた。本当に、通い慣れたものである。
レジを交代したルリが、奥から歩いてくる。そして立ち止まり、いつも通りの会釈で出迎えてくれた。
「アキラ様。いらっしゃいませ」
いつものスーツパンツに、いつもの整備用エプロン。いつもの編み込み髪。いつもの不機嫌ではないタイプの無表情。
そこに――いつもと違う点を見つける。
「お?メイク変えたのか。イメチェン?」
なんというか――ケバくなっていた。
学校ではすっぴん。バイト先では『接客業なので仕方なくやりました』程度の化粧にとどめていたルリが――
派手なチークに、同じく赤系統でまとめたアイシャドウ。つり合いを取るためか、ルージュもいつもより濃い。心なしか、その縁取り方も広い気がする。もともと薄い唇が、今日は強めに主張していた。
(いつものルリのほうが好きだけど、たまには良いな)
アキラはそのように考えた。元の顔立ちに立体感と血色の良さが加わっているし、何より素材が良ければ大概は綺麗に見えるものである。
「――ええ。先輩から、化粧道具を少し拝借しました。いかがでしょう?」
「ああ、似合ってるよ。たまにはいいじゃん」
「そうですか。ありがとうございます」
言葉と裏腹に、ルリは少し不機嫌そうな声音で言った。
彼女がこんなメイクになった原因――それがアキラにあることを、当の本人は知らない。
「るーりーねえーっ」
後ろから、やたらハイテンションな声が聞こえた。こちらは常連歴2年目になる少女。ユイだ。
背中の真ん中くらいまで届く長い茶髪。学校指定のセーラー服に、クマのぬいぐるみ。くりくりとした目をいっぱいに輝かせ、ややスキップ気味に入店する。
「ユイ。奇遇だな」
「おお、アキラ殿も来ておったか。うむうむ。元気そうで何よりでござる」
「おいおい。昨日の今日で病気やケガなんか、滅多にするかよ」
「む?拙者が心配したのは、筋肉痛のほうでござるよ。なんだかんだで昨日は結構走ったでござろう?」
喋り方を除けば普通の女子高生である彼女は、視線を再びルリに戻す。
「そうそう。ルリ姉、聞いたでござるか?来年の1月の話」
来年の1月。その場所も内容も細かい日時もない話で、ルリはピンときたらしい。
「ああ、例のあれですね。聞いたも何も、すでに当店でもポスターを張らせていただいています」
ルリが指さした先には、たしかにA3の光沢紙が張られていた。裏向きになっているのは、店内からではなく外から見ることを想定しているからだろう。
そのポスターに書かれていた大会は、
「チャリンコマンズ・チャンピオンシップ――?」
その大会は、よりによって真冬に行われるレースらしい。自転車で日本縦断。途中休憩も降参も自由。年齢、性別、資格、実績を問わず、誰でも参加できると書いてある。
自転車なら何を使ってもいいらしく、ポスターには『ママチャリでも歓迎!!』と書かれている。保護者から同意を得れば、未成年でも出場可能。
禁止されているのは、自転車の乗り換えだけ。そんな奇妙なレースだった。
「何これ?」
アキラが素直な疑問を口にする。ルリも肩をすくめて見せた。
「さあ?何がしたいのか分からない大会ですね」
そして、二人でユイを見る。
「ユイ。出るのか?」
「いや、拙者ではござらぬよ。叔父上が興味津々なのでござる。10年ぶりに血が騒ぐと申していて、すでに自転車を整備し始めておっての」
ユイの叔父上とやらが誰なのかは、ルリも知らない。もちろんアキラが知るわけもないが、
「お前の叔父さん、すげーな」
「まあ、頑張ってください」
「うむ。まあ、そんな反応になるでござろうな。普通は自転車で日本縦断などせぬよ。拙者も驚いたでござる」
手を組んで肩をすくめるユイ。アキラとルリも頷き返す。
「でも、レースって一度出てみたいような気もするな」
アキラがふと言った。
実は、多くのロードレースの大会には規定が存在する。その既定の一つが『ドロップハンドルを使用すること』だった。アキラのクロスバイクは、ストレートバーハンドルだ。だから出られないでいた。
「私は一度、地元の大会には参加したことがありますね。残念ながら準優勝止まりでしたが」
「おお、マジか!?」
「はい。ツール・ド・ワナビという、ここ輪学市から下関までを走るワンデイレースですね」
「ううむ。ツール・ド・ナントカシリーズでござるな」
「ツールド何とか?」
アキラが首を傾げた。
「ああ、アキラ様は、ツール・ド・フランスをご存じですか?」
「いや?」
「フランス一周レースでござるな」
ユイが解説する。その通り、フランスを一周するレース……どころか、
「国境を超えて、周辺国まで回る大きなレースでござる。総走行距離3500kmで、開催期間21日。化け物どもの大会でござるよ」
「自転車で?すげぇな」
と、アキラは驚いた。もっとも、アキラだって最近は毎日10km以上走るようになったし、休日には50kmほどのサイクリングも珍しくなくなってきている。一か月の走行距離は、おおよそ500km程度にはなってきているのだが。
「その大会にあやかって、日本でも何かしら自転車の大会となると『ツール・ド・○○』と名付けるのでござる」
「あれか。地元の球技大会に『○○ンピック』って名付けるようなもんか」
「それですね」
「拙者の父上も、ワナビンピックのバレーボールだけは本気でござったな。4チームしか出場しないのに、ベスト3入りで喜んでたでござる」
話を聞く限り、ルリが準優勝したという大会も地味そうだ。と、アキラは内心がっかりする。とはいえ、ルリが速いことは知っているし、そのルリでさえ優勝できない大会となると、やっぱり気になるところだ。
そう思っていると、店長が店の奥からタブレット端末を持って出てくる。
「やあ、面白そうな話をしているね」
「あ、店長。うっす」
「アキラ君。いつもありがとうね。……で、ツール・ド・ワナビだっけ?ルリちゃんが出たときの映像、あるよ」
タブレットに表示されたのは、動画共有サイトだ。おそらく視聴者撮影であろう動画を編集してつなぎ合わせ、そこによく知らない洋楽をつけたPVのようなもの。観光協会のチャンネルでアップロードされている。
その動画は、アキラの心をつかんだ。
(なんだ。これ……)
大勢の自転車乗りが、見たこともないほど並んでいる。一斉にスタートして、一緒に走っている。一見すると、ただゆったり走っているだけのようにも見えるが、
(コース長いな。もう50kmも走ったのか……)
体力を温存するための、協力して走る前半。そして、
(あ、ルリだ)
勝負に出る後半。上り坂で一人だけ先に行くのは、ルリだった。
大口を開けて、肺いっぱいに空気を吸い込む。ボトルを引き抜き、浴びるようにこぼしながら飲む。そして、精一杯ギアを下げて、回転数を上げて登っていく。
普段、クール&ミステリアスなどと自称している彼女の姿ではなかった。
「すげぇな。ルリ」
「お恥ずかしい限りです」
「いや、そんなことないだろ。カッコいいよ」
そして、ゴール。一番早く着いたのは、見たことのない少年。続いてルリが2位だった。その差は僅差だったが、勝敗を明確に分けた。
表彰台には、いつものように無表情に突っ立っているルリがいた。優勝できなかったことに不満を持っているようにも、ただ大勢の前で緊張しているようにも見える無表情――
「ちなみに、この時は何を考えていたんだ?」
「ああ、これですか。……確か、レースの途中で美味しそうなパンのお店を見つけたので、寄って帰ろうと思っていたんです。ああ、でも今月はお小遣いも少ないなと、悩んでいました」
「表彰台で考えることがそれかよ!?」
「はい。レースは過程がすべてだと思っています。全力を出したら、それに伴う結果が出ます。その結果は私にとって、どんなものでも満足できますから」
すっと、ルリは画面の中と同じ無表情で言った。違いがあるとしたら、やっぱり画面の中のルリはすっぴんで、目の前のルリは派手なメイクであることくらいか。
「勝敗にはこだわらないのに、あんなに必死に走るんだな」
「はい。私とアイちゃ……アイローネは、パートナーみたいなものです。だから二人だけの時間は、他の選手に邪魔されたくありません。誰かに勝ちたいのではなく、アイローネと気持ちよくなりたいのです」
少なくとも、その言葉に偽りはない。優勝できなかった負け惜しみで言っているわけじゃないことくらい、アキラにも分かった。
ただ……
「ルリって、ちょっと普通と違ったことを考えてるよな。なんっつーか、こだわり?みたいな」
ルリの感情を揺さぶる部分がどこにあるのか。それはアキラにも解らない。
解らないはずである。
なにしろ、
「ええ。私も、自分が何に夢中になるのか、解りません」
ルリ自身、知らないのだから。
自分がどこで、感情を動かされるのか――
(レースに負けても、転んでも、涙なんか出ないのです。仕事に失敗しても、学校に遅刻しても、全米が泣いたらしい映画を見ても――なのに、昨日は……今も……)
本音を言えば、今日はアキラと顔を合わせたくなかった。ただ、仕事である。当店で自転車をご購入くださった彼は、まぎれもなく顧客であった。
もっと言えば、ユイとも会いたくなかったが、これまた仕事である。イベントの紹介や、各種案内も業務に含まれる。時給が出ている以上、相手が誰であれ接客はする。
(……)
二人が同じ日に、同じタイミングで来店してしまったのが、一番つらい。しかし、仕事である。
実家からの仕送りだけで大学生活をしているわけじゃない。学費は勿論、家賃や食費だって、一部は自分で稼がないといけない。それをさせてくれる職場にも恩がある。私情で穴をあけるわけにはいかない。
(ポーカーフェイス。いつもどおりに……大丈夫。私はクール&ミステリアス。常に何を考えているか分からない、いつもの私です)
昨晩、こすりすぎて赤くなった鼻は、ファンデーションで隠した。荒れた唇は、グロスで修正した。腫れぼったい目は、むしろシャドウで強調することでごまかした。
飛び出しそうな心臓は、整備士用の堅いエプロンが押さえてくれる。側頭部を襲う頭痛は、きっと髪の毛を編み込んでいるせいだ。
――いつもの自分だ。
「アキラ様。もしレースに興味があるのでしたら、ウェアやヘルメットなどをお勧めしますよ」
「え?でも俺、クロスバイクだぜ?」
「はい。だからレースに出ることは出来ませんが、気分だけでも味わってみるのはいかがでしょう?何より、レース向けの服装などは、普段のサイクリングをもう一段ほど快適にしてくれます」
「街中で使っても……ってことか?」
「はい。事実、私も通学時に靴とレーパンは使っていますから。それに、グローブも」
そう勧めたルリは、続いてユイに視線を向ける。
「ユイも、よろしければ見ていきませんか?ご一緒に」
「うむ?拙者は、別にレース用装備など要らぬでござるが?」
「はい。ですから、お話だけ。もし気が変われば、その時にご購入ください」
「ん……気など変わらぬと思うが……まあ良かろう。せっかくアキラ殿が乗り気なのでござるし、付き合うとしようか」
ユイが、にかっと笑った。きっとアキラやルリと話すのが楽しいのだろう。アキラも同じ気持ちだったので、話題ができてよかった。
そして、ルリも思う。こうして3人で話をするのは楽しいと。
(楽しい。ええ、ここは楽しい職場ですね)
自分に言い聞かせるように、目を閉じて、頭に浮かべる。
そして再び目を開けて、今度はアキラたちに語りかける。
「それでは、レースに必要なものなどをご紹介しましょう。
身にまとう服は、時として自転車の部品交換よりも、効果を発揮することがあります。
スピードを出したい人も、ストレスなく乗りたい人も、安全に配慮したい人も、きっと必見ですよ」
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