第9話 なんでスタンドつけない人が多いんだよ?

 大学の講義が終わった瞬間から、ルリの本当の戦いが始まる。

 バイト先の自転車店は、なぜかスーツで出勤することが義務なのだ。しかも、この暑いのにジャケットもネクタイも付けなくてはならない。

(どうせ店内ではジャケットなんか着ないのに……)

 一度家に帰って、スーツに着替えるだけでも手間。そのうえ自転車で出勤なのだから、汗もダクダクである。しかも自転車用ウェアと違って、スーツは走り心地も悪い。通気性が悪いというだけでなく、空力抵抗も多い。

(これでメイクもしなくてはならないとなると……ああ、もう!)

 もともと化粧っ気のないルリだが、接客業となると最低限の化粧は求められる。しかもこちらは研修なしだ。ルリとしてはレジの打ち方なんかより、チークの選び方を教わりたかった次第である。

(とにかく、この速度では遅刻しますね。もっと速度を上げるか、それとも信号に引っかからない道を行くか……)

 タイムカードは到着した時間ではなく、始業できる状態になった時間で打診できるルールになっている。あの店長はそんなところは厳しい。



 一方、アキラは気楽なものである。本日の授業は午前中で終了。午後からは家でコンピューターゲームに勤しみ、ようやくショップにやって来たところだ。

(ルリは16時から出勤だったよな。ちっと早過ぎたか?)

 現在15:55だ。こういう時、日本で慣習とされている『5分前行動』なる教えは美徳ではない。相手を待たせるシーンでこそ活用される日本の美学だが、考えなしに実践すると相手に迷惑になる。

 もともとマナーとは、相手を不快にさせないためにあるものだ。なのに最近では、相手の育ちの悪さをあげつらっていくためのツールになりつつあるのは何故だろう。箸の持ち方然り、言葉遣い然り……

(まあ、いいか。5分くらい早くても)

 と、アキラは自転車を壁に立てかけて、店内に入る。ルリならきっといるだろうし、いなければ待たせてもらおう。その間に自転車を見て回っても退屈しないさ。


「いらっしゃいませー」

 店内にいたのは、店長と整備士の青年だけだった。

「あのー。ルリは?」

「ああ、ルリちゃんね。ちょっと呼んでくるよ」

 店長が店の奥に引っ込む。それから十数秒。

「お待たせしました」

 ルリが店長と一緒に出てきた。

 遅刻ギリギリで出社したとは思えない姿だった。額には汗一つかかず、髪は一筋も乱れず、姿勢もきっちりと正しい。自称クール&ミステリアスは伊達じゃなかった。もっともアキラが知る由もないが。


「まず、どの辺から行きましょうか?」

「いや、俺が聞きたい」

 当然、アキラは素人である。何を買ったらいいかなんて分からない。

「それでは、差し当たってベルとライトは必要でしょうね。スタンドは……まあ、要らないと思いますけど」

「え?要らねぇの?」

 スタンドがない場合、自転車は壁に立て掛けるしかなくなる。置き場がかなり不安になるところだ。特に、学校や買い物などの出先で困る。

「そもそも、スポーツバイクにスタンドをつけないのって、軽量化のためなんだろう?俺は少しくらい車体が重くなっても気にしないっていうか、気にならないんだけど?」

 特にレースをするわけでもないし、そもそも軽いことが速度につながるとは実感できない。たかが何百グラム程度となればなおさらだ。


「まあ、私もあまり重さにはこだわりませんね。軽い方が加速しやすいですが、一度でも加速してしまうと気になりませんから」

「え?そうなの?ルリくらい本気で乗っているやつは、全員ネジ一本まで軽量化するものだと思ってたけど……」

「まあ、私の場合はレースに出るのも稀です。メインはサイクリングですので、速度より走り心地と安全性を優先したいですね」

 単純計算で語るなら、自転車のフレームに使われる金属を薄くするほど軽くなる。そして折れやすく、曲がりやすくもなる。同じアルミフレームでも重さが違う車体があるのは、そう言った側面もあるからだ。

 つまり、軽いことが正義とは限らない。

「ん?じゃあ、スタンドをつけないのは、軽量化のためじゃないのか?」

 と、当然の疑問がまた浮上する。重さを気にしないなら、スタンドは着けるべきだと思うが。

「そもそもアキラ様は、どうしてスタンドで自転車が自立するかご存知ですか?」

「え?えーっと……自転車が倒れる方向に、つっかえ棒みたいになるから?」

 ルリは目を閉じて頷いた。

「正解です。体重をかけて寄りかかるようになるからですね」

 あくまで片足スタンドの場合に限る。


「それでは第2問。自転車のスタンドに対して、本体はどのくらいの角度が適正ですか?」

「え?」

 考えたこともない質問に、アキラは戸惑う。たしかに坂道に止めるときなんかは、たまにうまく立たなくて角度に苦戦した記憶もあるが……

「こ、このくらい?」

「正解です。一般には、6~10°と言われています」

「数字にすると、意外と垂直に近いんだな」

「まあ、そうかもしれませんね」

 すると、ルリは自動ドアを開けて外に向かう。

「ここから先は、私のアイローネを使って説明しましょう。どうか、外までご同行ください」

「お、おう」


 店の裏。壁に立てかけられた瑠璃色の自転車がある。GIOS AIRONEアイローネという名前の車体だ。ロードバイク特有のドロップハンドルと、細い鉄パイプを溶接したようなフレーム。直線的で華奢なその車体は、どこか古臭い雰囲気がある。

「まず、実験するにあたって、このスタンドを取り付けてみます」

「持ってたのか?」

「はい。昔は取り付けていたのですが、煩わしくなって外しました。DOPPEL GANGER DKS 102という商品です。角度も長さも自由自在なので、説明がしやすいかと」

 後輪の車軸より少し前あたりに、その片足スタンドをつける。角度は普通。長さも、まあ普通だ。見た目的には理想の位置に取り付け、実際に立ててみる。まあ……

「普通だな」

「はい。一見すると普通だと思います。比較として、店長のママチャリと見比べてみましょう。許可は貰ってますから」

 エプロンのポケットから鍵を取り出し、一台のママチャリに差し込む。何の変哲もない、あえて言えばチェーンに錆の少ないママチャリだ。さすが自転車店の店長。整備は行き届いている。

 2台の自転車を見比べてみると、スタンドの角度は同じくらい。車体の傾き加減も同じだ。

「それではアキラ様。それぞれのサドルを左側から押してください」

「え?そんなことをしたら倒れるだろう」

「はい。なので弱く、指先で触れるだけにとどめてください」

 スタンドが付いている左側から、スタンドのない右側へ、倒れない程度に指先でつつく。少し強めにやっても倒れないだろう。まずは店長のママチャリをつついた。

 ふわっとスタンドが浮き上がり、車体が垂直に近づく。しかし、そこで止まった。そのまま再び左側へ倒れたママチャリは――


 ガシャン――


 スタンドをつっかえ棒にして止まる。つまり、元に戻っただけだった。

 次にルリのアイローネ。こちらも同じだけの力で押す。ママチャリよりもずっと軽い車体は、弱い力でも勢いよく動く。垂直を超えて、右へ倒れる。そっちにつっかえ棒は無い。

 倒れる。そう思った瞬間、ルリが車体をキャッチした。

「すまん。倒す気はなかった」

「いえ。こうなることを承知での実験です。だからこそ、私も構えていました」

 ルリは軽い力で車体を戻す。それができてしまうほどに、ロードバイクは軽い。

「これは私の見識ですが、ママチャリとスポーツバイクでは2倍ほど重さが違います。なので同じ角度でスタンドをつけても、これだけの違いが出てしまうのです」

 ロードバイクが6~9kg程度。クロスバイクが10~13kg程度。ママチャリがアルミフレームでも13kg前後で、スチールなら18~20kgだ。ちなみにマウンテンバイクだと9~16kgといったところだろうか。

 これだけ重量差のある車体が、すべて同じようにスタンドを使えると思うのは早計である。軽い自転車は、それだけ風などの影響を受けやすい。

「じゃあ、角度を調整すればいいって事か?」

「そうですね。やってみましょう」

 ルリはそう言って、ポケットからドライバーを取り出した。作業の手際は良い。


 また指で押して、倒して、またまた指で押して、倒して……

 そのたびにルリは微調整を繰り返す。結果として、ようやくきちんと止められる角度になった。時間にしたら5分ほどが経過している。

「……これ、45°くらいになってないか?」

「いえ、おそらく20°くらいです。とはいえ、通常の2~3倍は傾いていますね」

 大きく角度を変えた自転車は、駐輪スペースを2台分は要求する形で止まっている。誰が見ても邪魔だと解る状況だが、これでもまだママチャリより押しやすい。

 しかも、

「今回使っているスタンドには、弱点があります。それは、ネジが緩むと倒れることです」

 角度を自由に変えられるという特性と引き換えに、保持力は犠牲になっている。走っている途中の振動でネジが緩めば、次に駐輪するときには固定しなおす必要が出てくるだろう。

 しかも、この調整が面倒くさい。非常にシビアな角度が求められるのだ。先ほどルリはほんの少しずつ、見た目には分からない程度の調整を繰り返していた。その程度でも倒れやすさが格段に変わる。


「なあ、これって坂道とかに止める場合はどうするんだ?駐輪場によっては傾斜のあるところもあるだろう?」

「まあ、すべての土地が水平なわけではないですね。そういう場合は、駐輪するたびにスタンドの角度を調整しなおします。必然、ドライバーセットは持ち歩くのをお勧めしますよ」

「風があるときは?」

「駐輪場によって違いますね。風向きやその日の風の強さを想定して、適切な調整を行ってください。駐輪するたびに、毎回です」

「……なるほど」

 とても面倒くさい。こうなってくると、ルリがスタンドを外したのも頷ける。壁に立てかける方が手っ取り早いし、省スペースだ。

「まあ、どうしてもスタンドが欲しいなら販売もしますし、私が取り付けもさせていただきます。その程度の施工にまで自転車技師の資格は必要ないでしょうから」

 ルリはそう申し出たが、

「いや、いい。なんか俺にはスタンドを使いこなせない気がしてきた」

 ジョジョ立ち並みにバランスに気を遣うのでは、あまり実用的な気がしない。何より技術と経験を必要とする。スタンド使いになるのは難しい。


「壁に立てかける場合は、壁自体が風よけになってくれると思います。頑丈な壁を選ぶことと、大体6~10°くらいで設定するのがコツです」

「金網やポールに立てかける場合はどうするんだ?あれは風よけにならないぞ」

「チェーンロックなどの鍵を使って、金網に縛り付ける方法がいいと思いますよ。それなら倒れにくいですし、ついでに盗まれる確率も下がります」

 盗まれないわけではなく、確率が下がるだけらしい。


「そういえば、鍵も持ってないんだよな。それも買わなきゃダメか」

「はい。アキラ様の車体は人気車種ですし、素人目に見ても高級なのが分かります。こういった車体は窃盗の対象になりやすいですね。転売目的の暴力団プロから興味本位の餓鬼アマまで、狙ってくると思います」

 泥棒の業界にもプロとアマチュアがあるらしい。なんとも恐ろしい世の中である。

「あ、でも俺、防犯登録してあるぜ?」

「はい。ですから、偶然見つかれば戻ってくる可能性はありますね。偶然見つかれば、ですけど」

「え?警察は捜査してくれないの?」

「……警察に何の期待をしているか分かりかねますが、殺人でもない限り捜査はしません。放置自転車の通報や、人身事故が発生した時に偶然見つかる程度です」

 防犯登録とは、自分の自転車が自分の所有物であることを証明するものである。つまり自分が泥棒じゃないことの証明であって、泥棒を捕まえるための証明ではない。盗まれたら二度と戻ってこないと思った方が無難だ。高級車ならなおさら。



「では、次は鍵についてご案内しましょう。家の前、コンビニ、駅前、学校……自転車とは乗るだけではあまり意味を成しません。降りることができて初めて自転車です。

 安心して降りることができて、乗りたいときには再び乗れる。その最低限の保証をするには、必要不可欠なアイテムです。

 そのため、様々なメーカーが工夫を凝らした鍵をいくつも用意しております。


 自転車との絆だと思って、選んでください」

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