第5話 歌い手(2)
ケイカが聞き出した最初のひとつは、この若者の名前だった。彼は名をトウマといった。
「僕はあまり自分の事を語るのは得意じゃないんだ」
トウマはダイニングルームのテーブルに寄りかかって立っていた。矢継ぎ早に繰り出されるケイカの質問を笑顔でかわそうとする。少女はしつこく食い下がった。ここまで歩かされて、手ぶらで帰る気はさらさら無い。
それでも会話上手なトウマから苦労して聞き出せたのは、わずかな情報だった。もっとも尋ねるだけでも苦労したので、どこまでが本当かなんて、解りもしなかったが。
彼はまず「自分はこの近くにある総合病院の患者だ」と言った。精神を患っていて長い間そこに入院している。外出許可が出ている日だけ、この老人ホームに立ち寄るのだという。
園を訪れた最初のきっかけは思い出せない。散歩のついでだったかもしれない。トウマはボランティア気分で老人の話し相手になったり、彼の歌を聴かせていたのだけれど、やがて彼女たちが本当に望んでいるのが、音だけではなくそこから映し出される色だという事を知った。
「そういうのは色楽さんがやることでしょう? 僕はただの歌い手だからね。楽器の弾き語りも出来ないし、見えないキャンバスに色を塗ることも出来ない」トウマはどうしようも無いという風に、降参のポーズを取った。「そこにふらっと、あのじいさまが現れたのさ。近くにある色楽の卵たちがいる学校で、悩みを抱えている女の子がいるってね。その子は将来有望な
「ち、ちょっと。『あげて欲しい』って言い方はひどくない? 私はただ、おじいさんに来てくれって言われただけで」興奮してケイカの声が大きくなった。普段はこんな事で怒らないのだが、いちいち角の立つトウマの言い方――色楽者を一介の演奏家と言ってみたり――にケイカはやたら苛立っていた。最初はもっと優しい人だと思っていたのに。
「落ち着いてよ、色楽さん」誰も注目していないのだが、トウマはわざとらしく周囲を気にするように声を潜めて、少女をなだめにかかる。「さっきも言ったけれど、君はここに来てメリットがあっただろう? 演奏を聞いてもらって、
トウマがいきなり話題を変えてきた。
ケイカは会話の流れに乗り、つい課題の内容を説明しようとした。はっとして歯が鳴るぐらい思いっきり口を閉じて躊躇した。危なくのせられて喋る所だった。この色白の男の子の前で『恋を経験したことがない』だなんて、死んでも言える訳がない!
「ちぇ、まあいいや」ケイカが口を固く閉ざしてしまったので、トウマは失敗を悟った。「ともかく君の課題の事は、あそこにたくさんいる、婆さまの誰かに相談しなよ。それでこの話は終わり。でもね、まだ残っているものがあるんだよ」
「残っているもの?」ケイカは首をかしげた。
「僕に対する報酬だよ! はっ、あきれたね! 君と婆さまを仲介する役目だけをしたら、もう不要でポイって訳かい? 僕に対して何も礼をしていないって事ぐらい、気がついているだろう?」
「ちょっと待ってよ。どうして私があなたにお礼をするの? きっかけをくれた、おじいさんにならともかく。第一、私はここに来て初めてトウマに会ったのよ? あっ!」
つい相手を呼び捨ててしまってうろたえるケイカを見て、トウマがニヤニヤしている。この人、本当に性格悪いかも! ケイカは鼻に皺を寄せた。「もういいわ! トウマ、あなたが何かをしてくれる所なんて、見てないんだから!」
「これだよ……当人なのに気づかないんて! あのさ、色楽の人たちは年齢を問わず男性に免疫が無いってこと、君なら良く知っているだろう? じいさんとばあさん、二人のご老人の間に入って話を繋げたのは、この僕なんだ! なんたって僕は……いや、何でもない」
トウマが咳払いをしたのを、ケイカは不思議そうに見ていた。
「とにかく僕なしでは、婆さまたちは今でもずっとテレビに張り付いて、お茶を飲んでたはずなんだ。わかったかい?」
「もう、意味わっかんない! あなただって男性でしょう?」ケイカの詰問は溜息に近かった。
「僕は特別なんだ。何といってもこの『声』を持っているからね。あの人たちに認められているのさ」トウマは言いたいことを全て伝えたので、すっきりとした顔をしていた。
ケイカは全然すっきりしなかった。内容もよくわからないうえに、軽い口調や演技っぽい仕草が加わって、トウマの主張はまったく信用ならない。信用ならないはずのだが――
ケイカの心に引っかかり続けているのは、歌っていた時の若者についての記憶だった。ケイカがトウマをいまいち信じられない気持ちがここにあるように、あの歌と声もここにある確かな真実だった。
何だか疲れてきた。こうして言い合っている時間が、ケイカにとって無駄なような気がしてきた。それにケイカには反論する材料が尽きかけていた。「聞くだけ聞いてあげるけれど……あなたは私に何を望むの?」
待っていたように、トウマは満面の笑みを浮かべて言った。「簡単なことだよ。僕の為だけに曲を弾いてほしいのさ。然るべき時間に、然るべき場所で」
「……それって、さっきの曲のリクエストみたいな事をするわけ?」
トウマはうなずいた。ケイカはじっと若者を見た。彼にきっとあるはずの、何か本当の目的を探ろうとした。けれどいくら見ても、トウマの表情からは何も読み取れなかった。
「ねえ……さっき私に言ってたけれど、トウマにもあるんじゃない? あなたにとってのメリットって何?」
「わあ、さすが色使いに選ばれるだけあって、頭の回転が早いね!」
「はぐらかさないで!」ケイカはぴしゃりと言った。「無いとは言わせないわ」
「それはね」トウマの声はふざけていたが、顔は下を向いていた。始終いたずらっぽい表情が、一瞬だけ真面目になったのだが、ケイカからはそれが見えなかった。
「君という楽器が手に入るからさ」振り向いたトウマの顔は、意図的に悪人っぽく見せていた。「歌い手の本分は歌うこと……でも僕みたいな頭がいかれている奴の声を聞いてくれる人なんていないからね。でも君のような認められている者が曲を弾いてくれれば、皆ちゃんと立ち止まってくれるはずだ。君の名前を利用して、もっと僕の歌を広めるのさ」
「……あなたの歌を広めて、どうするの? そもそも、なぜ歌おうとするの?」
初めてトウマの顔からおどけるような表情が消えた。目に光がなくなり、唇が一直線に結ばれていた。
「……ふん、君には関係ないだろう?」トウマは急に不機嫌になった。「それに、どうするとか、なぜっていう時の君の顔、少し馬鹿っぽいよ」
トウマはそう言うと、不機嫌にそっぽを向いて、廊下を歩き去ってしまった。
「何よ! こっちは返事もしていないのに……」急に取り残され、ケイカはやり場のない気持ちを抱えこまされる羽目になった。
ケイカのいつもと違う放課後の時間は、こうして始まった。
学校での勉強や色楽のレッスンが終わった後、ケイカはこの不思議な老人たちの園へ通うようになった。
正直、最初は少し戸惑った。それは演奏がどうの、とかいう以前の問題で。
なんせ相手は親よりも年の離れた高齢者たちだ。ケイカみたいな若者とは生きるリズムが違っていた。挨拶はできても、その後にどう相手をしたら良いのか十三の少女に分からなくても当然だろう
けれど嫌ではなかった(そもそもケイカはおばあちゃんっ子だ)。園長やスタッフの皆はとても優しかったし、職員たちの老婆への接し方を真似ることで、だんだんと自然に集団の輪に入っていけるようになっていった。
そうやって慣れてしまえば、むしろこの時間はギスギスする雰囲気の漂う教室と違い、おだやかで過ごしやすく、ケイカには心の癒やしになった。
そして最も重要な、ケイカの演奏を聞いてもらえる件。
老婆たちは経験を積んだプロの色楽だった。と同時に、その溢れる知恵と知識を腐らせたまま、墓場に持っていくのが何よりも嫌いな人たちだった。
彼女たちは、ケイカが考えもしなかった角度から文句を言い、ケチをつけ、時には眉をひそめるぐらいの言葉を使って非難した。けれど最終的にはちゃんと、改善の為のヒントを残してくれていた。批評の時間は曲の演奏より長くかかったが、ケイカは真摯に耳を傾け、すべての言葉を記憶し、取りこぼさないようメモを残した。
それは後のケイカにとって、ひとりでは決して得られない貴重な財産になった。
(ケイカにとって何よりも嬉しかったのは、老婆たちは課題と関係ないどんな曲にも
曲を披露する時間が終わると、老人や職員たちとお茶を飲み、笑いあう。時間を忘れて過ごした後、おばあさんたちが自室に戻る時間になり、食堂からケイカ以外の人がいなくなる。
話し疲れた顎を休め、ふぅと息をして呼吸を整えていると、束の間の沈黙が訪れた。そんな時を狙って、ケイカの心にささやく声がある。
――お前は何をしているんだ?
自分の心の声だ。言われる内容はわかっている。ケイカは目を閉じてお茶を飲んだ。声は容赦なく続ける。
――クラスの皆は学校のあと、一目散に自宅へ帰り、何時間も専門的な練習をしているんだぞ。お前のしている事はなんだ? 演奏の技術は上がっても課題のテーマに関しては、からっきしじゃないか。言ってみればただ老人の相手をして、少しピアノを弾いているだけだろう?
ケイカは湯呑をテーブルに戻し、ブンブンと頭を振る。
「私にだって良くわからないよ。これが良いかなんて。ただ他にどうしようもないだけなの」
決まってそんな時には、もう一つのイメージが浮かぶ。
ウメさんの姿だ。ケイカはダイニングの端の空間を見つめた。いつもムスッとしているあの老婆が、車椅子に座り、そこにたたずんでいるような気がした。
いまだにウメさんはケイカの演奏に反応を見せてくれない。目に光はなくとも、耳に音は聞こえているはずなのだ。何かが悪い為に、ケイカのピアノはこの人の心に届いていなかった。
この老人ホームで時を過ごす間にケイカの心を騒がすのは、学年課題とウメさんという、どちらも先の見えない問題だった。
そしてケイカはいま、夕方の喧騒の中、駅前の商店街をひとつ曲がった細い路地に立っていた。
「ちょっと……まだ準備できない?」
ケイカは怪しい色の壁際の看板の裏に目立たないように潜んで、いらいらしながら遅い出番を待っていた。
文句はトウマにぶつけていた。彼の顔は深く被ったパーカー帽の隙間からしか見えない。細い路地の入り口から大通りへと頭を出し、キョロキョロと人の流れを探っていた。
「待って、もうすぐ。まだあそこに警官がいる」
「警官って!」ケイカはすくみあがった。「まるで犯罪じゃない! どうしてこんな事をしなきゃならないの?」
「これが楽しいんじゃないか」トウマの返事はうわの空だった。「おっと、こっちを見た」
トウマが顔を引っ込め、側道の壁にぴったりと頭と背中をつけた。ケイカも慌ててそれに習う。
ケイカの足が何か黒くて汚いものを踏みつけてしまい、少女はその感触に顔をしかめた。学校の靴じゃなくて良かったと心から思う。変な匂いまで感じた気がして、ケイカは付けていたマスクを引っ張り上げ、位置を直した。
「あいつらが通り過ぎたらすぐ始めよう。楽器を準備してくれるかい」
やっぱり質問の答えは得られなかった。ケイカはため息をついて、近くのダンボール箱に積んでおいたケースのジッパーを開いた。中からポータブルのキーボードを取り出す。
「楽譜は?」振り向いたトウマが確認する。
「いらないわ、覚えたから」
「もう? さっすが」トウマは機嫌よく、口笛を鳴らした。
ケイカは恨めしそうに相棒を見返した。この時点では彼のようにまだ気分がのってこなかった。それにしても、こんな事をさせられてからもう何回目だろうか。ケイカはキーボードの電源を入れながら思った。
あの変な約束を交わしてからというもの、トウマはケイカを何度もこの衝動的な行為に誘い出していた。
最初から、ものすごく嫌だった。やらないとはっきり断ったつもりなのに、トウマの強引な口調と理論――これが
初回の演奏は公園のベンチでの前で行われた。
観客はたまたま近くにいた主婦と、昼間からカップ酒を片手に飲んでいたおじさんだけだった。トウマが歌いだした途端、主婦の目の色が変わった。彼女は子供を連れて早々に退散していった。浮浪者は子守唄代わりに一曲目の途中まで付き合ってくれたが、すぐに船を漕いで夢の住人となった。
歌い終わるぐらいで、遠くから制服を着た警官らしき大人がやってくるのが見えたので、二人は慌てて公園の外に退散した。とにかく最悪な始まりだったけど、トウマは「最高!」と言って笑っていた。
その後も今日に至るまで、トウマが指定する時間に様々な場所で演奏を試みたが、歌は二曲目まで続いたことはなかった。拍手なんてもってのほかで、退場はいつも駆け足だった。
これがトウマのしたい事なのだろうか。契約という名の約束のもと、ただ強引に付き合わされているだけのケイカには、このライブの意味はよく分からなかった。
ただ変に場数だけを踏んだせいか、出待ちをする間に雑談をする余裕だけは生まれてきていた。
「ねえ、トウマ」ケイカは聞いた。「ウメさんって、音が聞こえるだけで、見えないんだよね?」
「なんだい、こんな時に。そうだって聞いてるけど」
「やっぱり色も見えないのかな」
「言ってる意味がわからない。当然だろ」
「あのね、私なんかは曲を弾く時に、音はあたり前のようにあって、色も見えるわけじゃない? 色のない世界ってどうなんだろうね……」
「わからない。まあ、別にどうってことないだろう? 耳が遠くても音は聞こえるんだから」
「そうかな……ウメさんはもともと色楽なんだよ? ずっと見えていた景色が見えなくなるのって、怖くない?」
「……色楽でもない僕に聞いてどうするのさ」
「本当は寂しいんじゃないかって、わたし思っているんだ。だからどうしてもウメさんに笑顔になってもらいたくって」
「ふうん」トウマは心底、興味無さそうに返事をした。
「ウメさんって何歳かな。あの人の生まれた頃って確か……」
「つまらないお喋りはそこまでだ」トウマが横柄に遮った。「やっかいなヤツラがいなくなった。さあ、出るよ」
トウマに袖をつかまれ、ケイカはまだ口も閉じないうちに、商店街の真ん中に引っ張り出された。
時間帯がちょうどはまったのか、通りには結構な人数が歩いていた。サラリーマン、主婦、家族連れ、老人など、確認できるだけでも様々な人種がいた。
「ちょうどいい頃だ、ケイカ!」
「ちょっと、な、名前を呼ばないでよ!」マスクの下でケイカの顔が赤くなった。こんな事をしているなんて、学校どころか色楽の仲間にだってバレたくない。
ケイカは折り畳みの簡易スタンドを広げ、両手で抱えたキーボードをその上に載せて固定した。
こんなこと相当、注目されるよね……ケイカは意識しなくてもそう考えてしまう。
準備をしている最中にも、何人かの歩行者の足が遅くなる。ケイカの背中越しに、女子高生らしき二人組がひそひそ話を始めるのが聞こえてきた。
準備が終わり、トウマの方を振り返る。少年は誰かを待っている通行人という感じで電柱に背をもたげ、雑踏に溶け込んでいた。ケイカばかり目立って損している気分になる。
それでもケイカは覚悟を決めた。腹式の呼吸を二度、三度繰り返し、足で軽くきっかけのリズムを刻む。指が形を作り、ケイカは最初の曲を演奏し始めた。
屋外で弾いてきた曲はすべてトウマが作ったもので、今回もそうだった。最初の曲は観客の気を惹くきっかけになるように、早く複雑な出だしでスタートした。ケイカのしなやかな指の動きが、踊るような音を形作る。軽快なメロディが最大ボリュームに設定したスピーカーから通りに沿って鳴り響いた。
トウマには作曲に関する才能がある。ケイカは曲を弾きながら、あらためてそう思わされた。それは最初に譜面を見た時から思った、素直な感想だった。トウマがますます高飛車になりそうなので言わないが――ケイカは彼の曲が好きだった。どこかの批評家が喜ぶような組み立て方ではない。ただ厳しい練習の小休止に、自分を癒やすために楽しんで弾くような、ほっとさせる要素をそこかしこに感じるのだ。
そんな気持ちが曲に乗っていたのか、人々が何事かと足を止めだした。子供が親の手を振り払い、ケイカの前に座りだした。マウンテンバイクに乗っていた若者は、わざわざ自転車を降り押して歩いてくる。ひとりまた一人と、ケイカに注目する人数が増えていく。最初のメロディが終盤に近づいてくる頃には、その人だかりは二十人を越えようとしていた。
正直まだ少し気恥ずかしい気分はある。けれど私はやはり演奏することが好きなんだと、ケイカは悟った。こうして大人から子供まで、自分の音に耳を傾けてくれているという事実が、ケイカを幸せにさせる。少女はこの臨時の演奏会の雰囲気を、だんだんと楽しめるようになってきていた。
「いいぞ!」トウマが興奮を隠せずに叫んだ。まだ始めて数分なのに、これまでの中で最大の集客人数になっている。危険を犯して商店街に来て良かったとトウマは確信した。
前奏が一巡し、トウマの歌う箇所にきた。歌い手は勢いよく観客の前に飛び出した。
人々が驚いて、若者に注目する。トウマが口を開いて歌い始めた。
ケイカはその歌声に、青を見た。どこかの写真で見た白壁が眩しい海外の港町、そこに広がるどこまでも澄んだ空の色にそっくりだった。トウマの気持ちが高ぶっているせいで、色にムラはあるけれど、濃い部分は美しい純色を保っていた。
人というのは声だけでこれだけの色を出せるのかと、ケイカは感動した。それにトウマの才能にも驚かさる。色が見えていないのが信じられなかった。性別はどうあれ、彼が共感覚の力を持ってこの世に生を受け、楽器を手にしていたら、私なんて全然敵わなかったかもしれない。
ただひとつだけケイカには感じたことがある。それは一筋の冷たさだった。歌声の中に何か空虚さとか、埋められない悲しさが出ている気がする。それがケイカを寂しい気持ちにさせていた。トウマと会話している時にもうっすら感じていたのだが、彼の人間や人生に対して一歩退いて望む態度の裏側にある、どこか寂しげな心をその歌から感じるのだ。
ただしこんな商店街という場所で、トウマの声にそんな印象を受けているのは、感応性が異常に鋭いケイカひとりだけだった。
しかも世間の人々は、まったく異なるレベルで残酷だった。
曲に歌が挿入されたと知った瞬間、人々の反応が一変した。まず主婦たちが買い物袋を持ち直し、ぐずる子供の手をつかんで強引に連れ去った。サラリーマンは外していたイアホンを付け直して歩いていく。徐々に人だかりがただの混雑になって、やがて元の雑踏に戻ってしまった。
気持ちが入りすぎていたせいで、トウマは最初、観客の態度の変化も徐々に減っていく人影にも気づかなかった。歌の最後の一節が終わって正面を向いた時に初めて、異変に気づいた。
気持ちが高ぶる以上に、抜けていく時間は早かった。トウマがぴくりとも動かなくなった。彼が曲のパートに入っても口を閉じていたままだったので、ケイカの演奏もだんだんと音が細っていった。やがてすべての音が止まった。
何もなかったかのように、通りはいつもの雑踏の流れと音に戻っていた。
「あ、あの……」ケイカは言いよどんだ。実はこういう事は一度目ではないのだ。ケイカが回り込んできて、トウマの顔を顔を覗き込む。「毎回言うけれど……」
「ありがとう、
「トウマの歌だから、じゃないわ」ケイカはすっかり日常に戻った通りを見渡した。「人が歌に対して、こんなに冷たいだなんて……」
「みな天子様の気分になりたいのさ。歌なんて余計だし聞きたくない。聞きたいのは音楽なんだ」
「……ごめん」
「どうして君が謝るんだい?」
「わからないけど……何となく、落ち込んでいるみたいだから」
「気にするな。僕は歌いたくてそうしてるんだから。さあ、もう行こうか」
トウマは無表情ですたすたと歩き、キーボードとスタンドをケースにしまい始めた。ジッパーを閉め、自分の荷物と一緒に肩に背負い込む。
無言で商店街を去ろうとする彼に、ケイカはどう声をかけていいか、迷っていた。
「帰るの?」
「ああ、僕は
振り向かないまま、持ち上げた片手だけで挨拶して去ろうとしたトウマだったが、不意に立ち止まり、肩越しにつぶやいた。「そうそう、さっき色のない世界がどう見えるか知りたいって、言ってたよね」
ケイカは相手に見えていないと思いつつ、首を縦に振った。
「無理だね」トウマは無慈悲に言い放った。「ただでさえ他人なのに、君は生まれてから今まで、いちども寄り道も挫折もしたことがない色楽者だ。色がない世界を説明したって、理解できるわけがない」
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