第11話 罠



 いつまで歩いても、その場所に着かないことがある。


 ケイカがいま学校から病院に向けて歩いている、この時間がそうだ。


 慣れている道なのに、道路のアスファルトがこんなに荒れて、歩きづらかったのかと驚く。いつも見える家の青く尖った屋根や、目印にしている一時停止の標識が全然見えてこない。


 早足になっても、進んだ感じがしないのは変わらない。むしろ余計に足取りが重い気がして、仕方がなかった。


 ケイカはいつの間にか、短く喉に詰まるような荒い息を繰り返していた。いくら空気を吸っても、ただ入っては出るだけで、酸素が足りないせいだ


 頭がくらくらするせいで、さっき起こった出来事が、ケイカには現実の世界のものに思えなかった。


 サンジャオ。


 そんな想いをかかえていたなんて知らなかった。いや違う。理解しようとしていなかった。あの子のことだから、何か私に伝えようとしていたはずだ。なのに私は気づけなかった。昼間から目を開けて眠っていたのかもしれない。


 ケイカはサンジャオを、持ったことのない妹のように思っていた。それをあたり前として接していたし、だからこそ彼女を大事に守ってきたつもりだった。


 でもそれは自分だけの感情で、思い込みだった。サンジャオの心はケイカの想像を超えて、ずっと大人になっていた。


 まただ。この前もそうだった。


 気づいた時には手遅れになっている事がたくさんある。そしてケイカはいつも遅すぎる後悔をする。周りの人が自分をどう思ってくれているかについて、私は本当に盲目で鈍感だ。


 そんな重い荷を背負った経験のないケイカは、激しく動揺していた。


 自分には支えきれない。早く誰かとこの問題を共有したかった。どうすればいいか、答えを導いてくれる人に、無性に会いたかった。


 ようやく眼の前に見えた道路標識を確認して、ケイカは胸をなでおろした。あと少し頑張れば、そこに安らぎがある。


 ケイカは三恵園には立ち寄らず、直接病院に向かって歩いていた。


 総合病院の大きな立て看板の前を通り過ぎて、ついに敷地の中へ足を踏み入れた。


 緩いカーブを描く石敷きの道を歩いていけば、そこには小さな庭があり、きっと待っていてくれる人がいる。


 そう信じてケイカは、植え込みの間に設けられた背の低い木の門を押して、中庭に入っていった。


 もうすぐだ。円形の噴水を回り込んだその先を左に行けば、待ち合わせの場所に着く。


 もうすぐに。背の高いレッドロビンの壁に守られ、柔らかい芝生のベッドの上で、きっとこの胸を圧迫する悩みを分かち合える。


 ケイカはぐっと拳を握りしめ、その道を曲がった。視界が開くと同時に、すらっとした人影が姿を現した。


「トウマ!」ケイカは口に出してその人を求めた。


 ケイカの叫びにも似た声に、トウマは反射的に顔をあげた。彼女の二つの眼は、すぐに走ってくるケイカを捕らえた。


 ケイカはトウマを見つけた嬉しさに安堵して涙ぐんだ。そして高ぶりすぎた気持ちのままに駆け寄ろうとした。ケイカの衝動は強すぎたので、トウマの前に立っていたもう一つの人影については、心が完全に排除してしまっていた。


 黒髪の人物が振り向いて、ケイカを見つめた。その顔をケイカはよく知っていた――どこまでも整っていて、美しく傲慢で、そして冷たかった。


「まあ、ケイカ」感情のない驚きと造られた笑いに、ケイカは直接心臓を打たれ、鼓動そのものを止められた気がした。


「エウカリス……」どうしてここにと続けたはずのケイカの台詞が、唇で逡巡しゅんじゅんし、音にならなかった。


「放課後に姿を見ないと思ったら、こんな庭で遊んでいたのね」庭を見渡したエウカリスは、足元に落ちていた小さな花を見つけ爪先で払った。「心配していたの」


 およそ似つかわしくないその言葉に、ケイカは寒気を覚えた。エウカリスが人を気遣う所など見たことがない。


「別に何もしないわ。先輩の務めとして様子を見に来ただけ。あなたが課題にしっかり取り組めているか気になってね。まあそれを一番気にしていたのは、あなたのお友達の方だけれど」


「友達?」ケイカは質問した。「……サンジャオのこと?」


「そう、お願いされたの。最近ケイカが腑抜けになっているみたいだから、調べてみて欲しいって。泣いていたわ、あの子。私に頼むなんて相当追い詰められていたんじゃない」エウカリスの目が細くなった。「そうして来てみたら……面白い課題の取り組み方をしてるわね、ケイカ」


 エウカリスの意味ありげな視線に気づいて、はっとしたケイカはその先を追った。トウマの様子がどこか違っていた。ケイカをちらっと見て、すぐに視線を反らした。いつも浮かべている余裕がなく、顔がひどく青ざめていた。


 二人の一瞬のやり取りを見て、エウカリスはますます饒舌に言った。「私、あなたの事をちょっと見直したかも知れない。お子様だと言ったけれど、あなたの取った行動は大人のものだわ」トウマを物のように指差す。「こうして周りの環境を無駄なく使って、最短のルートで行動しているもの。感心しちゃうぐらい!」


「最短のルート?」ケイカは訳もわからず、オウム返しに聞いた。


「はっ! とぼけるのが上手ね。じゃあ私から発表してあげる!」エウカリスは残忍な表情で言い放った。「あなたは最年少で色楽に選ばれた才能の持ち主。けれど選ばれたのは一人ではなかったわ。その隣にはいつも、原石のような輝きを持つ本当の天才がもう一人いたの。あなたに恋してやまない純朴で小さな子」エウカリスはケイカが顔色を替えたのを確認してから、続ける。「そう、誰のことかはおわかりよね。その子に脅威を覚えたあなたは、今回の課題が『恋』である事を利用して、排除する策を考えついた」


「は、排除って、何を言っているの?」


「それも演技のひとつなの、ケイカ?」エウカリスはせせら笑った。「まずは即席の恋人を作った。簡単だわ。相手はかつて色楽で抜群の才能を持っていた子。お名前はユミさんと言うわ――ふふ、ユイさんだったかしら――。あら、これは知らなかったのかしら。彼女は傷ついてろくに羽ばたけず、もがいてる小鳩みたいなものだったわ。そこに、少しだけ手を貸してあげたのよね。そうすればレースには出れなくても、空を飛ぶ真似ぐらいはできるようになる。そうして少しずつ喜ばせながら、あなたは弱った天才の体と心を自分のものにしていったのね」


 ケイカはエウカリスが抜かりない視線を投げるのを見て、その先を追った。そうして見たのは、真っ白な顔で立っているトウマの姿だった。


「トウマ……まさか!」


 エウカリスは容赦なく続けた。「ここからが本番よね。そうして恋人が出来たことを、同級生にそれとなく・・・・・見せつけたんだわ。すごいやり方。純情な女の子の心がボロボロになって自滅していくのを、あなたは笑って見ていられるものね。さらに新しい恋人とちょっとした甘い時間を楽しむことで、恋の色彩についてもバッチリ学べるじゃない。感心させられるわ。後輩にしておくにはもったいないぐらいの策士ね!」


 エウカリスの熱のこもった拍手が、言葉を失ったケイカとトウマの間に、黒い祝福の光を投げかけた。


 ケイカの指が震えていた。息ができなくなるほど、混乱していた。ただでさえ慰めてもらいにここに来たというのに、エウカリスにあらぬ事実を発表され、奸雄のように悪事を名誉として称賛されている! すぐさまこの辛辣な先輩を「嘘つき!」と罵って、怒りのままに殴りかかることもできたかもしれない。けれどケイカには拳を握る力どころか、エウカリスを睨む余裕すらなかった。


 恐ろしいことに、ケイカの眼の前でトウマの心が、暗い影の中に落ち込んでいくではないか! 温かい日差しを投げかけてくれたこの場所が闇に包まれ、柔らかい地面が深いクレバスになって、若者を暗い絶望の底に引きずり込もうとしていた。とにかくケイカは沈みゆくトウマを助けたくて、必死に言葉の手を差し述べた。


「何を言っているのか分からないの! 本当よ、トウマ……お願い! 私の話を聞いて!」ケイカは走ってトウマの前に立ち、両肩をつかんで愛する者の顔を覗き込んだ。


 けれど白面の少女は、もはや自分の意志ではケイカの言葉を受け入れられなかった。彼女の細身の体が、風もないのに大きく揺れて、ぐらりと傾く。


 ケイカは必死になって、トウマを支えた。自分さえ崩折れそうで、もうこれ以上、何も支えられないというのに。


 力ないトウマの手から一冊のファイルが滑り落ちて、挟んであった紙が芝生の上にばっと広がった。それはかつてこの少女が弾くことを夢見ていた、古い色譜の束だった。


「いや! トウマ! トウマ!」


 ケイカが悲痛な叫び声を上げてトウマの体に抱きついた。それにも反応せず、トウマはただひざまずいて、天を仰いでいた。あふれるケイカの涙がトウマの上着に吸い込まれ、いくつも染みを作っていった。


 この悲劇の演出家となったエウカリスは、唇に指を当てて、この結末と評価について考えていた。


「先輩の務めとしては、これで十分かしら。まあ、ちょっとやりすぎたかもしれない。下手したら恋を通り越して、失恋まで予習させちゃったから」


 エウカリスは折り重なってひとつの影となっている二人を取り残し、その場から歩き去っていく。


 彼女が最後にささやいた言葉が、立ち並ぶ木々と風に消されて、失意の二人に聞こえなかったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。


「よかった。ユミが私の恋人だったことまでは、言わなくても済んだわ」

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