第15話 結び(老楽師の回顧録)



「君の言う事は正論だよ、アイルロース。けれどそれが正解だろうか? 私には、そうは思えないのだけれど」



 老楽師は暗がりのなか、ひとり廊下を目的の部屋に向かって歩いていた。


 今日の午後の授業はもう無いし、学年課題の発表会はとうに終わっていたので、彼女が次々と通り過ぎる部屋には、職員も含めて誰もいなかった。


 廊下を突きあたると、楽師は重い扉に手を触れ、押した。


 扉が開き、またバタンと閉じる音がした。


 部屋の中は窓から月明かりが差し込んでいたので、わずかに明るかった。


 目的があるかのように迷いなく部屋の中央なかまで進む。右・左と首を振ってまもなく、彼女のするどい目がすぐに、この部屋の異変を探し当てた。


 部屋の消音壁の近くまで歩いて、斜めに視線を上げる。


 老楽師の目が細められた。そこにかかっている偉大な先人たちの肖像画の列を目で追っていくと、その最後にひとつ欠けている空間を発見した。


 そのまま壁伝いに歩いていくと、楽師の靴が何かを踏みつけて、硬いカチンという音が鳴った。


 かがみ込んで一瞬、暗闇に溶け込んだと思うと、再び姿をあらわした彼女の掌には、鋭く尖ったガラスの欠片が載せられていた。


 何の前触れもなしに、楽師の視線は大型の楽器のひとつに集中した。打楽器のひとつ、マリンバだった。本来はマレットで叩くべきローズウッドの音盤の上に、一枚の額縁が無造作に斜めに置かれていた。


 その一致しない組み合わせが老婆の注意を引いたのか、彼女はその楽器の前まで音もなく進んだ。額縁を手に取り、壁の暗がりから窓の近くへと移動した。月明かりを反射している黒いピアノの上蓋が適当だったのだろう。その額をその上に置いた。


 銀色の光に照らされてあらわになったのは、壮年のある楽師の姿を描いた肖像だった。


 絵の人物は肩から上だけしか見えないが、がっしりとした体格をしていた。少し白いものが混じり始めた髪と、立派な口ひげを蓄えていた。顔の輪郭は岩のように形作られ、意志の強い性格を連想させる。けれど対照的に、丸い眼鏡の下の瞳はとても人懐っこくて、優しさといたずら心のある少年のようだ。わずかに微笑んでいる口元が、いまにも喋りだしそうだった。


 右頬に特徴的な大きめのホクロがあって、それが一層この人物を温和に見せていた。


 老楽師はじっとその絵を見つめ、考えていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「あなたはそうやって、微笑んでいらっしゃる。私が真面目に意見したり、怒って反論したりしても、いつもそうだった」


 絵に向かって語りかける楽師の声は、どの生徒たちや職員も聞いたことが無いぐらい、優しいものだった。


「もっとも、私と会話をする者など少なかったですがね。男性なのに色が見えるという異端児のあなた・・・ぐらいなものだったかもしれない」


 楽師は昔を懐かしんでいるのか、穏やかな顔でしばらく口を閉じていた。けれどここに来た理由は旧友との思い出にふける為ではない。


 それを思い出して、溜息を漏らした。「あなたのイタズラで我ら色楽は貴重な人材を失いましたよ。まったく……そのお姿で、どう責任を取って頂けることやら」


 楽師は窓際まで歩くと、外から照りつける月を見上げた。


「何度も意見を交わしたではありませんか。わたくしは特別な力を持つ歌姫を作りたいのではないと。歌は感情や人の能力に左右され過ぎるのです。だから器を……多少未熟なれど極力、感情を伝えない器による編成の色楽隊を作り上げたのです」


 老楽師はそこに話しかける人物がいるかのように、無念そうにかぶりを振った。


「あなたには理解されず、例え私たちの仲が永久にたがえたとしても……それは必定でした」


 彼女はそのまましばらく言葉を発しなかった。


 空にひとつだけぽつんと浮かんでいた黒雲が、太った弓形の月の上に覆い被さった。部屋に暗闇が訪れた。それもわずかな時間で、やがて雲は移ろい、ふたたび音楽室は白銀の世界に戻った。


 じっと動かずにいた老楽師が踵を返した。その勢いで彼女の顔から、黒い額縁の表面に一滴の雫が落ちて、ごく小さな染みを作った。


 老楽師は額縁を手に取り、ゆっくりと窓のカーテンを閉めた。


「天子様の名にかけて、私はこれまで通り、自らの色楽を推し進めます」


 老楽師はその言葉を最後に音楽室を出て、廊下の先の暗闇へ歩き去っていった。




(シキラク(色楽)第1部 ケイカ  おわり)

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