第13話 発表会



 学年課題が本番演奏される建物は『高宮たかみや記念講堂』という名で、とても広く大きかった。


 構内に入れば、コンサートに対応できる音響機器や立派な照明など、目に入るすべての施設が豪華で、学園の力の入れようが感じられた。ここは色楽を輩出する名門学校としてのプライドを象徴した建物でもあった。


 千に近い観客を収容できる広さにも関わらず、課題の発表は極めて少人数で開催された。がら空きの観客席の三列目に、伝統的な色楽の演奏で使われる和装に身を包んだ楽師長と副楽師長がいた。それから一列後ろに、長い髪を結わえた老楽師が控えていた。数列の間が空いて、色楽の生徒たち全員の姿があった。生徒と審査する楽師たちの間に、本来は最も権力を持つ理事長が座っていた。彼はこの場にいるただ一人の共感覚を持たない者、つまり一般人だった。


 すべての準備は整っていた。


 暗いホールの中、舞台だけが白色のライトで照らされていて、客席からは浮かび上がる島のように見えた。


 生徒たちの弾く楽器のうち、ピアノなどの大型の物は事前に舞台に並べられていた。他にそのステージにあるのは、空の楽譜台と黒い椅子だけ。それらがただ無言で、演者たちの登場を待っていた。


 教え子たちの小さな咳払いや制服の衣擦れの音を黙って聞いていた老楽師が、すっと立ち上がった。教師の背後で雑音が消え、空気に緊張が宿った。


 楽師はゆっくりと目を開き、ステージの上に漂う停滞した空気を吹き飛ばす大きな声で、それを伝えた。


「これから学年課題の発表を始めます」



 発表会は淡々と行われた。


 名前を呼ばれた生徒は返事をし、席を立つ。舞台に上がり、自分の器と曲名、課題に対して表現したい意向や彩色のポイントを述べる。楽器を手に取る、あるいはその前に移動する。深呼吸をして演奏を始める。


 終わったら審査員らに一礼をして、楽師の評定の言葉を待つ。最後にもう一度、礼をして自分の席に戻っていく。それがひとりずつ繰り返された。


 この一ヶ月間、いくら死に物狂いで練習を重ねてきても、この場所での演奏がどれだけ素晴らしかったとしても、楽師の述べる審査の結果はたった一言、合格かそうで無いかだけ。楽師を含めて審査を行う席からは、称賛や慰めの言葉が送られることはなかった。


 少女たちは、ある者は心から安堵し、別の者は夢と言葉を失いながら、自分の席へと戻っていった。合格を言われたとしても、他の者と学年が被れば最後に審査が待っているのだが、今は誰もそれを考慮する余裕などなかった。


 そしてまた楽師によって次の生徒の名前が呼ばれる。


「高宮・エウカリス・佐江」


 エウカリスがすっと立ち上がって歩を進める。彼女が舞台に伸びる通路に出るまでには、座っているケイカのいる通路を通らなければならない。


 うつむいていたケイカの前を、エウカリスは悠然と通り過ぎていく。ケイカの右膝あたりで、エウカリスの歩く速度が一瞬だけ緩くなった。周りの生徒たちは誰も気づかない、極めて短い時間の出来事だ。それでもエウカリスにとっては、ケイカに自分の存在を示す十分意味のある遅延だった。『私を見なさい』。そういう意味だろう。足の交差する僅かなタイミングのズレが、エウカリスの黒髪を大きく上下に揺らし、ローズのミドルノートがケイカの鼻先をくすぐった。


 エウカリスは舞台袖で自分の楽器ビオラを受け取り、壇上に上がった。まるでそこが最初から自分の為の会場であるかのような、揺るぎない自信――楽師たちの前に立っただけで、エウカリスの体からそれが溢れ出ていた。


 エウカリスの発表の間、ケイカが顔を上げる事は無かった。少女は先輩の演奏前の言葉も聞いておらず、そもそも発表すら見ていなかった。ただエウカリスの演奏が終わって、理事長が思わず出してしまった拍手の音と、楽師が言った「合格です」と言う言葉だけは、しっかりと聞こえていた。


木原こはら 三角みすみ


 次はサンジャオの番だった。


 彼女もケイカの前を通って行った。ケイカは友人が近づいて来た時に、ゆっくりと顔を上げたが、サンジャオは表情をまったく崩さず、前以外を見ようとはしなかった。ケイカは失意のまま再び顔を伏せた。


 サンジャオは舞台にあがり、自らの楽器であるチェロの前に進んだ。色譜を取り出して、楽譜代の上に置く。


 広げた紙の左上に視線が移った時、サンジャオの動きが明らかに止まった。決意で作られていた硬い表情に亀裂が入った。隠していた想いが支えられなくなったのか、悲しみで一瞬表情が曇る。しかし再び心を取り戻した。ふたたび仮面を被り直した彼女は、しっかりとした口調で喋りだした。


「曲名は『シャーロットの踊り』です」


 隣に座っている生徒が驚いたぐらい、ケイカの肩が大きく震えた。少女はその曲名に聞き覚えがあった。超が付くほど高難度、加えて言えば、私があそこで弾くはずだった曲。


『とてつもない努力が必要です。ただ弾きこなせれば、間違いなく評価が上がりますよ』そう楽師に言われ、ケイカは練習を積み重ねてきた。


 真実こたえは予想できた。それなのに倒れて血を吐いた後、がれた物はやはり毒だったと知らされた気分だった。今は落ち着かなければ。ケイカは震える体を律し、息を吸い込んだ。


 サンジャオの演奏が始まっていた。それはピアノの伴奏をチェロにアレンジした物だったが、サンジャオは確実にその曲を自分の物としていた。ケイカは驚いた。友人がここまで器を使いこなせるとは思っていなかった。これは怒りによって開花した才能だろうか? いや隠れていた原石の本来の光かもしれない。それが天才的だったというだけだ。その小さな体から想像がつかない、どこか荒々しい演奏がケイカや聞く者たちを圧倒した。


 浮かんでくる色彩は単純な恋だけではなかった。想ったが実らず、不安や憤りの気持ちが大気に溢れ出る、やがてそれが巨大な怒りに発展するという、原始的な感情の流れを色の爆発で再現していた。小さな女の子が体で表す、実年齢を超えたその表現に、会場の誰もが圧倒された。


 サンジャオの演奏が終わった。震える腕に力をこめて、少女は弓を楽器からすっと離した。限界まで体力と精神力を使ったのだろう。サンジャオは肩で息をしていた。少女は評価を求めて楽師の方を見た。その視線は先生をさらに超えて、驚きを隠せないケイカに向かって、挑戦するように注がれているようにも見えた。


「合格です」静寂を破り、楽師が静かに告げた。


 これまで静かだった会場が、一気にどよめいた。驚きと賞賛の声だった。会場の前の審査席では、副楽師長が上司に「今年の学年課題は非常にレベルが高いですね」と耳打ちしていた。


 サンジャオとケイカの関係を知っている会場の生徒たちはみな、うつ向いているケイカに視線を注いだ。同じ学年の最も若い子が、先に合格を言い渡されたのだ。会場の反応も加わって、この後に演奏をするケイカのプレッシャーは相当なものに違いない。まだ試験が残っていて、他人の心配をする余裕がない生徒たちもいたが、そんな想像をしてしまい、ケイカに同情していた。


 ケイカは黙ったままだった。離れて見れば、演奏の前に静かに集中しているように見えたかもしれない。けれど隣の子であれば、腿や首筋の細かい振戦しんせんに気づいたはずだ。


 エウカリス――誇るだけあって、完璧な評価をもって課題をやり遂げた。サンジャオは殻を破ったと言っていい。これまでにない完璧な音と色だった。


 そしてケイカはと言えば、まったく自信を喪失していた。


 生まれてから手足のように弾いてきたピアノ。そしてそこから出る音と色に、ここまで自信がない日は初めてかも知れない。


 それなら止めてしまえばいいと、内なる声が甘く誘う。それで楽になるのなら、そうすればいいと。


 少女は全てにかぶりをふった。それでいいのなら、はるか昔にそうしているわ。


「おじいさん。トウマ。これからする事への勇気を下さい」ケイカは見えないお守りを握りしめ、自らの問いに答えるつもりでつぶやいた。


 そして、震えが止まった。


「――ケイカ」


 周囲の同情のベールを弾き飛ばすような冷たい色。ケイカを呼ぶ老楽師の声の最後の部分が、彼女の耳に届いた。


「はい」


 ケイカは明確に返事をして席を立った。


 舞台へ進むケイカを見ていない者はいなかった。当然エウカリスもそのひとりだ。誰よりもライバルの心情を理解していると内心で誇っていた彼女は、ケイカを見て怪訝な顔をした。確かに緊張して青ざめている。だが芯が折れている雰囲気はない。妙な落ち着きさえ感じられるではないか。エウカリスが予想していたのは、諦めとか絶望の表情だ。なんせあれほど徹底的にやったのだ。これ以上、ケイカに切り札など無いはずだった。エウカリスの意識の外で、指がぴくりと震えるように動いた。「理解できないものには恐怖や不安を覚える」その言葉が突然、エウカリスの脳裏をよぎった。


 同じくケイカを見つめるサンジャオの魂にはまだ、先ほど燃え上がった挑戦への熱い炎がくすぶっていた。自分は最高の演奏をして見せた。合格の判子も押されている。あとは安心してライバルが堕ちていく演奏を聞いていれば良いはずだった。


 自分が演技を始める前、エウカリスから乗り移ったような残虐な心が、サンジャオを支配していた。いままでは色々な感情が自分を抑え込んでいた。けれどもう縛られる必要はない。あの時ケイカに嫌われてもいいと宣言した。どうせ嫌われるなら、こちらから憎んでしまえばなおいい。あの人・・・はそう言った。そうすればするほどに、あなたの心は強さを増すでしょうねと。


 だからサンジャオはケイカを見下し、笑い、蔑む事で自分を解き放った。確かに効果はあった。鬱とした気分が壊れ、どんな事にも動じない硬い心を持つ、最高の自分を手に入れたと思っていた。だからこうして血の気のないケイカを見ながら、余裕の笑みを浮かべている事ができる。それなのにサンジャオは、硬く黒い溶岩に冷たい水滴が一滴ずつ落ちてくる度に、どこかで心がひび割れていく気分が拭えなかった。


 サンジャオは苛立って反論した。だからどうしたというのだ? もう二人の関係は、過去の物になってしまったのだ。サンジャオにもケイカにも、互いに出来ることなんて何もない。


 ケイカは歩を進めると、階段を登り、舞台の床を踏んだ。金色の髪を揺らしながら、中央まで歩いていく。


 そうして審査員たちの前に立つと、正面を向き、口を開いた。


「石野 桂花。器はピアノです」


 楽師は舞台袖から上がって中央で止まるまで、ケイカを鋭い疑念の目付きで見つめていた。彼女が特に気になったのは、ケイカがその手に何も持っていない事よりも、奇妙に落ち着いた表情、特に視線だった。


 ケイカは観客席の近くから遠くまで、全てを見ていた。天井、壁、照明、そして誰も座っていない椅子。審査員たち、老楽師、仲間、ライバル。ここで見た全員の顔を忘れまいと、しっかりとその目に焼き付けた。


「私は曲を……曲名をお伝えしようとしたのですが、色譜を無くしてしまって、この手には何もありません。よくわからないんです。今日来てみたらこんな状況でした。それで私は友人の――」


「ケイカさん!」老楽師が突然、教え子の言葉を遮った。声がケイカを厳しく問い詰める。「もし、あなたが何か『違うこと』を言おうとしているのなら、それは決して審査を良い方向に進める助けにはなりませんよ。むしろ不利になる可能性しかありません。いいですか、一時の感情で犯人を――」


「いいんです、先生トレイトマ」逆にケイカが遮った。老楽師の顔が初めて驚きの表情で硬直していた。


「お気遣いありがとうございます。私は……私の発言は何もありません。ただ曲を弾いて、そして帰るだけです」ケイカの表情は柔和で、緊張はなくなり、心から楽しそうに微笑んでいた。「私の曲の名前は……わかりません。古くて読めなかったんです。けれど私の友人がくれた昔の曲です。弾く人も聞く人も、そして見る人も……色楽とか関係なく、全員が楽しめていた時代の曲なんです。それが今、私がお聞かせできる物の全てです」


 ケイカは言葉を失う観衆を背に、自らの器であるピアノの前に進んだ。前の者が座った椅子の位置を調節して腰を落とす。胸元から古びて折りたたまれた楽譜を取り出した。手で広げる時に感じるかさかさの紙の感触が、ケイカには愛おしく感じる。いま少女の心には、それだけの余裕が生まれていた。


 そしてケイカは曲を弾き始めた。


 単純で複雑な技巧も何もない。ただ穏やかで優しい曲だった。曲調は単純でテンポも緩く、ただ素直な曲だった。会場の色楽たちに映る色彩には、華美なものも過激なものも一切なかった。


 誰もが困惑して顔を見合わせる中、ケイカが息を大きく吸い込んだ。


 次の瞬間、ケイカは口を開いて歌い始めた。美しい調べが音に乗って会場中に響いた。


 歌は、女性の愛おしい想いをやさしく歌い上げたもので、それ以上でもそれ以下でもない。


 ただしその歌がピアノの旋律と絡まった時、誰もが予想しない物が浮かび上がった。


 それはまるで絵画だった。


 楽器が出す音と人の発する声、どちらも同じ音の波であるはずなのに、その二つが絡まることで、色が生き物のように舞い、空に美しい絵が紡がれていた。


 その姿はどこか抽象的で、描かれた内容を形容することは難しかった。もしかして、単にケイカの歌が未熟で、本来の完成された姿ではないのかもしれない。


 けれどその美しさは、色楽が最高の美とする『色』を超えたものであり、そこには今の色楽者が達していない領域への可能性が描かれているように見えた。


 楽師長たち、そして生徒たちが圧倒される中で、ただひとり色楽の力を持たずに発表会に望んだ理事長だけが、周りの反応をみて何事かと困惑していた。


「が、楽師殿……これは?」


 そう訊ねられても、老楽師は返事を戻すことも、理事長を見ることもしなかった。ただいつも冷静な彼女の顔に、何かを悔やむような表情が張り付いていた。異様なまでに強く握られた彼女の指が、真っ白になっていた。


 生徒たちの中には、その光景に涙する者もいた。ある少女がハンカチを取り出そうとした時、硬いものがギリギリと擦り合わされる妙な音に気づいた。


 驚いて音のする方を振り向くと、そこにはエウカリスが立っていた。直立して、怒りの表情が顕になっているように見えた。


 だが先輩はすぐに会場の出口へと歩いて行った。後になってエウカリスが去った理由を誰かに聞かれても、その少女は答えられなかった。


 空白となったエウカリスの席の近くで、サンジャオが膝の上で拳を握り、演奏が終わるまでずっとすすり泣いていたが、茶髪の少女の悲しみの声とその姿は、会場の音と色に圧倒されて誰の記憶にも残らなかった。



 演奏が終わった。


 ケイカは胸元に楽譜をしまい、席を立つと再び老楽師の前に進み出た。少女の体からは、曲を弾ききったという達成感が漂っていた。


 その頃には老楽師はもう、いつもの無愛想で不遜な態度を取り戻していた。彼女はゆっくりと口を開いた。


「どんな意図があったのかは知りません。けれど私には今の曲から、あなたの『色』は見えませんでした」


 老楽師はケイカをしっかりと見つめると、最後に結果を告げた。


「ケイカさん、あなたは不合格です」

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