第5話 ルリ、本当にいいのか?

「……申し訳ありません」

 深く謝罪を述べるルリに、アキラは面食らった。

「いや、ルリの所為じゃないだろう。そっか、売り切れならしょうがねぇよ」

「すみません。えっと……もしかすると、当店以外のお店には在庫があるかもしれませんが……」

「少なくとも、この店じゃ無いのか……」

「はい……当社、トアルサイクルグループの店舗を端から端まで検索しましたが、全店舗で売り切れSOLD OUTでございます」

 いつまでも頭を上げようとしないルリに、アキラもなんと声をかけたらいいやら……

「アキラ様。よろしければ、他のメーカーにも素晴らしい車体は多く存在しますが?」

「ああ、そうだな……」

 実を言うと、アキラも落胆している。一度は手が届くと夢見た車体だ。あっさり諦めるのは難しい。車体に対する一目惚れとは、手に入ればすぐ飽きる癖に、手に入らないと引きずるのだろうか?

「……」

 ルリもその心境を察して、押し黙る。そして、ようやくゆっくりと頭を上げた。

「アキラ様。もしよろしければ、あと15分、私に時間をくれませんか?」

 唐突なお願いだった。

「は?いや、まあいいけど?」

「ありがとうございます。では、15分ほどお待ちください。店内を見て回られても結構ですし、15分後に戻ってきてくださってもいいですが……」

 理由を言わないルリに対して、どうして15分なんだ?とか訊くべきだっただろうか?アキラは迷ったが、あえて訊かないことにした。ルリなら悪いようにはしないだろうと、何となく信用したからだ。

「ああ、それじゃあ店内をもう少し見て回るよ」

 もしかしたら、ローマ以上に気に入る車体があるかもしれない。そう思って、アキラは再びクロスバイクコーナーを見て回った。



 結局、無かった。

 いや、これは本当にアキラの価値観と、今の精神状態の所為である。素晴らしい自転車は山ほどあるが、逃がした魚の大きさが邪魔をして、純粋に見られない。

「そろそろか?」

 約束通り、大体15分が経過しただろう。

「ルリー。そろそろ時間か?」

 アキラがルリを呼ぶと、

「ええ、そうですね」

 ルリは店内の時計を見て、それから店長に歩み寄った。

「店長。私、時間なのでお先に失礼します」

 店長がお疲れと言ったのを確認して、ルリはバックルームに引っ込んだ。

「え?あれ、ルリ?おい。俺の自転車の話は?っていうか、あれ?どこに行くんだ?」

「ああ、ルリちゃん、バイト終わりだから」

 店長が言った。

「は?じゃあ俺の自転車はどうなるんだよ。つーか、え?俺を見捨てるのか?ルリ……そりゃねぇよ。俺は本気にしてたのに、何でお前は……」

「誤解を招くので、そのような言い回しは控えてください」

 店の奥、staff onlyと書かれた扉から、ルリが出てくる。先ほどまで付けていたエプロンを外し、スーツジャケットを羽織った彼女は、たいそう不機嫌そうだった。

「私は、アキラ様を見捨ててはいません」

「よ、よかった……」

 アキラは安堵のため息を吐いた。店長が小さく「あ、突っ込むところはそこなんだ」などと言っていたが、二人とも聞いていない。


「アキラ様。何かビアンキ以外で、お気に召した車体はありましたか?」

 ルリの問いかけに、アキラは首を横に振る。

「すまないな。やっぱり俺、今まで通りママチャリで我慢しようかと……」

「……そうですか」

「ああ、だから……その――」

 アキラの目を、ルリはじっと見ていた。あまりにも視線を外さないまま、瞬きすらしない勢いでアキラを見ていた。眠たそうな目であるが、どこか悲しそうでもある視線が、アキラを刺す。

「アキラ様。私と賭けをしませんか?」

「は?賭け?」

「はい。私と自転車勝負をしてください。もちろん、車体はこちらで用意します。もしアキラ様が私に勝てたら、あのROMAを半額にしましょう」

「え!?」

 アキラが驚く。それ以上に店長が驚く。

「ルリちゃん。それはダメだよ。ぼく怒るよ」

「店長。別にお店に損害を与えるつもりはありません。ただ、半額は私が出すと言っているんです」

 ルリは店長に詰め寄ると、財布の中からざっと5万円ほどを引き抜いた。常に女子大生が持ち歩く金額としては大金だと思う。

「私は今、この店のスタッフではなく、アキラ様の大学の友人という立場で話しています。友人の自転車を購入するにあたってカンパを行う。それが拒否できましょうか?」

「い、いや、いいけどさ」

 店長たじたじ。どっちがバイトだか……

「で、俺が負けたら?」

 アキラが聞くと、ルリはじろりと睨んだ。

「そうですね。私が5万円もの賭け金を用意するんです。そちらも同等のものをベットしてもらいます」

「な、なにを……」

「それは……まあ、秘密です。少なくとも5万に釣り合う願いであることだけは、約束しましょう。それ未満でも、超過でもありません」

 怖い。けど、なぜだろう。ルリからは悪意のようなものは感じられない。いや、別に善意も感じないし、つまりひたすら表情が読めないだけなのだが。

 いずれにしても、本来なら11万もするROMAが5~6万になるなら、やってみる価値はある。ただ、重要な点として……

「ハンデは貰えるか?」

 当然、真っ向勝負でルリに勝つのは不可能だろう。ママチャリを何も知らずに走らせていただけのアキラと、多大な知識と経験を持ち、毎日のトレーニングを欠かさないルリ。将棋なら6~8枚落ちが大前提だ。

「ええ。もちろんいいですよ。そうですね……」

 ルリは店のレジ横に置いてある自転車を指さした。ロードバイクが、大きなスタンドのようなものに固定されている。

「ローラー台で、最大速度の速かった方が勝ち。ただし、私のスコアは半分とする……この条件でどうでしょう?」

 タイヤを固定して、その回転数を機械で測る計測装置。その名もローラー台。要するにトレーニング目的の器具を使って、速度を測るという趣旨なのだろう。

「半分か……いいぜ。のった」

 アキラはその勝負を受けることにした。ルリの真意は未だに分からないが、

(自転車なんて、原チャリより遅いはずだ。原チャリが時速30キロ制限だから……ルリは25キロくらいは叩き出してくるだろう)

 冷静に分析して、自分に勝算があると確信する。

(ハンデを含めるなら、俺は13キロ出せば勝てる計算になる。歩行者の速度が時速4~5キロだから、歩くより3倍速く走ればいいわけだ。簡単だぜ)


 その計算は、見事に打ち破られることになる。


「先攻は、私で行きます。大丈夫ですか?」

「ああ」

 アキラが頷くと、ルリは自転車に跨った。脚を大きく後ろに投げ出して、回し蹴りをするような動きからの乗車。なんかカッコイイ。

(惜しいのは、スカートじゃなかったことか……)

 邪推なことを考えながら、ルリのお尻に邪な視線が向いてしまう。ルリはペダルを漕ぐと、少しずつ速度を上げていった。ガシャガシャガシャンと、小気味のいい変速ギアの音がする。

 チェーンはまるで列車のように、歯車の上を進路変更していく。そして……


 ギュアァァアアア!


 チェーンが、信じられない音を立てて高速回転する。ルリの脚は目にも留まらない速さでペダルを回す。風圧が、アキラの前髪を跳ね上げた。

 ルリ自身は、まったく身体を揺らすことなく前を見ている。まるで上半身と下半身を切り離したようだ。オートバイに乗っているライダーと、その二気筒エンジン……そう形容するのがふさわしいだろうか。

 しかし、まだギアは上がる。ドロップハンドルの一番下を持ったルリは、さらに姿勢を低くする。

 ハンドルに、汗が落ちる。


「――!!」


 ルリは息を止めて、声にならない声を喉の奥にためる。その瞬間が、最も速度の上がる瞬間だ。

 アキラは、その後輪を眺めていた。まるでスローモーションのようにも、逆回転のようにも見えるスポーク。ローラー台はギシギシと軋み、今にも自転車が飛び出しそうである。

「っくはぁ――!」

 ルリが大きく息を吐いて、ペダリングを緩めていく。力を出し切った。そんな表情だ。

「記録……出ましたね。この表示の半分が、私のスコアです」

「おいおい、マジかよ……」

 Max72.4km/hと、その画面に表示される。そのほかにも何やら記号や数字が並ぶが、そこは気にしなくていいらしい。

「72キロ……自転車で?」

 アキラが目を見開いて驚く。普通に話を聞いただけなら「冗談だろ」の一言で済んだのだろう。しかし、実際に見ていたからこそ分かる。これは冗談でも計測器の故障でもない。

 ただの、実力だった。

「とはいえ、私も実際に公道で70km/hを超えたことはありません。空気抵抗や路面の突き上げを想定していないので、この数字になるのでしょう。あくまでローラー台の上での記録です」

 そう言ったルリは、アキラに乗車を促す。呼吸が整わないのか、胸を上下させて息をしながら……

「さあ、今度はアキラ様の番です。72.4の半分ですので、36.2km/hを出せれば、アキラ様の勝ちとなります。原チャリと同じくらいの速度だと思ってくれれば構いません。制限速度を順守する原チャリは珍しいですからね」

「いや、簡単に言うなよ。チャリだぞ?人力だぞ?原チャリ並みに速度を出せてたまるか」

 目の前には、それをはるかに上回る速度を出した女子がいる。が、それはそれだ。何の訓練もしていないアキラに、その速度が出せるはずもない。

 しかし、ルリは首を横に振る。汗で濡れたショートカットの髪が広がり、水滴が飛ぶ。



「私が、高速の世界へご案内しましょう。

 その世界には、チケットも必要ありません。免許も資格もいりません。

 必要なのは、自転車への愛と、覚悟だけ。

 ある意味、免許より多くのものが必要でしょうね。

 しかし、その世界の扉は簡単に開かれます。


 ようこそ、私たちの世界へ」

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