第6話 再入院(2)



 サエが病室の扉を外から閉めた時、その人物が待ち構えていた。


「お世話になっております」


「……屋代さん」


 彼がここにいる事は別におかしくはない。だが、あらたまった口調にサエは違和感を覚えた。


「高宮様にお話がございます」


「『様』なんて、止めて。サエでいいです」


「ではサエ様」


「ふふ、頑固。あらたまって、お話ってなんですか?」


「こちらへ……」


 屋代はサエを、病室を結ぶ通路の間にあるラウンジに案内した。この階は個室だけのフロアだ。各々に快適で閉じた空間が用意されているのだから、わざわざ共用の休憩場所を利用する者は、二人の他に誰もいない。


 この時間帯に射すブラインドからの光の格子ラティスが、木目模様のテーブルに斑の影をプリントしていた。


「ユミに聞かせたくない話なんですね」


「お察しの通りです」老人は苦しそうに息を吐いた。「まずこれからお願いします事を、内密にするとお約束頂きたい」


「どんな企み? あなたからそんな言葉を聞くと、ぞくぞくする」サエは少しおどけてみせた。「いいわ、約束します」


「ユミ様のお体に関するお願いなのです。けれども最初に確認したい点がございます」


 屋代はまじめな表情で切り出した。「ユミ様はあなた様に心を許していらっしゃいます。これは長年お世話をしてきた私にはわかる事です」老人は眉を上げた。「ではサエ様は、お嬢様をお好きでしょうか?」


 サエは面食らった。枯れた老人から、そんなストレートを放り込まれるとは予期していなかった。少し口ごもる。「私は本気で誰かを好きになった事なんてない。相手がどうかは知らないれど。でも、ユミだって馬鹿じゃない。それぐらいわかって、私と一緒にいると思いますけれど」


「そうでしたか」老人はサエの答えを深掘りしなかった。「それならばお話がしやすくなりました。お願いは単純でございます」老人は暑くもないのに、取り出したハンカチで汗を拭いた。「次の学年課題で、ユミ様に勝って欲しいのです」


 さらりと出た言葉が、二人の間の空気を確実に重くした。


「われわれ冬馬は、次回の中等部最後の学年課題に、ある競争条件が付くだろうという情報を得ました」


 職務に長けた執事の唇は、目の前にある予定を整理するように、次に語る適切な言葉を選び出す。「それを利用しようと考えております。サエ様にご協力頂ければ、ユミ様は進学することができなくなる。そうすれば、あの方は自ら色楽の世界を諦めるでしょう」


 サエは黙って顎に手を添え、この執事を――大人しい物腰で大胆な提案をする老人を注視した。


 目の前の人物を観察し、その裏に潜む『本当の意図』を探りにかかる。サエが幼い頃から教育され、癖になっている方法メソッド。先に相手を把握して自分を有利にするやり方だった。


 けれど刻まれた皺の奥深くが見えないように、少女には彼の意図が読めなかった。もしかして、読ませなかったのかもしれない。サエには急に、この物腰優しい男が老獪な策士に見えてきた。


「それほどユミの具合か悪いというの?」


「ええ、残念ながら。色をお持ちの方は、感覚の強弱に波がございます。ひどい時は入院しての治療も、経験されているかもしれません。けれども――」屋代は苦しそうに咳き込んだ。「それは一般に、幼少期特有の症状です。サエ様ほどの御年齢になれば落ち着くものです。しかしユミ様は――しばらく小康状態が続いておりましたが――駄目でした」


 疲れたのか、老人は少し歩くと共用の椅子に腰を落とした。職業柄、執事はあまり座らないものだが。「この学園に集まるのは、特に強い力を持つ優秀な色聴者たちです。彼女たちと共にする生活は、ユミ様には刺激があり――」


「さすがに身勝手過ぎやしませんか?」これまで黙っていたサエだったが、我慢できなくなったのだろうか。突如、老人の話を強引に遮った。彼女には珍しく、その声が怒気に満ちていた。「ユミが勝手に歩いて学園にやって来た、みたいな言い方をしてる。あなた・・・たちが、ここへ連れてきたんでしょう。しかもやらせてから駄目だなんて、よく言えますね! もう色楽は私たちにとって命になっているのに? 呼吸をするなって言うの?」


「……それについては頭を下げるしかありません」執事の目が悲しみに曇る。「天の意志なのです。それがその方の、ただひとつのわがままだったからなのです」


「何を訳の分からないことを……あの子を辞めさせるのだって、あなたのサインひとつの問題じゃない!」


「ユミ様自身から、諦めてもらう必要があるのです」屋代は苛立って返したユミの主張を、鮮やかな一刀で両断した。「そうでないと、また自然とその世界に引き寄せられてしまうでしょう」


 今度はサエも黙っていた。


 屋代が口を開いた。「もしあなた様に断られた場合を考え、私たちがなそうとしている事がございます。それも含めて話さねば、卑怯になりましょう。あなた様を信頼して、全てをお話致します……」



 そのまま最後まで、屋代の語りを黙って聞いていたサエが、ようやく震える唇を開いた。「そんな事を良く考えられるわね。あなたはあの子の親代わりなのでしょう? ユミは……鬼に育てられたんだわ」


「私がいくら恨まれようとも構いません。ユミ様が普通の子と同じように生きて欲しい。ただそれだけが望みでございます。サエ様、何卒引き受けて頂けませんか。私たちも修羅には落ちたくないのです」言い終える直前まで、屋代は喉を押さえ激しく声を震わせていた。


「あなたの方も相当、具合が悪いようね」サエは立ち上がると、給水機からコップに水を汲み、執事へと差し出した。


 屋代がコップに手をつけている間に、ユミは自分の答えを告げた。「あなたに言われなくても発表会は行われる。残念ですが、そこで私がどうするかなんて、お約束はできません」


「そうですか……」屋代は暗い声で嘆いた。「あなたに引き受けてもらえれば、私たちが動かなくても良かったのですが。けれど仕方ありません。この業は私たちで背負います。知っていた・・・・・としても、あなた様は何も気に病むことはありませんから」


 一見気遣いに思えるその言葉には、あきらかに警告の意味が含まれていた。


 これから何があっても、見過ごせ。


 一切の口出しは無用だと――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る