第12話 お土産



 学年課題までの一週間は、ケイカにとって何の意味もない時間だった。


 誰からも連絡はなかった。誰にも連絡を取らなかった。


 むしろケイカは学校を一度も休まなかった。だからあの二人とは普通に教室や廊下で何度もすれ違ったけれど、互いに顔をあわせないし、会話もない。もし見てしまったとしても、顔がある場所には大きな穴が空いていると思えた。


 ケイカにはとにかく居場所がなかった。だからほとんどの時間を、誰もいない音楽室で過ごしていた。


 そこにいても、器なんて触りもしなかった。弾いたところで音はもちろん、色なんて滅茶苦茶なのがわかっている。それに触る気持ちもおきなかった。こんなに楽器を触らない毎日は、ケイカの記憶に無い気がする。


 身だしなみも気にしていなかった。きちんとくしけずらない髪は、みっともないくらいボサボサになっていた。いいや、どうせ誰にも見られないんだし。


 ほとんどの時間を、窓の外と天井の梁を眺めて過ごした。顔は向いているけれど、ケイカの瞳には景色が映っていなかった。


 雲と渦。怒り、悔い、喜び、悲しみ……様々な感情が湧き上がっては、ケイカの眼の前で螺旋を描き、回りながら消えていった。


 何時間も目の力を緩めたままだけれど、たまにピアノの天板の上に焦点が合う。置いてあるのは色譜。トウマが落としたものを拾い集めて置いていた。


 今のケイカにそれを広げる気力は起きない。


 そして再び窓の外を眺めて、そこに来ない影を探し求める。学校の誰とも喋りたくないのは本当だ。けれど、あのおじいさんになら、何か言うことあるかもしれない。


 ケイカは老人と会話がしたかった。花がどうかとか、色がどうかとか。そんな会話が無性に恋しい。しがらみのない誰かとずっと、これまでの人生に関係ないことを喋っていたかった。


 夜、家に帰って食卓を囲んでも、ケイカの口の中でご飯は灰の味がした。でもまずいとも言わない。ただ喋らないと逆に声をかけられるので、ケイカは無口の理由を、あの女性特有の事情のせいだと訴えておいた。父からは一切の突っ込みはなかった。母親ですらずいぶん長いのねと、こぼしただけだった。


 お風呂のお湯の温度が分からなかった。だから自分の部屋に戻ったら、体中が真っ赤になっていた。


 自分の部屋にいても、何もできないのは変わらなかった。気づいたら意識を失ってしまい、起きてまた学校に行くの繰り返し。どれだけ生活を堕落させても、充実させても、何もしなくても、時間は公平に過ぎていく。


 そうして、学年課題を発表する日がやって来た。



 ケイカは自宅の靴箱から、新品のように黒光りする革靴を取り出すと、のろのろとそれを履いた。


 今日が課題発表の日だと事前に知っていた母が、昨晩から磨き込んでくれたものだった。


 玄関の扉を開けて外に出ると、曇り空から落ちてきた一滴の雨粒が、ケイカの鼻先に当たった。


 ケイカは上半身だけ家の中に戻り、手を伸ばして傘立てから赤い傘を取った。


 ボンと音を立てて布地を広げる。その音を聞いたあと、ケイカはあらためて思った。


「昨日からそうだけれど、やっぱり駄目だ。私、色が見えなくなってる」


 学校まで歩くケイカの足取りは重かった。気持ちも原因だったが、昨晩からまたお腹がしくしくと痛むようになっていたせいもあった。


 こうして体も心も最悪なコンディションで今日を迎えるんだ。家族に嘘をついたので、神様が罰を与えたのだとケイカは信じた。


 学校の門が見えてくると、ケイカは傘越しに制服姿の知った顔を見かけるようになる。色楽の子もいて、みな一様に寝不足の顔で歩いていた。


 誰も挨拶をしたり、昨日のネットニュースの話題を喋ったりしていなかった。背中から眺めていると、緊張しているのが透けて見えた。


 その日の授業中、特に三時間目の終わりぐらいから、ケイカの体調が悪化していった。


 机がゴツゴツの溶岩で出来ていたとしても、ケイカはそこに突っ伏して動けなくなった。この状態は相変わらず辛く、何も考えられなくなる。けれど何も考えなくて良いというメリットもある。


 金色の動かない小山に、誰かが心配そうに話しかけてくれる訳でもなく、ケイカを取り残して周囲の時間は流れていった。そうして午前の授業は終わり、昼食の時間が過ぎて、午後になった。


 今日の日程では、一般の生徒たちは残りひとつの授業を終えたら、下校する事になっていた。


 ガタガタと椅子の音や足音が響いて、人の気配が充満する。それは一時的で、すぐに教室に静寂が訪れた。


 あれだけ音が鳴っても教師が声をあげても気にならなかったのに、静かになってくると、ケイカの意識は覚醒してきた。


「……もういかなくちゃ」ケイカの体の中の時計が、その時を告げた。


 手は膝に載せたまま、顔を持ち上げる。ケイカは真っ赤になった頬をさすり、予定を思い出していた。


 色楽の生徒たちはそろそろ、今日の課題の発表会場である記念講堂に移動しているはずだ。


 ケイカはお腹の痛みと闘いながら立ち上がった。まず彼女は音楽室に行く必要があった。


 遅い足で廊下を歩き、手すりに捕まりながら階段を降りた。


 全身の力を一点に集中して、音楽室の重い扉を開けた。誰もいない部屋を横切ると、楽譜棚の前に立った。


 ケイカは鍵の付いていないガラスの前扉を開いた後、自分の名前が書かれている引き出しのフックに指をかけ、手前に引いた、いつもよりスムーズに引き出しが開いた。


 空だった。白い紙の束が入っていたが、今は不在だった。そこにはウォールナットの裏板だけが見えていた。


「あ……」とそれだけ、声が出た。いつもの自分なら一気に冷や汗が出て、混乱したに違いない。けれど今のケイカは妙に心が冷めたままだった。


 他の生徒の引き出しも開いてみたが、ケイカの色譜が紛れ込んでいることなど、万が一にもなかった。ケイカは最後になる引き出しを閉め終えた後、ふらふらとよろめいた。


「まいったな、これ」言葉の意味とは反対の、自嘲的な声だった。勝手に心の奥の方からせり上がってくる暗い笑いを、ケイカは止められなかった。


 自分が無くしたとは思えないし、それはあり得なかった。


 この引き出しを触るものはたくさんいるけれど、今まで鍵がかかっていた事など一度も無い。だからどの中身でも持ち去ろうと思えば簡単にできた。しかしそれを不備として指摘する者はいなかった。どの生徒も自分の事で精一杯で、誰かの物をどうこうする余裕などなかったからだ。それに色楽たちは純粋で、これまで悪意とは無縁の世界で生きてきた。ケイカだってその一員だったと思っていた。


 どんな手を使っても――


 ケイカの体がふらついて、ピアノの側面にぶつかった。何とか手探りで体を支え、足に触った椅子に座り込んだ。


 この短い期間で、ケイカはたくさんの色を見た。今まで見たことがない美しい色、心をどこまでも温かくして幸せにする色もあった。けれど裏側には陰湿な影が忍び寄っていて、それは私を飲み込んで、全部の色彩をごちゃごちゃに混ぜて吐き出した。私の心は黒を通り越して、いまや透明になってしまった。


 それにしても、どこまで落ちるのだろう。ケイカは乾いた心の中で虚しさを反芻した。友達を失い、真っ白で美しい星のような人も失った。その上、音も色も手放せというのだろうか。ここに来て残酷な運命の神様は、一切手を抜こうとしていない。


 このままさらに足を踏み出しても、いま疼いている傷みの延長しか得られないのかもしれない。それならもう立ち止まってもいいのではないか。ケイカの内なる声が優しく言う。そうかもしれない。どうせ駄目なら、決着ぐらい自分で選びたいよ。


 ケイカがだらりと垂らした指の腹に、何か固い物があたった。覚えがない。ブレザーのポケットに手を突っ込むと、そこにはペンがあった。ケイカは取り出したその細い物を無感情に眺めた。


 ボールペン、側面にトウマの病院の名前がプリントされていた。それは誰が用意したわけでもない。自分が病院で拾い上げたペンを持って帰ってしまった。落ちた拍子でキャップが無くなっていて、金属の芯がむき出しになっていた。


「何も見えなくなったら、諦められるかな……」


 ケイカは細い指を組み換え、ボールペンを逆さまに握り直した。ゆっくりと顔の前に持ち上げ、鋭く尖るペン先を熱の帯びた目で見つめた。


「これでサンジャオ、許してくれるかな。逆に嫌われたりして……パパとママ、怒るだろうな」涙目になっていた。もう誰が声をだしているのかも、分からなかった。


 ケイカはもう片方の手をペンの反対側の端に添えた。芯先を緑色に輝くケイカの虹彩のすぐ近くにまで持ってくる。こんな時なのに、ケイカの心は全然怯えていなかった。


 ぐっと全身に力をこめたその時、壁際でガシャンと大きな音がした。


 何かが床にあたり、砕け散ったような物音に驚いて、ケイカは反射的に手を下げて、椅子から立ち上がっていた。


「な、何?」


 それまで止まっていたケイカの心臓と肺が、今になって激しく動き始めた。急に流れた血が一気に体を巡る。ケイカは酸素を求めて、激しく咳き込んだ。


 荒い息を繰り返してようやく回復したのちに、乱れた前髪の間から音の鳴った方を見つめる。壁のすぐ脇だったので、暗くて何も見えなかった。彼女はおそるおそる、部屋の奥の大型楽器の裏側へと近づいていった。


 そこに落ちていたのは額縁だった。絵自体を支えていただろう紐の結び目が外れ、木枠にだらしなくぶら下がっていた。落ちた衝撃で、額にはめ込まれていたガラスが割れて、床に飛び散っていた。


 ケイカはそれを拾い上げようと身をかがめたが、横に倒れた額縁の隣に、紙袋が置いてあるのを見つけた。


 先に取り上げた額縁をマリンバの上に置いて、続けて紙袋の紐に小指をかけて拾った。


「あ……」


 あらためて引っ張り出してみて気づいた。その紙袋と中身は老人ホームの皆に、あのウメさんに向けた演奏の礼として渡されたものだった。


 家に持って帰れないので学校に隠しておくと、ケイカ本人が言ったのだ。それでいて教室に置く場所はなく、うろうろした挙げ句、この場所に放置して、すっかり忘れてしまっていた。


「……あれ?」


 一番手前、ウメさんのだと言って渡された袋の膨らみ方に違和感を覚えたケイカは、残りを床において、そのひとつだけを持った。手を入れて中身を取り出してみる。あの時にも確認した絵柄の温泉まんじゅうの箱があって……


「あ……」


 中身は三恵園でトウマにも見せたのだけれど、ケイカはそこに折りたたまれた何枚かの紙片を見つけた。少し暗かったせいもあったし、二つある箱と箱の間に隠れていて、あの時はまったく気づかなかった。


 どれも相当に古いのだろう。黄ばんで角が欠けていた。傷みが酷いものは千切れかけ、それをテープで何とか修復していた。ボロボロになった紙の一枚を、ケイカは丁寧に広げていった。そこに現れた内容を見て、ケイカは息を呑んだ。


「これって……まさか……」ケイカの指に挟まっていたボールペンが、床に落ちて転がり、カラカラと音を立てる。


 ケイカの震える指の先が、紙面の上を丁寧になぞっていく。それに合わせるように少女の口が自然と動いていき、音の輪郭を形作る。


「ああ!」ケイカは叫んだ。楽器を通してではなく、指と想像だけを通して、頭の中にはっきりと調べが響いてきた。「なんて素朴なんだろう。どうしてこんなに優しくて、心が落ち着くんだろう……」


 ぽたりと一粒、紙片の上に水のたまが落ちた。ケイカは泣いていた。ここ数日悩み思い抜いたのに、一滴も流れなかった涙のしずくがこんなに熱いとは。


「知らなかっただけなんだ。こうして歌はずっと昔から、ここにあったのに。人の心だけが移ろい、変わっていったんだわ……」


 ケイカは続けて流れてくる涙を押さえられなかった。自分が追い求めていた、格式ばった決めごとの全てが恥ずかしくなった。ケイカは思わず顔を伏せた。


 ケイカは紙を撫でていた指を、ゆっくりと引っ込めた。そのまま掌を胸にあてて、心で聞いたその歌を体全体に染み渡らせるように味わった。


 再び体に滋養が戻ったように、少女の目に光が戻ってきた。


 ケイカは先ほどの古い紙片を手に、ピアノの前の椅子に座った。折り目を伸ばしたその紙を譜面台に広げると、ケイカは埃の積もった鍵盤の蓋をゆっくりと開いた。

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