第6話 ほころび



「ウメさん、少し具合が悪いみたいで、自分の部屋でお休みされているわ」


 老人ホームのケアセンターの執務室にいる園長が、ケイカにそう答えた。今日ダイニングルームで演奏をした時、ウメさんの姿を見かけなかったので、心配になったケイカが聞きにきていた。


「心配よねえ。来週、お誕生日会があるんだけれど、それまでには良くなって欲しいわ」


「ウメさんって、おいくつなんですか?」


「今年で八十五よ。彼女がこのホームでは最年長ね」そう言って園長はお茶すすった。


「ケイカさんに演奏してもらうようになってから、ホームの皆さんが明るくなった気がするわ。体調を崩す方も少なくなった気がするの。本当よ」最後の言葉は、照れるケイカをみて付け加えた。「ただウメさんはおひとりだけ、認知のこともあって音楽を聞かせても、おわかりにならないみたいだから……他に元気をあげる方法があればと思うんだけれど」


「ウメさんは、ボケちゃいねえよ!」センターの受付窓口の方から、威勢のいい声がした。最初、園長とケイカには声だけで姿が見えなかった。歩いていって窓口から下を覗いてみると、車椅子に乗った紫の髪のおばあさんを発見した。


「あたしゃーね、ウメさんの事をずぅーっと見てきたからわかる。あの人はねぇ、絶対ボケちゃいねえ。ただただ、寂しいだけなんだよ」


「寂しい?」ケイカはおばあさんの視線と水平になるまで腰を落とし、聞き直した。


「あの人が聞いてた曲っつーのはね、今のとはだーいぶ違ってたのさ。だから新しいのをいくら聞いたって、ウメさんの心は踊んねぇのさ。いくらあんたがどれだけ上手に弾いたって、そりゃ無理ってもんさ」


「聞いていた曲……って、ウメさんの時代の、古い曲ってこと?」ケイカは考えた。そして不意にひらめいた。「あ……おばあちゃん! それってもしかして、ウメさんが現役の頃、天子様に聞かせていた頃の曲ですか?」


「んーそうさ。ウメさんはその頃から何でも一番上手で、皆の憧れだったのさ!」


「園長さん! それだったら学校の地下の倉庫に、楽譜があるかもしれない! 天子様にお聞かせした曲、代々のもの全部、写しが保管してあるって聞いたことがあるの!」


「あら、本当?」


「はい! ねぇ、おばあさん。ウメさんの好きだった曲の名前、何か覚えていますか?」


「はぁーあたしも忘れっぽくってねぇ、あんまり覚えてねえけどなぁ……」老婆は長い間首を傾げていたが、ついに思い出したようだ。「そうそう。『春』ってのが曲名に入ってたような気がするなぁ」


「わかりました!」ケイカは文字どおり飛び上がって喜んだ。


 ずっと気になっていたけれどつかめなかった、雲のような存在の尻尾に指が触れた気がして、ケイカは興奮を抑えられなかった。すぐにでも動きたい衝動を抑えられない。


「ありがとう、おばあちゃん!」ケイカはその言葉を言い終わる前に、学校に向かって走り出していた。




 ケイカが放課後の教室にたどり着くと、そこには意外な人物が待っていた。


「……あれ、何で?」


 サンジャオだった。自分の席に座り、鞄の上に二重に折ったタオルを敷いて突っ伏していた。人の気配を感じたのだろう。小山がもそもそと動いてこちらを見た。


「……あ、ケーカだ」サンジャオは眠たそうな目をしていたが、ケイカを見つけるとにっこりと笑った。「良かった。なんかね、ここにいたらケイカに会えるかなって思ってさ」


「ふうん、あー! あんたまたずっと寝てたでしょう? 目が赤いよ」ケイカが突っ込んだ。


「……へへ、まあね」サンジャオは目をこすった。ついでに鼻水をすする。


「まったく……こんなとこで寝てると風邪ひくよ? あ、私これから地下室に行くんだけれど、ジャオも来る?」


「地下室? 何しに行くの?」


「ちょっと捜し物。ねえ、暗いの怖いから、ついて来て」



 ケイカとサンジャオは一階に降りると職員室に寄り、鍵を受け取ってから、地下室のある西校舎の奥へと向かった。


 理由を根掘り葉掘り聞かれかねないので、楽師が不在なのは幸運だった。


 鍵と借り物の懐中電灯を腕にぶら下げながら、ケイカが先頭を歩く。廊下のタイルの表面が差し込む西陽を反射し、影の灰色とオレンジの荒いストライプ模様になっていた。


「すごく久しぶりに話しするね、ケーカ」


「そーかな? えーと……あーそうかも! 最近はもう何だか、色々ありすぎたからな……」


 ケイカがあれこれ思い出している最中さなか、後ろからついてくるサンジャオは、寂しそうに目を伏せていた。


「……課題の方、どう?」


「あーそれね。全然ダメ。もちろん器は触っているけど、色が決まらなくて……もう放り出しちゃおうかって、思ってたとこ」


 冗談ぽく言ったが、半分事実だった。ケイカはいまもこうして関係ない用事の為に、奔走しているのだから。


「私よりジャオはどうなの? この前大丈夫そうなこと、言ってたじゃない。意外とあんた器用だからね。私なんかよりもちゃんと、やってそうかも」ケイカは軽く言った。


「そんな事ないよ!」前触れなしに、サンジャオが大きな声をあげた。


 ケイカは驚いて振り返った。その拍子に鍵束が大きく揺れて指から外れ落ち、床を滑っていった。


「器用じゃないし……」


 ケイカが見たサンジャオはちょうど、天井まで届く大きな窓の横に立っていて、夕暮れの陽光に包まれていた。


「ジャオ?」ケイカは目を細めた。もしかして震えている? 強い光にさらされている上、うつ向いているので顔がよく見えない。あの元気なジャオに限って心配はないと思うが、先程の声の調子が気になった。


 サンジャオが一歩前に進み出ると、体を包んでいた光が消えた。ぱっと顔を上げる。「それが失敗続きでさ。ケーカが助けてくれないからじゃん。困ってたんだぞ!」


 ケイカがあらためて見た友人の表情には、暗さのかけらもなかった。ケラケラと笑う所など、無邪気な子供のようだ。


「そうだよね、やっぱり」ケイカはふっと肩の力を抜き、落ちた鍵を拾った。



 滅多に人が来ず、締め切られていた地下室の中に入ると、ケイカはどこかカビ臭さを感じた。


 これだけのたくさんの棚があり、それぞれに貴重な紙資料が保管されているのだから、相応の除湿設備は動いているはずだった。


 ケイカには機械のことなど知るよしもない。ただ目の前の暗さだったり、空気がずっと動いていない独特の雰囲気を感じていると、頭が変な臭いを作り出してしまう。


「もう一度言うからね。おばあさんが現役の色楽だったのが三十歳ぐらいまでだから、五十年以上前の楽譜で、天子様に献上された歌。その題名に春が入っているものだよ。まずは楽譜の棚から探そう」


 ケイカは自分にも言い聞かせるつもりで、しつこく二度目の説明をサンジャオにした。


 蛍光灯のスイッチを探し出して点けると、二人は保管室を奥へと進み始めた。


 実をいうと、ケイカは一度ここへきた事があるので、楽譜棚の場所までは順調にたどり着いた。


 さらにその付近から、一段と立派な木製の棚の一群を探し当てた。横板に天子の紋が掘られている。目指す譜面が置いてあるとしたら、ここに間違いなかった。


「じゃあここからは、手分けして探そう。ジャオはあっち、私はこっち」


 何か目印があるわけではないので、楽譜に押されていた印の日付を頼りに、その前後を探していくしか良い方法はなかった。


 そもそも曲名が正しいかどうかすら分からないのだ。見たことのない漢字や古めかしい筆の書体を見ていると、少女たちの気はますます遠くなった。


 さらに地下室にいて、明るさが変わらないせいか、時間の概念がわからなくなってきた。


 終わりの見えない作業を与えられ、まだ幼い子供たちにどれだけの熱意が保てるのか。


「ふぅ……手が痛い……目も埃のせいか、おかしくて。ごめん、ケイカ。ちょっと……」サンジャオが先に、ギブアップの宣言をした。


「いいよ、休んでて。そっちの分もあとで私が見るから」


 ケイカの方の熱意はまだ消えていなかった。地面に這うように座り、下の方の棚を懸命に引っ張っていた。


「ジャオ。見て、この古い楽譜たち。わたし、感違いしてたけど、こんな時代だもん。コピーなんて出来ないよね。全部手書きで写してある。しかもこの色譜……」ケイカは紙を持ち上げ、一番上の紙を蛍光灯の明かりに透かしてみた。「昔は透明の紙なんて無かったんだわ。ものすごい薄く刷った半紙を重ねて使ってるの。これを楽譜に重ねて、半透明の色譜として使ってたんだ。昔の人って、本当にすごい……」


 目を輝かせ、ケイカは楽譜に虜になっている。


 床に座って楽譜棚によりかかりながら、サンジャオは遠い目でそんな友人を見つめていた。「ケーカってすごいよね。いちど決めたら夢中になって突き進むんだもん。それで気づいたら何でも一番になっちゃう。それでも周りには自分の事を自慢したり、絶対にしないもんね」


 ケイカは次の楽譜を調べていて、何かに気づいたようだった。目が黒い文字と記号を懸命に追っていた。それで、サンジャオの言葉がきちんと耳に入っていなかった。「んー、サンジャオ。何か言った?」


 サンジャオは構わず語り続けた。「生まれて持った力のおかげって言う人がいるけど、私はそうは思わない。だってケーカ、すごい頑張っているし、ケイカのこと一番見てるの、私だもん」話しながら、サンジャオの目が少し潤んできた。「わたし、あなたの事、本当に尊敬してる。尊敬して、尊敬しすぎて……」


「ちょっと、これを見て!」サンジャオの言葉を遮って、ケイカが一枚の楽譜を引っ張ってきた。紙の全体がよく見えるよう、それを二人の間の床に広げる。


 ケイカはますます興奮してきて、サンジャオの目つきがうつろになっていたのも眼中になく、勝手に喋り始めていた。「楽譜を書いた年が、ちょうどそれくらいなの。ここ……少しかすれているけれど、読めるわ」


「ケーカ、聞いてもいい?」サンジャオにも、ケイカの言葉が届いていないようだった。少女はかすれた声で続ける。「私の課題がうまくいかない理由。それって私の心の中にある、もやもやのせいかも知れない。それがずっと引っかかっちゃって、取れないみたい……だから教えてほしいの」


「ん、なあに?」


「あの、私この前……見たの。駅の近くの路にいた女の子」


「え、そう?」ケイカの返事はうわの空だった。


「それでね……その子、路上でものすごい上手に曲を弾いていた。髪の毛が金髪だけど制服じゃなかったし、まさかと思ったんだ。けど私ね、確かにその曲から色が見えたの。私も色楽だし、色については見間違えない自信があるわ。だから聞くね……」


「……あ!」


「ケーカ、そこで曲を弾いていたでしょう? 一緒に……」


「……んーと……」


「一緒に……私の知らない、男の子と……」


「……あ、あれ?」ケイカがぱっと楽譜から顔を上げた。「なんだ! サンジャオ見てたの? うわぁ、やっぱ誰かに見られてたんだ……最悪だよね」


「ケーカ、あれは誰?」


「いや、何でもない何でもない! あんなの、ただの偶然の出会いだってば! ただの契約者パートナーだよ」


 サンジャオの体が大きく震えた。「パートナー……それって、もしかしてケーカその人のこと……す……」


「あ!!」ケイカがいままでで一番大きな声を上げた。「あった!」


 地面から猫のように跳ね上がり、ケイカは叫んだ。「やった! 見つけた! 題名は『春のうた』! これがウメさんの曲に違いないわ!」


 ケイカは喜びのあまり、同年代の男子がするように拳を上に振り上げて、はしたないポーズを取った。それでも収まらず、興奮に体を縮めて足を踏み鳴らす。


「やった! これで曲を再現できる!」そうしてようやく、一緒に来ていた親友への感謝を忘れていた件を思い出した。「ありがとう、サン……」


 ケイカは驚いて言葉を止めた。そっと慎重に動くと、うつむいたままのサンジャオに近づいて、震える拳に手を伸ばし、両手で包み込んだ。「へ、平気? 放っておいてごめん……あの……ジャオ、泣いてる? どこか痛むの?」


 サンジャオはぼろぼろと頬に流れ落ちる涙を、小さい子供がするように両手でぬぐった。「……ううん、平気。ただゴミが入っただけだから」


 天井を見上げて息を吸い込むと、少女の顔は少し落ち着いて見えた。サンジャオはまだ涙のたまった赤い目を潤ませてケイカを見つめ、静かに言った。


「楽譜、見つかって良かったね、ケーカ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る