第14話 ケイカの歌



 弾いていた曲の最後の一節を終えたケイカが、ピアノの白鍵から静かに指を離した。


「今日はこれぐらいにしましょう」


 遮音された部屋に響く音の余韻が消えるまで待ってから、ケイカは横に座っていた少女に向き直って言った。


「後半はだいぶ落ち着いて歌えていたと思います。あなたはどう感じましたか、レイナ?」


「とても良かったです!」レイナと呼ばれた少女は、手を握りしめ、恍惚とした表情と溜息で答えた。「先生の曲と私の歌……一体感が凄くて、心が舞い昇ったみたいでした。こんな気持ち、色楽を目指していた頃でさえ無かったかも知れません!」


「それは何より」ケイカは鍵盤のカバーを閉めながら淡々と言った。


 最初に出会った頃のレイナの、あの暗く落ち込んだ雰囲気からは、信じられないぐらいの回復ぶりだ。表面上は冷静を装ってはいたが、自然とケイカの心は暖かくなった。


「石野先生、私……歌うのが楽しいです。本当にありがとうございました」レイナが涙をにじませて言った。


「思ったとおり、あなたはもともと歌に向いていた子だったの。だから、私はあなたに『ひとつ新しい色を教えた』だけよ」ケイカはそう伝えた後、くすぐったそうに笑った。「ちょっと先生っぽく格好いいこと言ってみたけれど、やっぱり駄目! どうしても照れくさくて……レイナの、その『石野先生』っていう言い方がね。せめて『ケイカさん』ぐらいにしてくれない?」


「だって年上だし、私のトレイトマだし……」


「楽師じゃないのよ。私はただの大学生! でもそう呼んでもらえて本当は嬉しいの。勘違いかもしれないけれど、あなたに尊敬してもらえていると思えるから」


「そんな! 私先生を尊敬しているわ! 曲も素敵で、歌も素敵だし……それに先生、綺麗だし……」レイナの頬が熱を帯びて赤く染まる。そして震える手をケイカの掌に重ねようとし――


「こら、ガキンチョ! そんな真似はまだ十年早いよ!」ケイカは笑いながら、レイナのおでこを軽くつついて押し戻した。「残念だけど、私にはちゃんと恋人がいるんだから。ねえ、あなたのその気持ち、歌に込めてみなさい。きっと素敵な歌い手に成長できるから」



 ケイカは複雑な装飾の扉を閉めると、玄関からレイナの家の庭に出た。瀟洒しょうしゃな建物と高級車の並ぶ駐車場の間を歩き、かなり歩いてからようやく敷地の外の道路に出る事ができた。


「大きい家だな……」ケイカは何度来ても思う感想を、また口の中で言った。


 レイナのように色楽の道で失敗し、心を病んでしまった少女は、実はこの世に何人も存在していた。ただこういった子の親は、ほとんどが資産家であるので、娘の治療は極秘裏に行われていた。よって「共感覚の異常による精神疾患」という症例自体、一般にはもちろん、医療関係者でもあまり知られていないのが実情だ。


 ケイカがレイナのような少女の家に行き、歌を教える機会を持つことになったのは、ある誘いがきっかけだった。


 大学に進んだケイカが、これまでのように老人のそので演奏していた時、園長から声をかけられた。


「ケイカさんに、ぜひ自宅に来て欲しいという申し出がありましたの。その方、あなたの曲をどうしても娘さんに聞かせたいと仰っていて……」


「あの、なぜ私なのでしょうか?」相変わらず優しい物腰の園長の頼みを、ケイカは最初から断る気はなかった。質問を返したのは、ただ知りたいという理由からだ。「私よりも上手な方が、近くの学校に大勢いると思うのですが」


「その学校の関係者が、あなたを強く推したらしいのよ」園長も困惑しているようだった。「それが誰なのかは聞かないでね。私にもわからないの」


 色楽の道から外れてだいぶ経つケイカだが、彼女は園で歌うことを一種の民間療法のように考えていた。医学的な根拠や治験は何もない。ただ確かなのは、歌を届けた相手からの感謝の声。それだけがケイカを支えていた。自分を救い、トウマを救ったこの曲と歌。名も知らない誰かに届けることを、ケイカは自らの使命のように考えていた。


 かといって喧伝した覚えはないのだが、いまではホーム関係者からの誘いで、ケイカが他の園に歌いに行く機会が増えていた。


 そうした活動が人づてに伝わったのだろう。ケイカは光栄にも、レッスンという形で何人かの生徒に歌を教える身分に収まっていた。


 どの子も幼い頃から才能を見出され、色楽を目指し、そして挫折した経緯は同じであった。そして最初から精神がひどく病んでいるケースが多かった。


 彼女らと接してみてわかったのだが、真面目な子ほど、そして優秀な感覚を持つ少女であればある程、失った希望への反動が大きかった。


 幸いなことに、ケイカは今でも、共感覚を持ち続けることが出来ていた。


 けれどあの学年課題の最後の日に、一時的な色の喪失を味わった経験がある。あの時は楽器にだって触れる気がしなかった。だからこそケイカは少女たちの辛さが理解できたし、その渇望を歌が支えてくれる感覚を教える事ができた。


 そうして人に歌の重要性を説きながら、虚しさが押し寄せる時がある。この気持を育むのを手伝ってくれた、あの人――『冬馬トウマ 由美』。彼女は学年課題の日を最後に、私の前から去ってしまった。


 喪失は大きかった。でもその人が残してくれた暖かい色は、こうして今も見える。ウメさんのように、年老いた私の目から色が去る時が来たとしても、心の色までは消えることはないだろう。



 帰り道、ケイカは駅前の賑やかなロータリーを通り過ぎた。いつもは流れる人通りだが、その時は誰もが立ち止まって、ビルに備え付けられた超大型の液晶テレビの画面を見上げていた。


 ケイカもつられて見上げると、そこには色楽隊が天子様に歌を捧げるニュースの映像が映っていた。年に数回、四季ごとに行われる行事のひとつだ。


 スピーカーから放たれる完璧に揃った音の粒が、騒音すら打ち消すように駅の一帯を陶酔の幕で包み込む。


 ケイカにはわかるのだが、映像は再現できても、美しい音と色は電波に載せた放送では、完全に再現する事はできない。それでも一般の人たちは、その美しい調べに心を奪われ、憧れとも思える表情を浮かべていた。


 テレビの映像が、格式高い椅子に鎮座する天子様から、色楽隊が演奏する様子に変わった。演者たちの顔が順に映し出される。


 ケイカはその中に、黒髪を結い、和装に身を包んでビオラを奏でるエウカリスの姿を認めた。もしかしたらと、そのまま映像を見ていたケイカだったが、茶髪で三つ編みのあどけない少女の姿を見つけることは、最後まで無かった。



 電車から降りて、太陽が西に傾くなか、ケイカは一人で住んでいるアパートまで帰路を歩いてく。


 途中、川を渡る橋に差し掛かった時、上り坂で角度が変わり、陽の光が直接ケイカの顔を照らし出した。


 視界が奪われないよう、ケイカは右手で降り注ぐ逆光を和らげた。その時だった。指と指の隙間から、ケイカは鮮やかな青色が吹き出てくるのを見た。


 最初その色は、橋の車道のアスファルトの中から滲み出てくるように思えた。しかしよく見ると橋の床板を避けてたもと、橋脚が並ぶ河原の方から登ってきているのだという事に気づいた。


 ケイカは橋を戻ると、雑草の揺れる河川敷に向かう細い道へと入っていった。


 最初は車の走行音にかき消されていたが、だんだんとケイカの耳に、一筋の歌と楽器の音が聞こえてきた。


 橋の影になった部分、コンクリートで補強された土の上で、二人の子どもたちが演奏をしていた。


 ひとりは髪の長い少年のように見えた。色白で、ほっそりとしたシルエットが強調される薄手のシャツを着て、汗まみれになりながら、ケイカの知らない歌を歌っていた。


 かなりの声量で、土手の上からでも聞こえた程だ。周りの音を打ち消すぐらいの力強さがあった。


 さらにその奥にも女の子――少年よりも年下に見える――がいて、簡易的なスタンドにキーボードを乗せて、曲を演奏していた。すぐに気づいたのだが、こちらは指使いが少々おぼつかなかった。


 ケイカは距離を縮めながらも、耳をそばだてて曲と歌を聞いていた。


 長い影が近づいてくるのに気づいたのだろう。少年がピタリと歌うのを止めた。汗の玉を袖で拭い、疑わしげな視線でケイカを見た。


「ううん、続けていいよ。ただ通りがかっただけだから」ケイカはその場で立ち止まって言った。


「サナ!」少年は背後の少女を呼び、非難の目を向けた。「ちゃんと見張ってろって言っただろう? 通報されたらどうするんだ!」


「知らないよぉ、そっちだって周りを見ててよ。私だって弾くので忙しいんだから!」茶髪の少女がむくれて反論した。


 ケイカは二人のやり取りをみて、自然と微笑んでいたらしい。


 相手に馬鹿にされたと思った少年は、いっそう不機嫌さを顔に出して、厳しい口調で言い放った。


「あのさ、関係のない・・・・・お姉さん。僕たちはこれでも結構、真剣に演っているんだ。警察を呼ぶならさっさと呼べばいい。聞いてるんならそこに座っててくれ。とにかく邪魔だけはしないでくれる?」


 ケイカはまだ顔に残る笑みを消すために、小さく咳払いをした。「ごめんね、すごく上手な歌が聞こえたものだから、つい」


「ふん」少年は褒められたことで少し気分が変わったのか、表情を和らげた。


 ケイカはもう少しだけ近づき、少年と少女の間に立って言った。


「君たちは兄妹なの? お兄さんが歌で、妹さんが楽器?」


 それを聞いて、サナと呼ばれた少女がけたたましい笑い声を上げた。


 少年が気色ばんだ様子でケイカに詰め寄った。「お前、やっぱり俺を馬鹿にしてるだろ! 俺は女だ! おい、聞いてるのか?」


 ケイカの意識が一瞬、いまより遠い過去に飛んだ。何だかとても懐かしく、鈍い傷みを伴う記憶が、ケイカの心を満たしていった。我に返ったケイカは怒りの収まらない少女に尋ねた。「……私ね、ケイカっていうの。君の名前は?」


「……マリア」


「ありがとう。あのね、マリアさん。『色楽』って言葉、知ってる?」


「シキラク? 何だ、そりゃ」マリアはぶっきらぼうに答えた。


「お姉ちゃん、テレビとか見ないの」妹が楽器をいじりながら補足してくれる。


 ケイカはとても嬉しそうな表情で微笑んだ。


「そうやって曲を聞いたり、歌ったりしていて、目の前に赤とか青とか、変な模様が見えた事ってあるかな?」


「……まあ、あるね。どうせ周りには馬鹿にされるから、妹にしか言わなかったけど」


「サナさんも?」


「私もあるよ! お姉ちゃんと遊んでる時によく見える。ねえ、ケイカさんの髪の毛って綺麗ね!」


「ありがとう。『共感覚』っていう名前のついたテストを学校で受けたことはない?」


「ない」首を横に振るマリア。


「うちは貧乏なの!」と、サナ。


「なんだい、変な質問ばかりして。まるで、あんたは学校の先生か何かみたいだ」マリアが困惑して言った。


「先生か……ちょっとは板についてきたのかな。そんな風に言われて嬉しいわ。マリアさん。私ね、こう見えても音楽が得意なんだ。それで、いまから私が曲を弾いてみるから、一緒に歌ってみない?」


「え? ま、まあ……いいけど」


「すごい! ケイカさんって曲を弾けるの? 私にも教えて欲しい!」


「うん。サナさんも一緒にやろう! きっと上手になるわ。そしてあなたたちの色が綺麗になるように、私がアンサンブルしてあげる」


「「色?」」二人は口を揃えて言った。


 ケイカは仲の良い姉妹に、思わず微笑んだ。


「うん、色っていうのはね……」


 ケイカは姉妹を土手の草地に座らせながら、ゆっくりと丁寧に、彼女の言葉で語り始めた。



 これでいい。色楽の学校に行かなくても、楽師にならなくてもいい。


 こうして伝えていこう。ケイカが信じている色楽、それをつむぐ音と色と、そして歌とを。


 あの橋の先につなげる為に――。

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