第7話 理由



 ケイカの見つけた楽譜は、約七十年前に作曲されたものだった。


 写しとはいえ、それ自体も紙がだいぶ傷んでいた。翌日、ケイカはそれを慎重に手に取り(大丈夫、少し借りただけだから)、ダイニングルームのテーブルの上に広げた。


 まずケイカを驚かせたのは、その曲が伝統ある古典でも何でもなく、ただの唱歌だったことだ。技巧的な特徴は殆どなくて、楽器を習い始めた子供でも弾けそうなシンプルな曲。これが正式な場で、天子様に捧げられていた場面など、とても想像できない。


「こんなの、楽師に見せたらどんな顔するかな」ケイカは想像して、くすりと笑った。実際に音を紡ぎ出しているイメージを瞼の裏に浮かべて、ケイカは譜の上に手を広げて置いてみた。「でも美しい曲だわ……とてもいい色が出そう」


 そしてケイカが最も目を疑ったもの、それは五線の一段下に並べられていた文字の列だった。通常、色楽が演奏する曲の中では、絶対にあり得ないものだった。


「嘘みたいだけど、これって……歌詞だ」ケイカはその流れるような文字の続きを指でたどりながら、ゆっくりと声に出してみた。一体感。そうだ……これは生まれた時から歌なんだ。ケイカには、最初からこの曲が詞を念頭に作られている事がわかった。言葉と旋律は互いを邪魔せず、とても温かく手を取り合っていて、心地よい。ケイカがやすらぎを感じる理由が、そこにあった。


 ケイカはいま、色楽のどんな難しい課題曲を見た時よりも強い欲求を覚えていた。ウメさんにも聞かせたいけれど、私自身が一番これを演奏して、聞いてみたいと思っている。


 それに必要なのは、私だけじゃない。ケイカには考えなくてもわかっていた。私は演奏する。色を出す。ウメさんが聞いてくれて、そして、この詞を歌い上げる者がいる。


ケイカがたどり着ける人物は、たった一人しかいなかった。



「すみません!」


 ケアセンターの受付窓口から体を半分乗り出すようにして、ケイカは職員を探した。こういう時に限って、人は見つからないものだ。


 あたりを見回して、食堂から直接出入りができる中庭の辺りに、人影を見つけた。ケイカは小走りになってそこに行き、外に通じる重いガラスの扉を押す。


「ごめんなさい、聞いていいですか?」


「はい、どうぞ」花壇の側で車椅子を支えていた女性スタッフが気づいて、顔を上げた。


「今日、トウマ来ていましたか?」


「そういえば、ここ数日見ないわね。だいたい週末には必ず姿を見せるのに……」


 必要とする時に限ってあらわれないなんて、気まぐれなトウマらしいと、ケイカは思った。


「トウマはいつもどこから来るんですか?」質問してすぐに自分で答えていた。「あ、そういえば言ってたっけ。病院?」


「そうね、あの子の病院はホームのすぐ近くよ。行ってみる?」


 ケイカはうなずいた。早くこの曲を聞きたかったし、何よりトウマにこの楽譜の存在を知らせたかった。



 そのスタッフは親切に、メモに地図まで書いてくれた。


 ケイカはその紙片と楽譜の入ったアジャスターケースを持って、さっそく病院を目指した。


 聞いたとおり病院へは五分ほどで、迷うことなくたどり着いた。


 その病院の外観に何となく見覚えがあった。もしかしたらケイカが小さい頃、病気をした時に連れてこられたかもしれない。だが思い出せるのはそこまでで、記憶は曖昧だった。


 確か精神に関する病と言っていた。受付の前の案内板の前に立ち、上から順にそれらしい名前を探してみるが、一向に見つからなかった。


 ケイカが困っていると、紺色の制服の警備員がやってきて事情を聞いてくれた。


 警備員は少女の目的地を聞くと、すぐに隣の柱に貼ってある「別棟」と書かれたピンクの板の方に歩いていき、そこにある文字を指さした。


 『ストレスケアセンター(SCC)~心と体のクリニック』


 ケイカは本棟を出て、病院の外側から裏手に回り込むように歩いて、別棟を目指して歩いた。


 途中大きな庭にぶつかった。そこにはたくさんの綺麗な花が植えてあった。庭の植栽が切れるぐらいの所に「SCC入り口」と描かれたカラフルな手書きの看板があった。


 ケイカは別棟の建物を見つけ、自動ドアをくぐると、さっそく受付に行ってトウマへの面会を申し出た。


「ええと、何トウマさんでしょうか?」


 当然だけれど、そう言われた。馬鹿みたいに受付用紙の氏名欄に、名前だけを書いたからだ。ケイカはひるんだ。勢いでここに来たので、何も作戦を考えていなかった。


「あの、学校で友だちになってまだ日が浅くて……名前しか分からないんです」制服姿をアピールして、なんとか誤魔化せないかと演技してみる。相手が女性なので色仕掛け的な物は通じないとわかっていた。


「ああ、近くの学校の同級生さんね」


 心配した割には、すんなりと面会を許された。着替えずにそのまま来て良かったと、ケイカはほっとした。


 進もうとしたケイカを、先程の受付の女性が引き止めた。


「こっちよ、ケアセンター入り口はそこ。入館用のカードを渡したでしょう。それで解錠して」


 ケイカが振り返ると、そこにはオートロックで施錠された自動ドアがあった。ケイカがカードをかざすと、電子音と共に扉が両側に開いた。


「正面がナースステーションだから、そこで患者さんの名前を言って」


 歩いていくうちに、ケイカは空気が一変したのを感じ取った。三恵園のように壁は白くて明るいし、清潔だ。設備も新しい。けれど何かが異なった。


 ナースステーションまで行くまでに、いくつかの病室が並んでいた。そのひとつのスライドドアの前を通り過ぎ時に、ガタンと音がした。椅子が倒れたような音と、人のうめく声がした。


 ドアが急に開き、その隙間からばっと手が伸びてきて空をつかんだ。そこに何もないことを知ったのか、手はゆっくりと部屋の中に戻っていく、そしてまた声。


 ケイカの心音が早まった。何かがまずいと思った。生まれてからこれまでに来たことがない場所だぞと、心が警告していた。


 歩いていくうちに、すれ違う患者を見る度に、彼女はだんだんと悟ってきた。私は何かを勘違いしていたかもしれない。ただ友だちの部屋に遊びに行くような気分で、ここに来てしまった。


 ナースセンターで受付をする間も、ケイカは背を向けて、なるべく周りを見ないように、私は無関係であるように振る舞った。けれど、テレビの置いてある共用のダイニングルームの方から、急にドンドンと机を叩く音がし、ケイカはびっくりしてボールペンを落としてしまった。そろそろと足元に手を伸ばして拾い上げ、ブレザーのポケットにしまい込んだ。怖いもの見たさもあったけれど、ケイカは我慢して、背後を見ないようにした。


「トウマさんは……いつもは二十三号室ですけれど、いまはそこの別室ですね。こちらです」


 看護師に案内されたのは、ナースステーションのすぐ隣。三つ並んでいる、分厚い扉の付いた物々しい個室のうちのひとつだった。看護師がドアの前に立ってノックする。「面会の方がいらっしゃってます」


 返事は無かった。看護師は慣れた手付きでドアのロックを外側から・・・・外して扉を開いた。「終わったら中のブザーで呼んでくださいね」


 部屋に通されたケイカの背後で重いドアが閉じられ、外からガチャリと鍵のかかるくぐもった音がした。


 ケイカはおずおずと一歩すすみ、その個室を眺めた。


 その部屋は壁から床まで、全面が白に近いクリーム色に覆われていた。外とのつながりは、いま入ってきた扉と窓がひとつだけ。窓にはサッシとそれ以外に、鉄の棒が縦に何本も並んでいた。


 個室にはたいした物は置かれていなかった。備え付けのベッドと机ぐらい。液晶テレビはあったが電源は切られていて、画面は真っ黒だった。


 壁にはトウマのらしきジャケットと、いつもの大きなニットキャップがフックにかけられていた。


 ベッドの上に毛布に覆われた山があって、静かに上下に動いていた。中に誰かがいるようだった。


「トウマ?」ケイカは怖かったけれど、この場所での沈黙が続く方がもっと嫌だったので、勇気をふり絞って、その小山に話しかけた。


 山が動いた。高さを増して、こちらを振り向いたようになった。毛布がフードのような三角形になっている。おそらくその部分が頭なのだろう。折り目で影になっている部分が少し開いて、そこから聞き慣れた声がした。「ケイカ?」


 ケイカはほっとして胸をなでおろした。ここにきてようやく、知っている人物の声を聞くことができた。


「うん、私……」


「どうしてここへ?」


「ちょっと見せたいものがあって、来ちゃったの。最近、園に姿を見せてないって聞いたから」


「そうか、まいった……僕が弱ってるこんな姿、見せたくなかったんだけれどな」


 ケイカはふとその言葉の意味を考えてみた。ここに入ってから見てきた景色がフラッシュバックする。プライドの高いトウマのことだ。この棟にいること自体、知られたくなかったに違いない。


「ご、ごめん。でも見るつもり無かったのは、本当だから」


「ケイカらしい……けれどもう見ない・・・わけにはいかないね」


 ケイカは黙ってしまった。トウマの声には元気がない。傷ついているのかも知れないと思い、ケイカは少し話題を変えようとした。


「す、素敵な部屋ね。花でも持ってくれば良かったかな。そういえばここに来る途中に庭があって……」


「独房さ」トウマの一言が、ケイカの世間話を切って捨てた。「この部屋だよ。『ガッチャン部屋』っていうんだ」


「え?」


「はは!」被っている布団が笑い、大きく揺れた。「ケイカは知らないでこの棟に来たのかい? ここは閉鎖病棟なんだぜ。悪いことをした者が閉じ込められて、外から鍵をかけられる。扉を閉められたら最後、僕らはもう外には出られない。だからそんな名前が付いてるんだ」


「そんな……どうしてトウマがここにいるの?」


「言っただろう。僕はひどい精神病患者なんだ。それに加えて最近、悪事を働いたのさ」


「真面目に聞いてるんだよ……ねえ、教えて!」ケイカは通じない話に苛立って、声を荒げた。


 しばしの沈黙があった後、ため息と共にしぶしぶという感じの返事が聞こえてきた。「歌ったんだよ。週末にちょっと、とある場所でね。そうしたら、運悪く警官と鉢合わせになって、捕まった。すぐに病院に連絡されて、この通りさ」


「どうして? もう今週は歌わないって言ってたじゃない。私、何も聞いてないよ?」


「何も言ってないからね。それに理由は何となくだよ」


「な、何となく? そんな適当な理由で、私に黙って――」


「イテテ……ちょっと待ってよ。あいつらに殴られて、歯の根がガクガクしてるんだから、そんなに喋らせないでくれる?」


 殴られたという言葉に、ケイカはビクッとなった。「怪我してるの!?」


「口の中を切っただけさ、大騒ぎしなくていいよ。それにこの部屋だって、ずっと居るわけじゃない。明日には釈放されてシャバに出られるんだ。十分に反省したからね」


「もう」どこまでも茶化してくるトウマに、ケイカは呆れ気味だった。


「それで? どうして僕の所に来たんだい」


「……あなたのせいで大事な用を忘れる所だった。ねえ、見て!」


 ケイカは肩にかけていたケースから楽譜を取り出し、ベッドの上のトウマに見えるように広げてみせた。


 滅多に見ることのない、大昔の譜面。それはトウマにとっても予想外のものだったに違いない。眼の前に置かれた一束の紙が、彼のへらず口をピタリと止めてしまった。


 いつも飄々としたトウマが、私の持ってきた物に、興味を惹かれている――ケイカはなぜか、それが無性に嬉しかった。


 毛布の下の頭が小刻みに動いている。想像するにトウマの目が譜の流れを追っているのだろう。


 ひと通り見終えたのか、トウマの動きがピタリと止まった。彼は再びぐっと、深く毛布を体に巻き付けた。


「それで、これが何だっていうんだい」


「それ、ウメさんが色楽だった頃、天子様に聞かせていた曲なの。私が見つけたのよ!」ケイカは誇らしげだ。「園ではいつも笑ってもらえないけど、彼女きっと私の曲もあなたの歌も、聞いてくれてると思うんだ。ただ本当に望んでるのは、あの人がいちばん素敵だった頃に、弾いていた曲なんじゃないかなって、そう思いついたの。まあ、私のあてずっぽうなんだけれどね……でも絶対気に入ってくれると思うんだ!」


 トウマは黙っていた。ケイカはそれを納得してくれているものだと受け取って、言葉を続けた。


「私、それを見つけてね、びっくりしちゃった! だって曲の中に歌詞だよ? それも献上曲にこんな素敵な言葉が添えられてるなんて、今じゃ考えられないよね」ケイカはその歌が贈られている場面を想像して、うっとりとした心地になった。


「曲を見つけたことも言いたかったんだけど、トウマに伝えたかったのは、その事なんだ。天子様も歌を聞いていた時代があった訳でしょう? だからトウマが皆に聞かせている歌、ぜんぜん余分だなんて思うことはないよって」


 喋りすぎたかなと思い、ケイカはいちど言葉を止めた。


「なんかうるさく聞こえたらごめんね。でも元気を出して欲しいから。それでもし気持ちが落ちついたら、この曲を歌って欲しいの。ウメさんの誕生会の時に、私の演奏で……」


「……いつまで喋っているつもりなんだい?」


「え?」その声の冷たさに驚いて、ケイカは身を固くした。


「うるさいって、言ったつもりなんだけど、伝わらないみたいだから教えてあげる。ケイカはどういう理屈で、僕がその婆さんの為に歌うと思ったんだい?」


「だ、だってトウマはいつも、おばあさんたちにそうしてあげてるから……」


「言っただろう。あのホームに行くのはメリットがあるからだって。婆さんたちからアドバイスをもらえなきゃ、あんな所に行く必要はないのさ。特にウメさんなんて目もロクに見えない婆さまの前にはね」


「ひどい……そんな言い方って」トウマの言葉に潜む、いつも以上の棘の鋭さに、ケイカはたじろいだ。


「この声は僕の為にあるんだ。僕は歌いたい時に歌う。誕生会の時なんかじゃなしにね。お願いされたって、安売りする気はないね」


 今までも機嫌が悪いことはあったが、今日のトウマはそれが特にひどい気がした。「その……捕まった事を気にしているの? 殴られたから?」ケイカはどの言葉が気に障るか分からず、おずおずと訊ねた。


 トウマから答えはなかった。


 ケイカはなんとかしてトウマを説得したかった。一番はおばあさんの為だったが、心の中では今は失われてしまったこの曲を、世に再現してみたい気持ちが占める割合が大きくなっていた。その為には彼の声がどうしても必要だった。


「わかったわ。メリット・・・・があればいいのね」ケイカは決心して言った。「もしトウマが歌ってくれたら、私なんでも言うことを聞くわ。どんな曲でも演奏するし、校庭の真ん中で歌ってもいい」


 その申し出は愉快な程、トウマの意表をついた。


「はは! 面白いね!」トウマがばっとベッドから降りた。毛布はまだ頭についてきて、砂漠の国の民族衣装のように、髪と顔の半分を隠したままだった。その布の下でトウマの目がぎらっと光った。


「君はなんてお人好しなんだ! いつか身を滅ぼすに違いない。言っただろう、僕は頭がおかしい異常者なんだよ? ここに閉じ込められている理由がわかっていないみたいだね」


 トウマがケイカに向かって一気に歩を詰めてきた。一瞬にしてケイカは壁際に追い詰められた。


 ケイカは慌てて両手を、トウマと自分の体の間に差し入れようとしたが、間に合わなかった。


 トウマは全身を使ってケイカの体を壁に押し付け、動けなくした。トウマの右足がケイカの両腿の間に入り込み、スカートの生地を押し上げた。


 あり得ないぐらいそばに、トウマの目が、鼻が、唇が近づいていた。相手の体温が薄い布を伝って直接、ケイカの体を温めてくる。人生の中でも最高潮にケイカの心臓が高鳴った。


「や、やめて……お願い……」体が震えてきちんとした声がでない。ケイカは顔が火照るのを隠せなかった。


「君の『なんでも』に、これは入っていないのかい?」トウマはわざとケイカのピンクの頬に、自分の鼻先を擦らせた。ケイカの嫌がる反応を楽しんでから、さらに言い添える。「ここで叫んでも、音は外に漏れないよ」


 ケイカは必死に目を閉じ、震え、耐えていた。そんな少女を残酷な表情で見つめていたトウマだったが、一気に熱が冷めたように真顔になった。トウマはすっと体を引いた。


 足に力が入らず、ケイカは壁に体を預けながら、ずるずるとその場にへたり込んだ。


「出来ない約束を言わないほうがいい。自分の為だ」トウマは言い捨てて、再び自分のベッドに戻って座り込んだ。


 ケイカの心臓の鼓動はまだ収まらなかった。荒い息をついて、ゴクリと唾を飲む。感情がめちゃくちゃで、視界がパニックを示す激しい赤色に覆われていた。瞼をぎゅっと閉じると、ケイカの瞳から涙が流れた。それは恐怖や悲しみではなく、悔しさが生み出した憤りの涙だった。


「歌いたくないなら、最初から歌わなきゃいいじゃない!」ケイカの中で、何かが切れる音がした。「それなのに、もったいぶった言い方して……そんなにあなたの歌に価値があるのなら、録音でもして、ひとりで聞いていればいいんだわ!」


「僕は然るべき所で歌いたいだけさ……」


「そんな所がどこにあるの? 自分の価値を認めて欲しいくせに、求められると逃げて閉じこもってしまうのね」


「そんなことはない!」トウマが荒々しく反論した。「僕には歌う理由がある。君にはわからないだろうけれど」


「わからないよ! 聞かせて! 説明して納得させてよ!」


「じゃあ教えてやるさ!」


 トウマが立ち上がった。


 頭を覆っていた毛布が、トウマの胸のあたりまで落ちた。さっと黒いものが広がった。


「え……」ケイカは息を飲んだ。そこに立っている人物は、ケイカの知るトウマではなかった。


 黒、というには薄く灰色がかったまっすぐな頭髪が、肩を超えて鎖骨のあたりまで、垂れ下がっていた。あまり切られていないせいなのか、髪の量はかなり多く、耳は先端だけが見え、残りは隠れていた。


 いま目の前でケイカに向いた顔は、血の色がまったく感じられず、蒼白だった。眠りを得られていない目の下に、暗い影がある。口元に殴られたアザの青色が見えた。


「本当に、トウマなの?」ケイカは必死になって相手の顔を見つめた。倦み疲れているようだが、ふたつの目にある光は、今は怒りのおかげで失われていない。最初に彼を見た時のように、強い意志が感じられた。ケイカは瞳の奥に何とか、トウマの片鱗を見つけることができた。


 けれど――トウマの体にまとわりついていた毛布は、完全に取り去られていた。ケイカはその姿から目が離せなかった。いまトウマは上着を羽織っていない。半袖シャツ一枚の姿で寝転がっていたからだ。肩から真っ白な腕が伸びていた。そしてケイカの眼の前にあらわになっているのは、トウマの体の正面にあるふっくらとした胸の膨らみ――


「うそ……あなた女の子、なの?」驚きながらも、ケイカの頭の中でいろいろな点が繋がっていった。「も、もしかして、あなたは色が見えるんじゃ! きっとそうだわ。だから歌いながらあんな純色を! あなた、やっぱり色楽だったのね」


「ふふ、君らしい貧素な想像力だな!」トウマは吐き捨てるように叫んだ。「残念ながら僕はもう色楽じゃあない。落伍者さ。君と同じ学校出身のね。君の大好きな『課題』に失敗したんだ。そうして身も心も壊れてしまって、気づいたら僕の眼は色を失っていた。それに器も持てなくなっていたんだよ」


 持ち上げたトウマの手は安定せず、神経質に震えていた。と同時にケイカは気づいた。透けるような真っ白い手首の辺りに、うっすらとした何層もの、ためらい傷の跡が見えた。


「でもね、ケイカ。生まれてからずっと、音と色に囲まれて暮らしてきた者が、それを奪われたらどうなると思う?」トウマは震える肩を両手で押さえこんだ。「たまらなくなるんだ。息をしているのに空気が足らなくなる。見えているのに暗闇のような世界が広がってる。毎日が悪夢そのものだ。とても耐えられないんだ!」


 トウマの足が力を失い、彼はベッドに座り込んだ。「だから僕は歌うんだ。自分に残された唯一の器。この体がその音に震えている時だけ、僕は体の震えを止める事ができる。でもね、僕の弱った体は長いあいだ歌うことを許してくれない。そしてまた次の出番まで、僕の周りには暗い世界が待っているのさ。人生はその繰り返し。

 これが、君には見えない世界。色も音も完璧で、人生がキラキラと輝いている者にはわかりようもない! 僕は歌だけを頼りに生きてるんだ。わかるだろう? だからまっとうな・・・・・君から、僕の歌をそんな軽々しく誰かの為に使えだなんて、言って欲しくないのさ」


 ケイカは返す言葉が見つからなかった。言い返した時の怒りの炎は、いまや静かなくすぶりも残らず、消え失せてしまった。そこには虚しさを象徴するような、焦げ臭い匂いだけが漂っている気がした。


「もう帰ってくれないか……少し疲れてしまった。お帰りはその壁のブザーを押したらいい」トウマは毛布を持ち上げると、再びベッドに倒れ込んで動かなくなった。


 ケイカは何も言えず、のろのろと立ち上がった。黙ったまま荷物を持ち、ちらかった楽譜を再びケースに収める。その間も、ベッドの上の小山はピクリとも動かない。


 看護師を呼び出す内線の通話ボタンを押し、扉が開けられるのを待つ。扉がガチャリと音を立てた時、ケイカはうつ向いていて、すぐには動かなかった。


 くるりと振り向いて、聞いているかわからない部屋の主に向かって呼びかけた。


「あの曲は私が歌うわ……もうトウマに頼む事、しないから。私、あなたの事も、自分が周りにどう思われてるかも、本当によく知らないで生きてきたみたい……好き勝手言って、ごめんなさい」


 自分を見ていないのは承知の上で、ケイカは頭を下げた。


「でもね、わたしトウマの歌が聞きたかった。それだけは信じて」


 その言葉だけを置いて、ケイカは病室を後にした。

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