第9話 恋人たち



 その花園の感触は柔らかくて、暖かかった。


 病院の本棟からストレスケアセンターに向かう敷地内通路の途中に、こんもりと木々の茂る中庭があった。見舞い終えた客がくつろぐ場所というよりは、代わり映えのしない入院生活に心を膿んだ患者たちが、静かに座って心を癒やす為の庭という趣だ。


 院内の他の場所がそうであるように、この庭も最近の世間事情で喫煙ができない規則があてはまる。それもあって、普段から庭を利用する人は少なかった。


 庭を囲むレッドロビンの植栽の壁に隠れるように、ひとつの人影があった。その影は芝生の上に寝転がっていて、まだ少し温かさの残る陽光の下で、体をゆっくりと暖めていた。じっとしていたかと思えば、影はゆっくりと動き上半身だけがふたつに分裂した。ふたつの頭がひとつに寄り添い、しばらくの間止まった。そして小刻みに震えたかと思うと、また二つに別れて、影たちはクスクスという笑い声をたてた。


 道に沿って植えられた花壇には、たくさんの種類の花々が咲いていた。そのうちのひとつ、日々草の小さな紫の花がいま吹いた風で、形そのままに茎から外れ、芝生の上を回転しながら風車のように転がってきた。風の後押しを無くした花弁は、力をなくして人影のすぐ脇で、音もなく止まった。


 影からにゅっと一本の腕が伸びてきた。その先に生えてきた細い人さし指と中指が、花びらの一枚を挟んで持ち上げた。紫の花はそのまま宙を運ばれ、もうひとつの影の頭の上に優しく置かれた。二種類の異なる笑い声がしたあと静かになり、ふたつに分かれていた頭がまた、ひとつにくっついた。


「ん……」頭に花を乗せたケイカが、くぐもった声をあげた。「……少し息をさせて」


 渋々と言った感じで、もうひとつの頭がケイカから離れた。トウマは力の抜けたケイカの上半身を右腕で支えていた。左手はケイカのお腹のスカートの生地の辺りに優しく添えられている。腰から下の部分は二人で足を絡めていたので、分かつのは難しかった。


 トウマは心底安らいでいる表情のケイカの小顔を、優しく見つめていた。支えていた腕を徐々に下ろしていくと、ケイカの体もそれにならって傾いていく。やがて二人は完全に芝生の上に横になった。そのまま、しばらくどちらも口を開かなかった。


「……そろそろ、行かないと」

「もう少し」


「さっきもそれ言ったよ」

「そうだっけ?」


「あまり遅く家に戻ったら、叱られちゃうわ。ここに来れなくなるかも」

「それは嫌だ」


「じゃあ、もう行くよ?」

「もう少し」


「……」

「……」


「……」

「ねえ、どうしてケイカは色楽になろうと思ったの?」


「それ、この前も聞いたよね」

「そうだっけ?」


「うん」

「また聞きたくなった」


「……子供の時から、他の子とどこか違うって気づいてた。それである日、家族でテレビを観ている時に親に言ったの」

「なんて?」


「『らいおんじぇーんが、わるいひとにエイってするとき、まっかにみえる』って」

「あはは、一緒だ! 僕はミラクルワンダーだったけど」


「それで母は飛び上がって喜んで、私を医者に連れて行ったわ」

「『我が子は天からの賜物を授かった』か。どの親も似たようなもんだね」


「あとは皆が小学生になった時にやる――」

「シトーウィック共感覚シナスタジア測定テスト」


「そう」

「でもそれって、適性の有無が判るだけだ。ケイカの心が決めたわけじゃあない」


「そういう言い方したら誰しも、そうだわ。決めるのは私じゃなくて、親だもの」

「敷かれた道を走ることにしたわけだ」


「うん。トウマだってそうでしょう?」

「まあね。でも僕の場合は違う意味・・・・で、選択肢がそこしか無くてね。テストの結果はハンコが滲むほどの合格だった」


「それって……どういう意味?」

「共感覚がクレイジー過ぎた、とでも言ったらいいのかな。体にとって害になっていたのさ。分かるかい?」


「私たちが興奮した時みたいに、色彩があふれ出る感じ?」

「洪水だよ! 世の中が色の渦にしか見えない程のね! ひどい時は立つことすら出来なかった」


「力は選ばれた者だけに強く宿るんだわ。共感覚を持たない人は、私たちをうらやむぐらいなのに……」

「僕はむしろ、その感覚を抑え込むために、子供の頃から薬漬けの毎日だった」


「じゃあ色楽になるのも嫌だった?」

「……おかしいや、いつの間にか質問する立場が逆になってる。まあ、そうだね」


「憧れなのよ。選ばれた時は本当に幸せで、お姫様になるみたいな気分だった」

「いいね。乗っているのはカボチャの馬車ってところか。同じ舗装されていても、僕はそこ以外走れない路面電車だ」


「ふふ、変な例え。あ! ごめん……」

「いいんだよ、おかしいと思えるほど、僕の例えは正解だから」


「……聞いてもいい?」

「何だい。ケイカには何でも話すよ。君に隠し事はしたくない」


「トウマ、どうして色が見えなくなったの?」

「生まれ持った特異体質、幼児期からの薬のODオーバードーズ、過度のストレスと緊張、肌荒れも少しは関係してるかもしれない」


「ふざけてる?」

「いたって真面目だよ。医者に匙を投げられた。原因なんて分かるわけないよね。そもそも彼らには最初から、僕に見えるものが見えないんだから」


「ええとね、私の聞いているのはきっかけの方」

「……それを答えるのが一番きついかもしれない」


「いいの、無理に聞いてないよ!」

「いや、隠すつもりじゃない。前に君を小馬鹿にした言い方をしたのを謝らなくちゃならない。おかしくなったのは学年課題の日さ。あのプレッシャーは相当なものだからね」


「……」

「ケイカに同じ圧を与えるつもりは無いよ。僕の時代……君より少し前だけれど、生徒間の競争が厳しくてね」


「トウマって、やっぱり私よりも歳上なんだね」

「子供っぽいって言いたいんだろう? ふん、話の腰を折るなよ。先に進めるのは学年でたったひとりだった。それでお互いに色々あったのさ」


「色々って?」

「嫌がらせのたぐい、陰湿で根の深いやつだ。君も気をつけるんだぞ」


「私が? なぜ?」

「なぜって聞くのかい? まったく……君のそういう所は、相変わらずのお子様だな! 学年課題の意味がわかってるのかい?」


「……そういう言い方、イヤ」

「何だって?」


「私の先輩にそっくり。そんな言い方するトウマなんて嫌い」

「ち、ちょっと待ってよ」


「……帰る」

「……いいや、違う。ゴメン! そんな所を含めて、全部がケイカなんだ。僕の……」


「僕の? 何?」

「……」


「聞こえない」

「……僕をはめようなんて」


「……ちょっと! ん……変なところを触らないで!」

「いいじゃないか。これは治療なんだから。僕にとっても、君にも」


「治療か……そうかもしれない。私にはあなたの歌が薬になったもの」

「なんかちょっと気に入らない。その僕の歌だけ・・に価値があるみたいな言い方」


「そういえば、おじいさんの姿を見かけない」

「あのじいさま、いつもふらりと現れては消えていくんだ」


「トウマはどうしておじいさんを知っているの?」

「ちょうどこの場所で会ったんだ。僕が何もかも失って、薬の副作用もあってふさぎ込んでいる時に。じいさまは僕に歌う可能性を教えてくれた。それとあの園の存在も」


「あの人はお医者さんなの?」

「さあね! 違うと思うけれど。ねえ、僕たちはいつまで老人の話をしなきゃならないんだい?」


「そうね、もう行くわ。練習しないと」

「……今度いつここへ?」


「学年課題の前に試奏会があるの。そこでひとりひとり先生に、それまで練習した色を見せなきゃならない。それが終わった日に連絡する。来週よ」

「来週? 待ちきれないや」


「……私も」

「週末、歌に誘ったら駄目かな」


「駄目よ。週末も練習しないと」

「昔、僕が弾いていた曲がある。課題で使おうとした色譜をまだ持っているのさ。それをぜひ君に渡したいんだ。万が一の為に持っていて欲しい」


「ありがとう。でも来週にして。今は私の曲に集中しなきゃ」

「……」


 ケイカだけが立ち上がった。けれど互いの腕はまだ重なっていた。いつまでも名残惜しく、どちらからも離したくない気持ちが、蔦のように絡み合っていた。


 最後に、二人は同じ言葉を同時にささやいた。


「さようなら、またね」

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