第37話 下りの方が怖いのか?

 登りがあるなら、下りも必ずある。峠とはそういうものだ。

 山頂を通過したアキラたちは、登ってきたのと同等かそれ以上の下り坂に直面していた。


 前輪と後輪、そのどちらかに体重が偏ると、体重の乗っていない方が滑り出す。特にコーナリングではそう。

「なので、体重は後輪に6割、前輪に4割くらいの気持ちでかけておいてください」

 と、ルリは説明した。

「ん?なんで5:5じゃなくて6:4なんだ?」

「傾斜にも寄りますが、下り坂で前輪が低くなっている場合、自分が思っているよりも前に体重がかかっているものです。なので、気持ちの問題で6:4……アキラ様の場合はクロスバイクですので、気持ちでも5:5でいいかもしれませんね」

 そういうルリは、いつもよりやや前に腰を落としている。前に体重をかけ過ぎているようにも見えるが、後ろの荷物と合わせて釣り合いを取っているのだ。

「ちなみに先ほどの話と逆になりますが、実測ならフロント加重――つまり前輪に多く重心が乗っていた方が有利かもしれません。後輪が滑り出した程度なら、前輪を軸にして引っ張る形で立て直せますので」

「でも、そんなに滑るもんなのか?自転車って」

「ええ。特にこういった峠の場合ですと、砂ぼこりなども溜まっているので……あ、落石にもご注意ください」

 落石と聞いて、アキラが背中を逸らす。

「上か!」

「……下ですが」

「え?」

「いや、そうタイミング悪く落ちてきた石にぶつかることは、滅多にありませんよ。それより地面に気を付けてください。道の真ん中に大きな石が落ちている場合などがあります」

「……」

 ややカッコつけて『上か!』とか言った後で、アキラとしては少し恥ずかしい。



 まったくペダルを回していないのに、ぐんぐん進んでいく自転車。風を受ければ減速し、頭を下げれば加速する。

(まるで、鳥になったような気分だな)

 コーナー手前でエアブレーキ。上半身を起こして空気抵抗を受ける。これだけでも急激に減速できるのだから、自転車とは不思議だ。

 それでも曲がり切れないので、ブレーキレバーも握る。より急激に利くのは、後輪ではなく前輪のブレーキだ。前に慣性がかかる都合、ブレーキ時には前に体重が乗るものである。

 ただ、

「アキラ様。ブレーキは後ろから握り始めてくださいね。いきなり前から握ると、スリップする危険があります」

「そうなのか」

「はい。私たちがよく伝えるのは、『後輪ブレーキで減速。前輪ブレーキで停止』です。実際にはもっと複雑な使い方も出来ますが、ひとまずそれだけ覚えてください」

「ああ、分かった」

 アキラの使うディスクブレーキは、通常の自転車よりも急激に停止するだけの制動力を持っている。軽く握っただけでも、その力をしっかりとタイヤに伝える。

 だからこそ、心配するべきはタイヤと地面との摩擦だ。これを失うと、車体は急に転倒しかねない。タイヤが横に滑るというのは、地面が突然消えるくらいの恐怖だ。

 怖い。

 でも、


「楽しいな」

「え?」

 前を走るアキラが、少しだけ速度を上げる。

「まるで飛んでるみたいじゃん。自転車もほんの少し体重を傾けるだけで、大きく軌道を変えるし、さ。俺は気にいったよ」

 軽量化された自転車は、単に速いだけではない。ライダーの体重移動など、テクニックを大きく反映するという事だ。

 アキラの走り方は、とても安定していた。コーナーを曲がるときだって、膨らみすぎず、それでいて内側に切り込みすぎない。

(意外な才能、ですね)

 早い判断と、正確な情報収集。その両方を必要とする下り坂で、アキラはルリよりもしっかりと走っていた。もともと動体視力や反射神経が良いのだろう。




 山を越え、町を越えて、適当に入った食堂でお昼ご飯を食べて、

「食べ過ぎたー」

 調子に乗って(あるいは、格好つけて)注文しすぎたアキラを長めに休憩させて、それから遅れを取り戻すように走る。

 そんな楽しかった一日も、やがては終わりが来るらしい。




「アキラ様。見えてきましたよ。海です」

「え?もう?」

 目の前に並んだ木々が開けて、その隙間からキラキラと輝く水面が顔を出す。刻一刻と、風景が森から海へと変わるそのコースは、幻想的だった。

「100kmって聞いたときは、もっと過酷なもんかと思ったけどさ。案外、あっけないんだな」

 そう余裕を見せるアキラに対して、後ろから横に並んだルリが言う。

「半分に当たる50km時点で『もう限界だ』と言っていたのは、アキラ様だったと記憶しておりますが?」

「う……そ、それは忘れてくれ。つーか、あれだよ。限界を超えたあたりから、無敵モードになったっていうか、どこまでも走れる気がしてきたって言うか、その……」

「ええ、分かります。私も何度か経験しました」

 人間、辛くなった先にもう1段ほど、あるいは2、3段ほど、何かを隠しているものである。アキラのそれを見極めて引き出すのも、今日のルリの目的だった。

 とはいえ、いきなり引き出しすぎても体に悪い。なので、

「もう少し気分が乗っているなら、海岸線を一緒に走りましょうか」

「お、いいなそれ。景色もきれいだし、楽しいだろうな」

「ええ。ですが、帰りは電車ですよ。そのために輪行用のバッグなどを持ってきたのですから。……それと、帰ったらしっかりマッサージをして、お風呂で疲れを取ってください。睡眠も大切です」

「お、おう。分かった」

 無理は1度しかさせない。2度連続しての無理は良くない。それがルリの自論であった。また、メンテナンスは繊細に――これは自転車に限らず、人間も、だ。


「んっ、んんー」

 ルリがハンドルから両手を放して、大きく伸びをする。たまにこうやってストレッチしないと、身体が固まってしまうのだ。特に、姿勢を変えにくい自転車は余計に、

 肩を回して、背筋を伸ばして、それから首を軽くたたく。再びハンドルに手を戻して、今度は脚を伸ばすために、サドルから腰を上げる。ダンシングとは違う。完全に膝を伸ばしきる運動だ。なので、ペダルは回さない。

(気持ちいい)

 疲れからの解放は、ルリにとって最高の贅沢だった。アキラにもその方法を教えてはいるが、彼はまだ走りながらのストレッチが出来ない。

(アキラ様は、また次に休憩したときに、しっかりと身体を伸ばしてもらいましょう)

 それが今日最後の休憩で、サイクリングの終わりを意味していることも、ルリはなんとなく悟っていた。次にアキラが疲れたら、今日は終わりだ。


 そっと左を見てみれば、水平線に太陽が沈む様子を見ることができる。

 海も、空も、全てが赤く染まっていた。もう夕方となれば肌寒い季節になったが、潮風はほのかに暖かい。まるで夕日の熱を少しだけ運んできて、二人を労っているかのようだった。

 アキラもこの景色を楽しんでくれているらしい。ちゃんと前方も確認しながら、首を横に傾ける姿が確認できた。

(……)

 そっと、ルリはアキラの前に出る。今日だけでも、こうして何度も順番を入れ替えた。

 ハンドルの端に取り付けられたサイドミラー。それでアキラの顔をこっそり見てみれば、彼もルリに笑いかける。

(!)

 アキラの位置からルリのサイドミラーを確認することなどできないだろうから、ルリの視線に気づいて応えたわけではないだろう。ただ、アキラも楽しんでくれていた。単純にそれだけである。それだけで、嬉しい。


 海岸線も、長くは続かない。

 やがて砂浜が見えなくなり、崖の上を沿うような道に変わり、徐々に木が増えていく。

 このまま走れば、だんだん海から離れていくはずだ。

(さて、もうそろそろサイクリングも終わりですね。本日のおさらいや、アキラ様と話したい事などは、また駅に着いてからでも……)

 自転車を分解してバッグに詰める方法など、まだまだルリが教えることは多い。それを、ルリは面倒だなどと一度も思ったことは無かった。


「あーきーらーどーのー!! るーりーねーえー!!」


(――ん?)

 聞きなれた……それでいて、ここで聞こえたらいけない声がする。確かにこの声の持ち主は神出鬼没ではあるが、いくら何でも遠出先でまで会うことはないだろう。

 そう思いたかったルリは、あえて無視していたのだが、

「お、ユイか。奇遇だな」

 アキラが反応してしまった。

「うむ。奇遇でござるよ」

 彼女は見たことのない自転車に乗っていた。大きなロードバイクだ。サドルの高さは全く合っていないので、彼女の物でない事はよく分かる。

 サドルではなくトップチューブに腰を掛けて、長いクランクを必死で漕ぐユイ。そのペダリングのたびに、脚は限界まで上がる。なんだか大変そうだった。

「――ユイ。ついに自転車泥棒に手を出したのですか?」

「違うでござるよ!?『ついに』とはどういうことでござるか!!」

「でも、それは貴女の自転車ではないでしょう?」

「うむ。まあ、そうでござるが……」

「はははっ」

 言いよどむユイを見ながら、アキラがブレーキをかける。せっかくだから止まって話をしようというわけだ。仕方がないのでルリも止まる。ユイは……

「む?……ぬぬぬっ。んっ!」

 ブレーキレバーの引きしろが長すぎたためか、指が届きにくい所為で盛大にブレーキが遅れた。10mほどオーバーランしてから、くるりと回って戻ってくる。フレームに跨ったまま歩いてくるわけだが、車体が大きくて大変そうだ。

「なあ、ルリ。やっぱりあれってユイの自転車じゃないのか」

「ええ。私も人生で数回しか見たことが無いほど、大きなフレームです。おそらく身長180~195cm程度の、かなり大きな人向けのサイズでしょう」

 見たことも無いメーカーの、知らないロードバイク。その巨大フレームともなれば、ルリの知識でも追い付かない。


「よっと……ととと」

 ユイが後輪側からゆっくりと降りる。脚を上げるのが苦手なのか、車体を大きく斜めに傾けての降車だ。

「そういや、ユイがそんなに高く脚を上げるの初めて見たな」

「うむ。拙者、普段はフレームの低いママチャリでござるからな。それに、スカートの日が多いでござるゆえ」

 そんなユイは、今日は珍しくタイトなジーパンにパーカーの組み合わせ。そのパーカーの裾が長く、また腰から広がっているので、いつもとさほどシルエットは変わらない気がする。

「ところで、二人はデートでござるかな?」

「た、ただのサイクリングだよ」

「サイクリングですね」

「ふむ……」

 何やら納得がいかないとばかりに、ユイが顎に手を当てる。面倒なことになりそうな雰囲気を今になって察したアキラは、とっさに話題を変えた。

「そういや、ユイはどうしてこんなところに?」

「おお、それでござるか。なに、ちょっと学校行事で振り替え休日が出来たので、せっかくだからキャンプでもしようと思っての。友人たちと来ておる」

「ふーん、ユイにも友達がいるんだな」

「どーいう意味でござるか!?」

「あ、いや、その――」

 ぷんすこと頬を膨らますユイに、ルリがまた別な心配をする。

「高校生だけでキャンプですか?引率する大人の方は?」

「おお。いるでござるよ。拙者の叔父上がキャンピングカーを持っていての。お願いしておる」

「叔父上?」

「うむ。拙者の父の弟、という続柄になるでござる。拙者のママチャリを改造してくれたり、両親同様に面倒を見てくれるいい叔父でござるよ」

 ユイのどこか誇らしげな態度から、どれほど信頼されている人なのかは分かる。

(きっと、いい人なんだろうな)

 そう感じるアキラだったが、ルリは違った。

(あの危険なママチャリ改造をして、さらに姪であるユイに乗せるような人……軽率ですね)

 もやもやとした気持ちが、ルリの中に沸き立ってきた。


「ちなみに、この自転車も叔父上の車体でござる」

 ユイが自分の乗ってきたロードバイクを指さして言った。

「あ、そうなの?」

「うむ。拙者は今回、自転車を持ってきておらぬ。叔父上は自分のキャンピングカーに、いつも一台積みっぱなしでござるからな。アキラ殿を見かけた時、追いかけるのに使える車体がこれしかなかったのでござるよ」

 それで、いつもの自転車ではなかったわけだ。

「そうだ。せっかくでござるし、二人も一緒に夕飯などいかがでござるか?」

「お、いいのか?」

「うむ。びーびーきゅーなのでござるが、肉など多めに持ってきているので、大丈夫でござる。もちろん、おぬしらの都合がよければ、でござるが」

 屋外でBBQという魅力的な誘いに、アキラは少し心動く。それにユイの友人たちというのも興味があった。

(こいつの友達なんかやってるくらいだから、きっとおかしな連中なんだろうけど、見てみたいな)

 失礼な野郎である。

「なあ、ルリ。いいよな?」

「……ええ、構いません。それでは、ご相伴にあずかりましょう」

 ルリとしては乗り気でも無かったのだが、アキラがそこまで目を輝かせて訊いてくるなら断りづらい。それに、ここでユイから無理やり引きはがすのも負けた気がする。何に負けたのか、何の勝負なのか、それはルリにも分からない。



「それでは、2名様ご案内でござる。心配せずとも、きちんと紹介するでの」

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