第8話 高宮家(2)



 サエは自分がどこをどう歩いて、その場所にたどり着いたのか、分からなかった。


 息が詰まった。空気を求めてあえいでいたら、そこに着いていた。


 空がある。まるで外にいるようだった。しかし居室の一部なのは、四辺を部屋に囲まれている事でわかる。各部屋共通の採光用の吹き抜けが、そのまま正方形の広場になっていた。天があるから土もある。地面には小さな噴水が置かれていて、水の流れる音がインテリアの一部になっていた。


 いまは何時だろう。


 サエは噴水の台座にペタンと腰かけていた。水音のする基部の方を見ているのに、視界に水の青が浮かんでこない。それほどに彼女は憔悴し、混乱しきっていた。


 サエの脳裏に推測と疑念が、滅茶苦茶な順番で流れてくる。


『屋代さんが漏らしたのは私とユミの関係ではない。あの子がユミじゃ無いという、その事実だけを父に伝えたのだ。なぜそれだけを自分に? 賢い者ほど、そう疑う。嫌な予感がした父は自らの力で学園を調べさせた。そうに違いない。事実がじわりと後から染みてくるような感覚を利用した。心理的に最も効果があるやり方だ』


『ユミもユミだわ。どうして言わなかったの。いや、言えなかったのだ。責められない。私もそうしていただろう』


『私が本気で弾いたら、その後の世界はどうなるのだろう。打ち負かされたユミはどうなるのだろう』


『わたし、あなたに興味があるの……』


 やがて巡る思考の渦が緩やかになってきた。静けさがやって来る。全てが流されて、サエの心に残ったひとつの確信があった。


 誰もがユミをおとしいれようとしている。


 サエは高宮と言う血に生まれて、全く自由は与えられず、父と家の言う通りに生きてきた。けれどそんな自分にすら将来はある。毎日「高宮のお嬢様」という名の不自由な服を着て、香りの強い香水を纏いさえすれば、約束された道に乗ることができる。


 ユミは違う。捨てられて、道を決められて、自由なくそこを歩いたとしても、なおたどり着く先は見えていない。


 少しでも心の安寧を求めて道を外れれば、血筋や家柄や健康を理由に、よってたかって全力で引き戻される。ユミが生きているのは、自分の意思の介入が許されない世界だ。これは何という種類の理不尽と言えばいいのか。


 サエの腰が自然に台座から地面へと滑り落ちた。背中に感じる冷たい天然石の感触。見上げた空は真っ暗で、そこに月は出ていなかった。


 ユミが悪い訳じゃない。私の出せる答えはそれだけなのに、どうしてこんなにも私の体は動かないのだろう。


 サエは自分に問いかけた。今まで生きてきて、こんなに誰かの事を考えた事があっただろうか。常に自分を中心に回ってきた世界に突如やって来た彗星。悪戯っぽくって、子供で、訳の分からない事で怒って、それでいて誰よりも孤独で。


 主導権は私が握っていたのに、ユミはいつの間にか私の世界を自由に飛び回り、歌いながら私の心に矢を射ってくる。


 サエには心のわだかまりの正体が分からなかった。正義感? 違う。同情? いや。慈悲の心? まさか! じゃあ……愛?


「馬鹿らしい!」サエは大きくかぶりを振った。けれどすぐに迷いが口をつく。「でも、どうしたらいいのか分からない。こんな気持ちのままで、ユミになんて会えない」


 サエらしくない弱々しい本音。それを聞いているのは噴水の頂点にある天使の姿をした彫像だけだった。

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