第7話 高宮家(1)



 帰り道。送迎専用のメルセデスの後部座席に収まる。ウィンドウ越し流れる景色が落ち着いてくると、もうそこは高宮の屋敷の入り口。備え付けの巨大な電動ゲートが開き、車ごとサエを敷地内に招き入れる。


 ここから先は見慣れた西洋庭園の風景のはず。けれどサエのまなこは虚ろで、そこにスラムの街並が映っていたとしても、気にならなかった。


 サエの頭の中では、屋代から受けた申し出が鐘の音のように繰り返し、鳴り続けていた。


 次の学年課題。ユミに勝て。


「言われなくても勝つわよ。私を馬鹿にしてるわ」強気のサエがひとりごちた。


 老人の言う『ある競争条件』というのは、おそらく私が知っているあの事と同じ意味に違いない。それが行われれば、私かユミかのどちらかが、実質上この学園にいられなくなる。


 どうしてそんな事をするのだろう。前にそんな条件は付いてこなかった。おそらく、とサエは考えた。拮抗する力が並んだ時はその腕を競わせる。そんなつもりなのだろう。短絡的だ。その選択がたくさんの悲劇を生むかもしれないと思わないのだろうか。まったくあの銀髪の老楽師らしいやり方だ。


 この学園が本当に『ユミには刺激がありすぎる』なら、体の事を考えれはユミは去るのが正論になる。方法はどうあれ、あの執事は間違えた事は言っていない。


 だったらなぜ、この学園の地を踏ませたのだ。あの時、校長室の扉を開けさせた理由は何なのだと考える。しかし思い悩んでも、何も答えは出せなかった。


 サエは少し熱っぽい額に手を当てた。悔しいが屋代の提案が、ずっと心の中から離れていかない。いつも心をひとつの事に捕らわれるなと言われているのに。


 そしてそれを言った人に、これから会うというのに。



 サエを乗せたドイツ車は、パラディオ様式を模した広大な屋敷の前に停車した。


 出てきた使用人が、車のドアを開ける。背の高いサエだが、彼女も小さく見える程の樫の大扉をくぐって屋敷の中に入った。


 天井の高い石造りのエントランスが、住人を迎える。サエはそこに飾られている見事な調度品を一瞥もせずに、通り過ぎていった。壁際にたくさんの椅子が並ぶアセンブリルームがあり、そこ抜けると家主である父親のいる部屋の両開きの扉が見えた。サエと使用人は、その手前にある小さな――といっても大きい――ゲスト用の待合室で立ち止まった。


 父は多忙なので、よくそこで待たされる。サエは微動だにしない。前に立っている使用人のように、慌てて髪を撫で付けたり、身だしなみを整えたりする事もない。なぜなら彼女はすでに、車の中でそれを終えていたから。


「どうぞ」と中から女性の声がした。扉がすっと開いて入室を促す。


 サエがその扉をくぐり抜けると、そこにもやはり大きな空間があった。だがそこだけ建築様式が異なっていて、木目を基調とした広大なオフイス兼プレジデントルームといった造りだった。


 その部屋の採光を背にして、両手を広げても届かないぐらいの大きなデスクが置かれている。そこに男が座っていた。


 短く刈り込まれた小さな頭。上半身だけしか見えないが、それでもかなり体格が良い。それはロンドンストライプのクレリックシャツの胸の張り具合で、遠くからでも確認できた。


 客が来たことは秘書の女性に告げられていた。オールバックの男は、サエが声をかける前に視線を上げた。


「ただいま戻りました。お父様」サエが軽く会釈する。


「ああ」それだけ答えると、男は再び机の上の書類に目を通し始めた。沈黙が続く。


 サエは無言で待った。この家では待てることは特技に入らないが、待てないことは自慢すらできない。


 仕事が一区切り片付いた。男はペンを置くと、ようやく娘と視線を合わせた。


 サエと同じ青い瞳。しかしそこには輝きはほとんど無い。美しいが底が見えない暗い深宇宙のような印象を与える。生半可な感情などとおに深部へと飛び去ってしまったかのようだ。


「私をお呼びになったと伺いました」実の娘であるのにあまりに落ち着かない父の視線。サエは父に早く用事を思い出させたくて、自ら言った。


 父は首を縦に振った。もちろん覚えているという意思表示だった。彼がさっと手を上げると、脇に控えていた秘書の女性が慎ましく下がり、部屋の外へと消えた。娘に話をする準備が整った。


「学園にさらに寄付を行った。今造っている新しい講堂の追加の設備投資だ。そして施設維持の為に発生する五年分の経費が、のべ十七億。全てお前の通っている学園の為だ、サエ」


「本当ですか。ありがとうございます」サエはまるで学園の理事長であるかのように礼を述べた。本人と違うのは、まったく感情がこもっていない点だけ。


「お前は成績も優秀と聞いている。色楽への道も全く問題ないと。それでこそ私の愛する娘だ」父親は『愛する』をより強調して唱えた。


「ありがとうございます」


「ただひとつだけ、私の耳に入ってきた事実がある」父親は長い指を組んだ。「お前が付き合っているという友人の件だ」


「友人?」サエは心から何の事かわからないという表情をしてみせた。しかしわずかに、こめかみの筋肉がピクリと動いた。「付き合っているだなんて、ご冗談でしょう」


「私が時間を無駄にするのが嫌いだという事は知っているな? 単刀直入に言う。別れなさい」


 サエは今度は唾を飲んだ。「お父様。私は本当に意味がわからないのです」声がかすれる。「友達はいますが級友たちです。大事な仲間ですよ? 何か特別な関係などでは……」


「とぼけるな」父親は反論を許さない。「お前は昔から、気に入ったものを見つけては常にそばに置こうとする。それは悪くはないがな。今回は止めておけ。それだけだ」父親はそのまま仕事に戻ろうとした。


 サエの思考が猛スピードで回転した。私は娘だ。父親の事はよく知っている。父の言い方は確信に満ちていた。眼の前のデスクの上に置いてある、磁力で動くボール。あんなフラフラしたものじゃない、しっかりとした情報を父は持っているに違いない。


 でも何故わざわざ? 私たちの関係を知ったからといって、すぐ引き離そうとする意味がわからなかった(これまでも『友人』はたくさんいたというのに)。


 まさか! サエは自分の思い付きに驚かされた。背筋に冷たいものが走る。まさかとは思うが……あの執事?


 屋代が裏でお父様に手の者をよこしたというのだろうか。その結果が、これ?


 行動が早すぎる。いや、そもそも何か違和感がある。ユミを諦めさせたい、そして私がその企みを断ったからといっても、その仕返しに私とユミを別れさせるだなんて、意味が繋がらないではないか。ただの嫌がらせで、メリットがない。


「なぜそんな?」思いあたる節はない、けれど理由を知りたい。そんな風に聞こえて欲しいと念じ、サエは父に訊ねた。


 しかし父の一言は、サエが全く予想していないものだった。


「……教えてやろう。ユミは『ユイ』だ」


「え?」サエは演技ではなく、本心から混乱していた。


 父親は同情の目で娘をみた。無理もない。彼がその話を聞いた時も、最初はそんな顔をしていた。


 父はさらに付け加えて言った。「わからないのか、サエ。天無てんむだ。『冬馬 ユミ』などという名はこの世に存在しない。その子の本名は『冬馬 ユイ』。冬馬家が貰い受けた今の天子様の娘のひとりだ」


 返事はなかった。だがその反応も父親の想像の範疇だった。「わかったようだな。高宮は冬馬とは違うが、もうひとつの天無の影だ。この繁栄は天子様を護ってきたが故にある。天無の意志に逆らう事はできない」


 サエの父親はベルを鳴らし、再び彼の秘書を呼んだ。「以後の友人との接触は一切禁じる。これは私からの強い命令だ。わかるな。以上だ」

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