第8話 治癒
ウメさんの誕生日まで、ケイカは色譜をもとに「春の唄」を練習した。
演奏で困った所はひとつもなかった。この曲の作者の意図なのか、あえて簡単な音を選んで置いているような印象すらあった。
色も古い表現だったが、基本に忠実に演奏すれば綺麗な色が浮かんできた。
歌詞は昔の言葉が並んでいる為、読みづらく漢字の発音に不明な点がままあった。学校の図書室に張り付いて、フリガナやアクセントを適当にふって何とか乗り切った。
だが問題は歌だった。
ケイカは素晴らしい演者だが、歌い方をまともに練習したことがない。鼻歌は歌えても、それはメロディを声でなぞっているだけに過ぎなかった。
遥か昔、実際の演奏ではどんな人が歌を務めたのだろうか。そんな資料のありかはケイカには想像できなかったが、専門の歌い手(歌手というのだろうか)がいた事は簡単に想像できた。
ホームの老人たちに歌い手の孫でもいればいいのにと嘆いてみたが、そんなうまい話はなかった。
音楽は再現芸術というが、紙に書いてある文字や記号だけで、本来の音をこの世に復活させる事は難しい。結局、演者側の解釈がいかに優れているかで、演奏会の評価は決まる。
今回その演者はケイカしかいなかった。ケイカはウメさん以外の老人たちに話を聞いたり、小節を歌ってみせたりして、感想を得た。それだけの材料で何とかするしかなかった。
最近ケイカは課題という二文字すら忘れかけていた。ぼんやりとした遠くの山よりも、近くの目的地に気を取られていたからだ。
そしてその目的地にはひとりで歩いている。本当は二人で行くはずだった。
トウマ。
ケイカは彼――いや彼女と一緒に、その場所へ行きたかった。あんな短い間だったけれど、トウマと一緒に
変な気持ちだった。嫌かどうかも分からない。ただもやもやして気持ちが晴れない。
ピアノの鍵盤に触れながら、ケイカは物思いに沈んだ。うるさいし、回りくどいし、人を苛立たせる天才。そして美しい歌声の持ち主。いままであんな子はケイカの周りにいなかった。あの密着した時の体温が、まだケイカの記憶にこびりついていた。ケイカと同じ女の子と知ったはずなのに、不思議と違和感がなかった。
病院の出来事から数日経つが、変わらずホームにトウマの姿はない。
ケイカは頬を掌で軽く叩いた。おばあちゃんの誕生日まで。もうすぐだ。最後までひとりでやり抜くしかないのだと、彼女は決意を固くした。
その年のウメさんの誕生会は平日だった。
ケイカが授業を終えて、誰よりも先に教室を出ようとした時、よりにもよって楽師に声をかけられた。友人だったらそれを振り切って逃げ、後から「呼んでたっけ?」ができたが、先生相手にそれは叶わなかった。
「先日あなた、地下の倉庫に行ったそうですね」楽師はいつもと変わらず厳しい声で、ケイカに理由を問い詰めてきた。
よりによって今日バレるんだ! ケイカは自分の運の悪さを呪った。焦れば焦るほど言い訳が上手く積み上がらず、語尾がおかしくなっていく。結局、教師から解放された時、教室にはケイカしかおらず、すでに授業が終わってから一時間が過ぎていた。
コートは羽織ったがボタンを閉める余裕はなく、マフラーは鞄に突っ込んで、ケイカは懸命に校庭を走った。三恵園の敷地に着いた時には息も絶えだえで、歩くのも辛い状態だった。
建物の中からは、いまのところ音楽も笑い声も聞こえなかった。最後の演芸の開始時間を特別にずらしてもらっていたが、それでも間に合わなかったのかもしれない。
ケイカは靴を脱ぎ捨て、廊下を走った。
はっとした。ホールに続く扉の向こうから、わずかに音が聞こえてくる。楽器の音ではないし、拍手でもない。でも知っている、聞き覚えのある声だった。ケイカは息切れと緊張で高鳴る胸を押さえ、ダイニングルームに続く扉を開けた。
おばあさんたちのたくさんの丸い背中が、視界に飛び込んできた。
天井にぶら下がるカラフルな折り紙の鎖や鶴、紙風船の装飾。ステージの中央にある横断幕には『ウメさん、お誕生日おめでとう』の文字と、両脇にティッシュで作られた白と赤の花の飾りがあった。
老人たちは誰もケイカに気づかなかった。全員が集中して、歌を聞いていたからだ。
ケイカがあらためて見る視線の先には、折りたたみ椅子に座って歌っている、ひとりの若者の姿があった。
トウマだった。
ケイカの胸に温かいものが溢れた。予想しなかった共演者の姿に、ケイカの瞳に涙が流れそうになった。
今日のトウマは性別を隠すつもりがないのか、帽子を被っていなかった。病室で見たときとは違って、長い髪は綺麗にくしけずり、両肩に垂らしていた。少しメイクをしているのか、頬や唇が紅潮して健康的に見えた。
印象的だったのは、何よりその声だった。
美しく澄んでいて、静かだった。まったく刺々しさがない。その証拠に声から出る色は、老人たちに穏やかなオレンジの輪を投げかけていた。
歌を聞く老人たちの表情も温和で、部屋は平和に満ちていた。
トウマの歌が終わると、会場から拍手が送られた。
園長が満足そうに微笑んで、老人たちにマイクで呼びかけた。「はい、ヨシコさんのリクエストでした。では十分間の休憩をはさんで、最後に私たちの可愛い先生から、生演奏のプレゼントです」
そのアナウンスでケイカに気づいた老人たちが、一斉にケイカに詰め寄ってきた。
「おーおー、待ってたよお」
「今日は来ないかと思ったさー」
「ほらぁ見てよぉ、今日は女の子のトウマちゃんだあ」
口々に喋りかけてくれる老人たちに一言ずつお詫びをすると、ケイカはすぐにステージのトウマのもとへ駆けていった。
「トウマ、来てくれたの! あなたの歌で時間を繋いでくれたのね……ありがとう。それにその髪型……似合ってる」
「……別にそんな気はなかったんだけれど」トウマは照れくさそうに髪の先をいじり出して、ケイカと視線を合わせなかった。「殴られたり、誰かに怒鳴られたりと散々な週末だった。だからここに来て、憂さ晴らしに君の困っている顔を見てやるつもりだった。でも婆さまたちにせがまれて、少し歌っているうちに、気晴らしはもう必要ないとわかった」
「じゃあもう、歌ってくれないの?」ケイカはおずおずと訊いた。
トウマは絆創膏を貼った口元をさすりながら、黙っていた。
「私はあなたの歌がまだ聞きたいし、ここにいるおばあさんたちも、ウメさんも聞きたがってると思う」ケイカは熱心に言った。「ねえ、今日トウマが歌う場所は、きっとここだよ」
トウマは黙っていたが、顔は真剣だった。ケイカの言葉を飲み込んで、
「ひとつだけ心残りがある。まだあの人だけが、僕の歌を聞かせても微笑んでくれないんだ。悔しいけれど、君の仕掛けが必要だと思う。さあ、準備しよう。ウメさんをお待たせしてはいけない」
ケイカはステージの端の、花束に囲まれた椅子に座っている老婆を見た。おばあさんは席に埋まるようにして、口をモゴモゴと動かしていた。風邪も治り、体調はすっかり元気そうだった。
「うん!」ケイカは元気に返事をした。
トウマをその目に見た瞬間から、ケイカの心の準備はもう出来ていた。
二人はウメさんに、用意していた「春の唄」を送った。ケイカは演奏し、トウマが歌った。いつ練習したのかケイカには分からないけれど、トウマはその歌詞を完璧に覚えていて、ひとつも間違えることなく歌い上げた。想像したとおり、この歌詞はトウマの美しくて、特に今日の柔らかで優しい声質にぴったりはまった。
ケイカは幸せだった。自分の鳴らす音と色と、トウマの歌声に包まれながら考えた。困難はあったけれど、この課題に取り組んで良かった。ふと、こんな時に思い出した。あのおじいさんが花壇で言っていた
ケイカがステージの歓迎の席を見ると、ウメさんは相変わらず口を動かしていた。ずっとその表情をしていなかったからか、とても笑顔には見えない。でも彼女の細い線のような目から、皺に沿って幾筋も涙が溢れていた。自然と手が動いて、ゆっくりとしたペースの拍手をしてくれていた。ケイカとトウマは顔を見合わせた。言葉は交わさなかったけれど、二人にはわかっていた。ウメさんはきっと昔に戻って、心の中でこの歌をもういちど歌っているんだって。
園長先生の最後の挨拶と、スタッフ全員、そして老人たちの大きな拍手が締めとなり、誕生日会は終わりを告げた。
「何だい、そのたくさんの荷物」
ホームの玄関を出た所でケイカを待っていたトウマが、少女が抱えてきた紙袋の多さに驚いて、聞いた。
「園のみんなからだって……感謝の気持ち」ケイカは思わずよろめいた。顔を傾けないと、相手の顔が見えない程の贈り物だった。ケイカは嬉しさと困惑が混じった顔で、袋を持ち上げてみせた。「ウメさんからも頂いちゃった。一番手前の」
「何をもらったんだい?」
ケイカは袋を少し傾けて、トウマに中を開いてみせた。四角い箱に、湯けむりのあがる古い里の絵と温泉まんじゅうの文字が書いてあった。「こんなにたくさん家に持って帰ったら、ママが何事かと思って驚いちゃう! 学校のどこかの部屋に、うまいこと隠しておくわ。あの……そこまで運ぶのを、手伝ってくれると嬉しいんだけどなあ……」期待を込めて、上目遣いでそう言ってみる。
トウマは目を閉じて、すまなそうに首を横に振った。
「僕の外出許可、二時間しかもらえなかったんだ。しかも
「そんな風に誰も思っていないし。少なくとも私は。今日は助けてくれてありがとう」ケイカが感謝の意をこめて微笑んだ。
トウマは一瞬、面食らったような顔をした。それからいつになく真剣にケイカを眺めた。長いまつげに囲まれた目が、瞬きもせずにケイカに注がれていた。
「そんなにバカ正直な目で見られたら、嫌味のひとつも言えなくなるじゃないか。でもね、お礼を言うのは僕かもしれない。あんな風に一度気分が滅入ってしまったら、あと一週間はベッドから出られないはずだった。ますます陽にあたらず、肌は真っ白さ。けれど僕はいま、こうしてここに立っていられてる。それを可能にしてくれたのは、君なんだ」
思いもよらない言葉に反応できず、ケイカの目が一瞬、点になった。その後、激しく動揺がせり上がってきて、表情が維持できなくなる。「そ、そうかな……私なんて大したことは」
トウマはケイカの言葉に思わず手を打った。「それだ! 君は僕の中で大したこと無かったんだ!」相手が聞いているか、いないかに関わらず、勝手に喋り続ける。「だから不思議なんだ。僕は自分の為だけに生きてきた人間だから、君みたいな『人のために何とかしよう』とする人間を正直、馬鹿にしてきた。なのにケイカはプライベートな場所までズカズカと入ってきて、僕の気持ちをかき回して帰っていった。でもそれが効いたんだ。これって、一種のショック療法かもしれない」
「何よそれ!」ケイカの気持ちは持ち上げられてから、一気に地に落とされた。少女はたまらずむくれた。相変わらず人の心を見ていないトウマに、ケイカは今度こそ呆れた。「じゃあどうぞ、あなたの大好きな
頬をぷくっとさせ、歩き去ろうとするケイカの行く先をトウマが遮った。
「ちょっと、まだ言い足らない? これ重いんだけど!」
色白の少女がすっと近づいて手を伸ばした。その長い指がケイカの柔らかい顎の線をなぞる。掌が金髪と一緒に頬を優しく包み込んだ。「だから僕はもう少し、この治療を続けてみたいんだ」身をかがめると、トウマはケイカにキスをした。
驚きに目を閉じたせいで、ケイカの視界は真っ暗になった。持っていた荷物が地面に落ちた気がしたが、少女にはその音がまったく聞こえなかった。
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