第40話 これが実戦か……?

『アキラ様。私の声が聞こえますか?』

 イヤホン越しに、ルリが話しかけてくる。それをアキラはしっかり聞き取った。

「ああ、聞こえてるよ」

 現在、ルリは少し遅れたところにいる。アキラほどの体力を残していない彼女は、この勝負を彼に託した。

「で、タダカツさんに勝つにはどうしたらいい?」

『そのまま、持久戦に持ち込んでください』

「持久戦?……タダカツさんが疲れているって事か?」

『少し違いますが、好機は訪れると思います。その可能性が高い、と言いましょうか。とにかく、追ってください』

「分かった」

 ギアを軽くして、ペダリングの回数を増やす。あくまでサドルに座ったまま、回転数で勝負する方式だ。

『アキラ様は、本来であればギアを上げた方が登りやすいのでしょう。ですが、それは脚の筋肉を使います。今はその力も弱っていますので、温存しましょう』

「脚の筋肉か。一回使い物にならなくなると、回復まで丸1日はかかるんだよな」

『ええ。ですが、心肺機能は違います。そちらは数分の休憩でも回復するように作られていますから』

 自転車においてはギアを下げていた方が、脚の消耗を抑えられる。代わりに心肺機能を酷使することになるが、これはフェアトレードだ。

『あまりギアを下げ過ぎないでくださいね。適正な幅で変速しないと、かえって悪い結果を招きます。過度な上げ過ぎや下げ過ぎは、脚と心肺の両方をすり減らしますから』

「どのくらいが良いんだ?」

『軽く手ごたえが残るくらい、としか……すみません。言葉では伝えにくい感覚です』

「まあ、いいや。分かった気がする」

 アキラも、このクロスバイクと出会ってから、もう半年近い。まだ半年もたっていないと言えるかもしれないが、その間にルリから教えてもらったことはとても多い。

 感触を確かめながら、だいたいのことを理解する。




「む?」

 タダカツは、その後ろからやってくるアキラの存在を、気配だけで感じ取った。後ろを振り返ることも無いまま、何の音もたてないクロスバイクの接近を感じ取る。

「ほう……あの青年、思ったよりも根性があるようだな」

 ならば、と、タダカツは再びハンドルを握る。ブレーキレバーのショルダーに指をかけて、自分の身体にひきつけるようなダンシング。

 ハンドルはもっとも高い位置に調整しているが、それでも彼の身体は大きすぎる。相対的に低い位置のハンドルは、力を入れにくい。



「タダカツさんが見えたぞ。でも、加速している」

『逃がさないでください。それと、近づいているように見えても油断しないでください。相手の身体は大きい。目の錯覚に注意して』

「おーけー。遠近感が狂うもんな」

『車輪に注目してください。どんなに大きな自転車でも、車輪自体の規格は変わりません。あれもアキラ様と同じ700Cホイールのはずです』

 確かに、フレームの大きさが変わっても、そこだけは変わらない。

「了解。それで、近づいたらどうすればいい?」

『本日ご紹介した、引き付けるタイプのダンシングで』

「全力を出せって事だな。分かった。行くぜ!」

 ハンドルを握り込むわけではなく、軽く指をかけて引く。その程度でも、充分に効果を発揮するものだ。

 まっすぐ自分の胸にひきつけるわけでもない。かといって、振り子のように左右に揺さぶるほどでもない。その複合のような走り方。

『ギアを変更する際は、なるべく早めを心がけてください。チェーンが強く張った状態では、きちんと変速しないことがあります』

「ギアが変わらないままになるって事か?」

『はい。それどころか、最悪の場合チェーンが外れたり、ギアが壊れてしまうことがあります。ペダルに体重を乗せている都合上、それで転倒もあり得るでしょう』

「了解。慎重にやらないとな」

 20段……その圧倒的に多いギア数が、今はそれでも足りない。もっと無段階で変速できればいいのに、とアキラは思った。

 5段目では軽すぎて、しかし6段目では重すぎる。その微細な違いを感じ取れるのも、またアキラ自身の成長ではある。


「はぁあああああ!」


 大きく息を吐きながら、タダカツに接近する。呼吸を楽にしてくれるのも、クロスバイクの良いところだ。マウンテンバイク由来のフラットバーハンドルは、ドロップハンドルより呼吸しやすい。

 そして、重心も移動しやすい。今アキラがやっているダンシングは、ただまっすぐハンドルを引き付ける方法でも無ければ、振り子のように左右に揺らす方法でもない。その中間だ。

 全ての自転車が速く走れるフォームかと訊かれれば、そうではない。ただ、アキラの筋肉の付き方や体格。そして彼のローマが求める姿勢や重心に合った走り方。

 つまり、アキラとローマだけが生み出せる、ユニークスキルだ。


「ぬぅっ!?……車体を使いこなしたか」

 タダカツもまた、力の入れどころを探っていた。すでにビキビキと悲鳴を上げるフレーム。その限界を探るように、自分のフォームを変える。

 しかし、それでもアキラの方が速い。

『アキラ様。そのままゴールまで進んでください。横にいるタダカツさんを見る必要はありません。前へ』

(前へ……)

『後ろに勝利はありません。いつだって自転車は、前にしか進めないもの。立ち止まれば倒れてしまうもの。だからこそ、前だけを見据えてください』

(前へ……)

『誰もいない道路。開けた景色。そして、ゴールで待つ人たち。それが勝者の見る景色です。顔を上げて、堪能してください』

(前……)

 ルリの声も、見えてきたゴールも、そこで驚いた顔をしているユイも、全てがよく聞こえて、よく見えた。

(これが、勝利……)



「残念だが、そうはいかん」

 その視界に、タダカツも入ってくる。抜き返されたのだ。

「我と並んだだけでも、褒めてやろう。昼間に100km走って、そのあとの勝負であったにもかかわらずこの善戦とは……認識を改めるぞ。アキラ」

 タダカツの前輪が、アキラの前輪よりわずかに前に出る。それでも、アキラはペダルを止めない。

「まだだ。まだ……」

 すっかり秋の夜だというのに、汗が落ちるほど暑い。心臓は胸筋を突き破りそうで、肺や気管は焼けてきた。もうハンドルを引き寄せる力は残ってない。ペダルを踏む力も、足りない。

「……限界だ。それ以上の加速はできまい。決着はついた」

「まだ終わらないぜ!」

 ルリから習った。フォームを変えて、負担を切り替えればいいと。

 しかし、アキラの身体にはもう、どこにも体力など残っていなかった。どう切り替えても、速度は上がらない。維持しているだけでも限界だろう。

 それでも――


「ルリはさ。すげーんだ」

「?」

「だからさ。俺は負けねーよ。ルリが教えてくれたやり方で、勝つんだ」

 どこにも力なんか残ってないはずなのに、どこからか力が湧いて出る。

 ふわりと、車体が空を飛んだ気がした。

 ペダルが、なぜか軽く感じる。

 視界が、くるりと回る。

「あ、れ……?」

 落車――つまり転んだのだと気づくまで、体感的には随分と時間がかかった。実際には一瞬で転倒してしまったのだろう。アキラにとってはとても長い感覚だった。






 そっと目を開けたアキラに見えたのは、綺麗な月と、白い手。そして、

「アキラ様。大丈夫ですか?」

 自分を見下ろすルリの顔だった。

「ルリ……レースは?」

「それは――」

 ルリが言いにくそうに、言葉を詰まらせる。そうしていると、タダカツがやってきて言った。

「無効試合だ。貴公が倒れたのでな。我もゴールすることより、貴公を介抱することを優先した。よって、この戦いに勝者無しだ」

 それは実質アキラの負けじゃないだろうか?と誰もが思ったが、口に出さなかった。タダカツが無効試合だと言うなら、その決定には逆らえない。

「アキラ様。それよりお怪我は?」

「あ、ああ。そうだな。肘が痛いくらいだ」

 ド派手に擦りむいた。ヒリヒリする。

「……それで済んだなら、よかったです。ヘルメットにも傷は入っていませんし、打ち所としては良かったのかもしれませんね」

「そっか。買ったばかりのヘルメットだもんな。割れてたら大変だったぜ……」

「そっちの心配じゃないでしょう!」

「!?」

 ルリにしては大きな声に、アキラは驚いた。


「はぁ……アキラ殿も叔父上も、こんな野良試合で無茶しすぎでござるよ」

 ユイがそっと、アキラのそばにしゃがみ込んだ。寝そべったアキラから見ると、それを見下ろすユイの顔が上下逆に見える。

「叔父上も……って?」

 お互いに無茶をしたという事だろう。それでも、タダカツの呼吸は全く乱れていない。別に怪我もしていないし、そもそも落車もしていないだろう。

 しかし、ルリは気づいていたようだ。

「タダカツさん。その自転車、中盤で壊れていましたね。カーボンフレームの破断です。その状態で乗り続けるなんて、無謀ですよ」

「……」


 パキパキパキパキ……ベキン!


 タダカツの乗っていたロードバイクが、音を立てて砕けていく。とはいえ、形は残ったままだ。

 カーボンシートと、プラスチックと、コーティングの3層で出来たフレーム。そのうちのプラスチックだけが砕けて、しかしコーティングとカーボンシートがつなぎとめている状態。

「え?それって……」

「うむ。我の脚力と体重に耐え切れず、壊れてしまったようだ」

「叔父上はいつもそうでござるな」

 自転車の耐久性は無限ではない。もちろん、高い負荷をかければこうなる。とはいえ、普通に乗っていて人力で壊せる事例は多くない。

「通常、自転車の耐荷重はおよそ80kgが限界とされている。それを超える体重の選手がいないだろうという前提で開発されているからな。……我の体重は120kgだ。こうなるのも必定」

 特に惜しさも寂しさも無いのだろう。その真新しかったはずの車体を、タダカツは乱暴につかみ上げた。

「して、ルリよ。中盤から壊れていたことに気づいたのは見事である。しかし、それを知ったうえでアキラをけしかけたのか?」

「――はい。正直、チャンスだと思いました。私の中では、タダカツさんが自転車を壊して落車。アキラ様だけがゴールすることを想像していました」

「ほう……人の不幸に付け込み、追い上げさせることで我が車体にとどめを刺すとは、したたかだな」

「……申し訳ございません」


 タダカツが自転車レースで結果を残せなかったのは、ひとえに『本気を出せなかったから』に過ぎない。

 身長に合う大きさの自転車がない。あったとしても強度が足りない。そんな彼にとってレースとは、どれだけ車体に負担をかけないように手加減するかの戦いだった。

「我の力に耐えられる車体など、無いのだ」


「……ありますよ」

 ルリが呟く。

「何?……本当か?」

「はい。私も人づてに聞いた程度にしか知りませんが、アメリカで高身長な人向けの自転車を作ろうと夢見て、クラウドファンディングで実現させた車体があるそうです。一般的なレギュレーションではないので、公式戦には使えませんが」

 ルリが操作するスマホの情報を、タダカツは食い入るように見る。そして、にやりと笑った。

「ふむ。これなら我も、もうひと暴れできるかもしれぬ、な」

「そうですか。……ですが、先ほど言った通り、普通のロードレースには出られませんよ」

「構わぬ。我は元々トライアスロンをやっていたが、それももう引退した。残すところ、興味のあるレースはあとひとつだけだ」

「あとひとつ――?」

 ルリが訊ね返すと、タダカツは興奮気味に頷いた。そして天を仰ぐ。まるで月をも掴んでしまいそうなほど、高く手を伸ばす。


「チャリンコマンズ・チャンピオンシップ」


「――来年の初めに開催されるという、無差別級の自転車レース。ですね」

「うむ。ルリも知っていたか」

「はい。当店でもポスターを貼らせていただいています。詳細は発表されていませんが、確かにあのレースなら、何でも出場できるかと――」






 ぱちぱちと、炭のはじける音がする。

 もうバーベキューも終わりが近づいていて、食べ残した串が誰にも取られることなく残っていた。アキラもレースで消耗した分を含めてたくさん食べたので、もうお腹いっぱいである。

「……」

 どちらが勝っても恨みっこ無し。バーベキューの余興としてやっただけの、遊びみたいなレース。

 そのはずなのに、アキラの中には悔しさがくすぶっていた。まだその火は消えない。


「アキラよ。もう腹は満たされたか?」

 タダカツが訊ねる。

「え、ええ。ごちそうさまでした」

「うむ。たくさん食べてくれたようで、我も満足である。若者の食いっぷりは見ていて気持ちよかったぞ」

 残っている串を、タダカツがごっそりと取った。そのうちの一本を、さらりと一口で食う。どうやら、全員の腹が満たされるまで待っていたようだ。体の大きさに見合った大食いである。

 焼くものが無くなった網を、ただ炭が熱し続けている。ユイが寒そうに手をかざしているので、このまま消さないつもりかもしれない。

「タダカツさんは、その……チャリンコマンズ・チャンピオンシップとかっていう大会。出るんですか?」

「ん、うむ。そのつもりだ」

「そうですか」

 そっと、アキラが立ち上がった。そして、タダカツに向き直る。

「それじゃあ、俺もその大会に出れば、リベンジできますね」

「む!?」

 予想外の提案。そして、冗談で言っているわけではない目。

 アキラの不思議なほど真剣な目に、タダカツは

「待っているぞ」

 とだけ、答えた。




「アーキラー殿ーっ」

 ユイが後ろから抱き着いてきた。そのせいで緊迫していた空気が、急に崩れる。

「うおっ!?おい、ユイ。急になんだよ?」

「ふふふふふ……叔父上との勝負、惜しかったでござるな。悔しかったのでござるか?」

「う、うるせぇな。つーか離れなさい。女の子が簡単に男に抱き着くもんじゃないっての」

「よいではないか。よいではないか。うりうりー」

 頭をこすりつけるようにぐりぐりと動かすユイ。その感触が背中に当たって、少し気持ちいい。新手のマッサージとして売り出したら需要はありそうだ。

 ではなくて、

「ユイ。お前……酔ってないよな?」

「んー?……のんあるこーるだから大丈夫でござるよ」

 確かに、彼女が持っているのはアルコール00.0%である。いや、それでもそのデザインの缶を女子高生が持っていることが絵面的にまずい気がするが。

「いやー、しかしアキラ殿よ。実際に素晴らしい走りだったのでござるよ。叔父上が本気を出すこと自体、拙者が知る限りそんなに多くないでござるからな」

「そ、そうなのか?」

「うむ」

 ようやく抱き着きから解放してくれたユイが、くるりくるりと回りながらアキラの前に出る。ちょっとふらふらして危なっかしい。

「……もしかして、ユイ。俺を慰めてくれているのか?」

「んー、まあ、それもあるでござるが……」

 ずいっと、ユイが顔を近づけて来る。今度は正面からだ。

「ルリ姉に代わって、アキラ殿に礼を言おうと思っての」

「ルリに代わって?」

「うむ。必死に勝とうとしていたのも、ルリ姉のためでござろう?結果はどうあれ、拙者も嬉しかったでござるよ。ルリ姉も、きっと同じでござる」

 えへへー、と頬を緩めるユイ。その顔が赤い。まるで酒に酔ったみたいに。


「のう、アキラ殿」

「ん?」




「拙者、アキラ殿のことが、好きでござる」

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