第10話 心の声
課題の中間試奏会は例年通り、本番の一週間前に実施された。
試奏は生徒がひとりずつ、楽師のいる音楽室に呼び出されて行われた。時間はひとりあたり、約十分。その様子は本番のように皆に公開されることはなく、扉の奥で教師と生徒だけで行われる秘密の催しだった。
時間はなかなか進まなかった。教室の中で、座り慣れたはずの椅子の上でもじもじとしているのはケイカだけではなかった。
去年、試験を経験して乗り越えたはずの上級生も、呼ばれる順番を待つ間は同じように緊張していた。
コンディションは己自身がいちばん良く理解している。今日までにうまく曲が仕上がらなかったり、集中できずにいる生徒たちは皆、一様に暗い顔をしていた。
初めての経験で感触のつかめないケイカは混乱していた。試奏が始まる前は、とにかく早く呼ばれたいと思っていた。それで心が一気に楽になると考えたからだ。けれど、いま先生の部屋から戻ってくる生徒たちの青い顔や、こぼす涙を見ると、それが最善の選択では無い気がしてきていた。結局、最後に平静な顔でいられるのは、全てをうまくやった子だけなのだ。
試奏の順番は学年の高い順に行われた。先に呼ばれたエウカリスが、教室の扉から姿をあらわした。自分のことではないが、気にならないといえば嘘になる。結果はどうだったのだろう。ケイカは目の端で先輩の姿を追ったが、エウカリスは憎らしいぐらいに感情を外に出さぬまま、席に戻った。
「ケイカ」
ひとつ上の年齢の子が、ケイカの順番を知らせる為に名前を呼んだ。人を気にしているのは弱気な証拠だ。立ち上がって息を吸い込むと、ケイカは楽師の待つ階下に向かって歩いていった。
正直、楽師の前でこの小節をどう弾いて、あの彩色がどうだったかなんて、ケイカにはきちんと説明できない。音楽室の扉を開けて、演じて、閉じて戻ってきた。そんな感じだった。
自分の席にお尻をつけて初めて、どっと感情がケイカの頭の中になだれ込んできた。それも混乱の極みでしかない。
何となくケイカが覚えているのは、音も色も外した覚えはなかったという事、いつもと同じピアノなのに感触が軽く感じられた事、先生のピアスの色が水色だった事、それぐらい。
「いかんせん情動的ではありますが」楽師が発したのは、その一言だけだった。良いも悪いもわからないけれど、練習不足の割には怒られていないのだから、ケイカは悪く考えないようにした。
そんな思いにふけっていて、ケイカはすっかり次を呼ぶ役割がある事を忘れてしまっていた。
「ジャオ」ケイカは次の番を待っている同級生に向かって、声をかけた。
極度に緊張しているからだろうか。サンジャオはケイカの呼びかけに言葉を返さなかった。うつ向き加減で茶色い三つ編みを揺らしながら、サンジャオは教室を出ていった。
地下室で手伝ってもらってから、ますますサンジャオと話す機会が減った気がする。いつも明るいのがあたり前だと思っていたが、体調も含めて、あまり調子が良くないかもしれない。ケイカは友人の事が少し心配になった。
やがて全員の試奏が終わって、何人かの生徒がこわごわと口を開き始めた。少しは笑い声も戻ってきて、教室の全体に漂っていた緊張が次第に薄まっていく。
さらに五分が経って、役目を終えた楽師が教室に戻ってきた。先生は手に掌ぐらいの大きさの紙を輪ゴムで束ねて持っていた。人数分の生徒たちの採点用紙か何かだろうか。想像が想像を呼び、教室の少女たちの視線は否応なしに教師の手元に注がれていく。
「皆さん、お疲れ様でした。本日の結果を気にされている方もいるようですが」楽師は全員の視線を跳ね返すように言った。「今回の試奏は評価の為ではなく、皆さんへのフィードバックが目的です。今日の結果に踊らされず、あくまで本番当日に最高の演奏ができるよう、調整と研鑽を心がけて下さい」
楽師の一言で、クラスの少女たちの表情にあった緩んだ気持ちが消え、良い意味で再度、緊張に引き締まった。彼女の言葉は、結果が良かったものはより一層の精進を、落ち込んでいる者はその暇はないのだと悟らせるに十分だった。ケイカもそれを感じたひとりだった。
しかしエウカリスだけは、そのどちらでもない、感情のない暗い目で教師を見つめていた。彼女だけは、これから与えられる楽師の言葉をなぜか知っていて、その衝撃に自分を失わないように覚悟しているかのように見えた。
「それと最後に付け加えておきます。今回の学年課題で合格を言い渡されるのは、各学年でひとりだけです。二名が先に進むことはありません。もちろん学年で
楽師が教室から姿を消しても、エウカリスが席を立って先に帰ってしまっても、誰一人としてそこから動くものはいなかった。
ケイカとサンジャオは一緒に教室を出た。
普段にぎやかな二人が、何も喋ろうとしなかった。
下駄箱から外履きの靴を出して履き替える。校門まではのろのろと歩いた。ケイカが先頭だった。汚れるからといつもは避けて歩く校庭の石灰の白線を踏んだのに、二人は気にせず歩き続けた。
途中何度も口に出そうと思う言葉はあったけれど、どれも舌の上で空気となって消えてしまった。こんな時に出せる言葉なんて、学校じゃあ習っていない。ケイカは振り向かなかったけれど、サンジャオだって同じ気持ちに違いない。
ケイカの歩みは、蔦が絡んだ学校のシンボルが付いている大きな鉄門の前で、いちど止まった。地面と革靴が擦れる音がしなくなったので、背後にいるサンジャオも足を止めたのがわかった。
二人の影が、傾いてきた陽の光で横に長く伸びてきていた。
「じゃあ私、今日はこっちだから」ケイカは振り向いて言った。サンジャオの表情は、茶色い前髪に隠れていて読み取れなかった。
ケイカは口ごもった。何かを言うべきだ。落ち込んでいるこの小さな少女に、励ましの気持ちを伝えたかった。『大丈夫だよ、頑張って一緒に色楽になろうよ』いままでどんな時でもその台詞で乗り越えてきた。それが一番言いたいのは今なのに、あの冷徹な楽師の宣言によって、道は生涯閉じられてしまった。
ケイカはふと冷静になって考えた。自分はなぜこんなにも平常心を保っていられるのだろう。人の心配をしている余裕はないはずだ。ケイカが成功しても、サンジャオの演奏がそれを上回るはずがないと安心しているのだろうか。そんな確信はそもそも無かった。サンジャオの才能は目を見張るものがあり、ケイカも驚くことがある。好敵手としてまったく油断できる相手ではなかった。
それならばこちらが慰めてもらう立場ではないだろうか。けれど私は気にもせず、友人のことばかり考えている――そんな自分に気づいてケイカは我を疑った。「あれ、色楽になる夢を諦めたのかい? もう人に道を譲ってもいいとか思ってるの、ケイカ?」誰かに似た声が内側からやってきて、金髪の少女に問いかけた。違う……諦めてはいないよ! そう反論してみせる。けれどどうしてか、その言葉に熱がこもっていない気がする。本当に、諦めていないはずなのに。
「あれ? 私もしかして色楽になる事に、それ程こだわっていない?」
心の底から浮いてくる淀みのない真実に気づいて、ケイカは呆然とした。幼い頃から数えても、殆どの時間を費やして進もうと決心した道への執着心が、これ程までに薄まっていたなんて。
「どうしたの、ケーカ?」呆けているケイカをみて、サンジャオが不安そうに訊いた。
「あ、ちょっと考えごと……」ケイカはまだ直前のショックから立ち直れていなかった。
戸惑うケイカを見て、サンジャオが再び口を開いた。「……ちょっとショックだったよね。センセのあの一言」
「うん」ケイカは何とか首を縦に振った。
「私ね、ちょっと考えてた事があるんだ……学年課題なんだけれど、棄権しようかと思ってるの」サンジャオの言い方は、まるで今日のランチについての感想を言うように軽かった。「それでもう、色楽になるのも止めちゃおうかなって」
「え?」それはケイカが心の中でたどり着きかねない結論だった。まさかサンジャオに先を越されるなんて、予想外だった。ケイカは焦った。「な、何を言ってるのかわかってるの?」
「わかっているつもり……だって、やっぱり向いてない気がするんだ」サンジャオは力なく笑った。「この前はさ、課題できそうなんて、格好つけちゃったけど、やっぱり駄目みたい」
「……今日の試奏、良くなかったの?」
「うん、最低評価。基礎からやり直せって、鼻で笑われた。もう色なんてグチャグチャでさ。手も震えて弦が切れるかと思った。これ、冗談じゃないよ!」自虐的に言い捨てる。「エウカリスが言うみたいに私、いつまでたってもお子様なんだよね。誰かに前を行ってもらわないと、怖くて先に進めないみたい。これから練習とか競争とか、もっと厳しくなるでしょう? だから色楽はさ、ケーカみたいに、ひとりで何でも解決していける人がなるべきだと思うんだ」
「おい、ジャオ!」弱気になるサンジャオを励ますつもりで、ケイカは怒った口調でたしなめた。「何言ってるのさ。そんなんじゃ駄目だよ。ちゃんと課題をやって、それで駄目ならまだしも……棄権なんて許さないからね!」
ケイカはもう一言、ガツンと言ってやろうかと思っていた。けれど、サンジャオがその場にしゃがみこんで、すっかり黙り込んでしまったのを見て、少し言い過ぎたと悟った。溜息をつくと、諭すように優しく手を伸ばして頭を撫でた。「わたし手伝うからさ。一緒にやろうよ」
サンジャオはケイカが差し出した手に、自分の掌を重ねた。「ケーカ、優しすぎる」そして不安そうに自分の頬に引き寄せる。「駄目だよ、駄目だよ……」呪文のように繰り返し言葉を唱えた後、急にサンジャオがケイカの手を――優しくではなく――握りしめた。
「痛!」その異常なまでの力強さに、ケイカは驚いて声をあげた。「ジャオ?」
「お願いだから、そんな風に私に優しくしないで!」急にサンジャオが叫んだ。
先程まで泣きそうだったサンジャオの表情が、吹き上がった感情で痛々しく歪んだ。ケイカは親友の変わりように、手の痛みを忘れるほど驚いた。
「やっぱり私、我慢できない!」サンジャオは悲痛な声で叫んだ。「ケイカ、あなたが課題を棄権してよ! そうしたら私はあなたに嫌われる代わりに、色楽を続けられるから!」
ケイカはあまりのショックで、友人の訴えをすぐには理解できなかった。
興奮したサンジャオは、うろたえるケイカを無視して叫んだ。「それが駄目なら、私の所に帰ってきてよ! お願い……お願いだから! そうしてくれたら、私が色楽をあきらめるわ!」
「サンジャオ! 落ち着いてよ、ねえ! 私あなたが何を言ってるのか、分からないよ!」
「分からなくていい! 私だってケイカが何で私から離れていったのか、分からない! 教えて! 私は何も変わってないのに」
「どうしてそんなこと言うの? 私はあなたから離れてなんていない。こうして今もここにいるじゃない」
「だって、ケイカ。今日もそうだよ。今日も私と一緒に来ようとしない。あなたの見てる『こっち』に、私はいないよ!」
「それは……」ケイカは口をつぐんだ。ようやくだが、ケイカの頭の中に、理解が形をなして浸透してきた。「ジャオ、あなたもしかして……」
「ひどいよ! ひどい……。このままいったら、わたし両方とも無くしちゃう。ケイカも色楽も、両方だよ! いや、お願いだから、どっちかを選んで! 私から全部を奪わないで!」
ケイカは荒い息をついて涙を流す親友に圧倒され、何も言葉が出なかった。
「行っていいから! 私は止めないよ。止めないから」返事の出来ないケイカに、サンジャオはわかっていたかのように繰り返し言った。「ケイカには選べないの、わかってる。そういう性格だし、どっちとも大事なものだもんね」
興奮した表情が消えていき、サンジャオは一見して落ち着いたように見えた。けれど少女の目には、かつてケイカに対して向けられていたあの無邪気で親しげな光は消え、挑戦とも取れる輝きが宿っていた。
「でも、わたしも失いたくないの。だから全力で課題に取り組むわ。そしてケイカに勝ってみせる。どんな卑怯な手を使っても、それで、結局あなたに恨まれても」
サンジャオは土まみれになった鞄を拾い上げると、ケイカを残して駅の方へと走り去っていった。
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