第4話 歌い手(1)
サンジャオの心配をよそに、翌日ケイカはエウカリスと同じ教室にいても、まったく目を合わせなかった。
エウカリスの方も不気味に沈黙していたので、この二つの惑星にニアミスは起きなかった。
実をいうと、ケイカは上級生のことよりも、用務員の老人が呼ぶと意気込んでいた歌い手の存在の方に気を取られていた。
ただ曲を聞かせたら、それで終わりなのだろうか。老人はケイカから相談するようにと言っていたが、彼女自身悩みは漠然としていてつかみどころが見えない。
だから余計に、老人が何を考えてそんな約束をケイカにさせたのか、理解できなかった。
そんな気持ちでいるせいだろうか。いつもと同じ行動をしているはずなのに、ケイカには同じクラスの友達やすれ違う教師の目が気になって仕方がない。
「私はこれから悪い事をするつもりです」制服にそんな張り紙をして歩いているような気分がした。
遅い秒針が時を刻み、ようやく終業のベルが鳴った。
「一緒に帰ろ!」サンジャオが、文字通り机の上に腹から滑り込んできて、ケイカの視界を塞いだ。おかげで筆箱たちがサンジャオの制服の下に埋まって取り出せない。
「今日は駄目。明日もたぶん駄目」ケイカは目を合わせずに、にべもなく言う。
「えーまた練習ぅ?」
ケイカは言葉無しで、コクリとうなずく。サンジャオのお腹を強引に持ち上げ、潰された教科書たちを救い出しにかかる。
「やだ! つまんない!」少女はわざと手足を内側に曲げ、机にへばりつくようにして、ケイカを邪魔しようとした。
「しゃーない。時間ないし」ケイカは相手の弱点を知り尽くしていたので、サンジャオが最も苦手な脇腹の一点に、するどく突きを入れた。尻尾を踏まれた猫のように、少女の体が跳ね上がった。
「意地悪!」サンジャオは肋を押さえながら、ぶつくさと文句を言い、自分の席に退散していった。
まったく、せっかく目立たないようにしていたのに、いまじゃ先生にすら注目されてるじゃない! 午前中はあんなに心配そうな顔をしていたくせに……ケイカはサンジャオの記憶力の悪さと能天気ぶりを呪った。
背もたれにかけていたブレザーを着る仕草を利用して、ケイカはほんの一瞬だけエウカリスを見た。上級生は椅子に座っていた。腕を組んで目を閉じ、ピクリとも動かない。ケイカはその静けさに不気味さを感じた。けれどこれからの事を考えれば、変に絡みたくはないので、良い兆候だと考えた。
今のうちに出よう。席を立ったケイカは、必要以上の愛嬌は振りまかず、何人かと軽い挨拶を交わし、教室を後にした。
部屋を出て行ったケイカを含めて、エウカリスが一瞬だけ片目を開けた事に気づいた者は、クラスにひとりもいなかった。
こんなにも毎日、音楽室を独り占めできるとは思っていなかった。ケイカは今日もその場所を訪れた、最初のひとりになった。
誰かが先に部屋にいるかもしれない。そんな予感で扉を開けたケイカだった。けれどすぐに、高まった気持ちの分だけ損したのだと気づいた。
とりあえず心配事を先延ばしにされてしまい、ケイカは気が抜けてしまった。
そんな事情も知らず、あいかわらず音楽室は静かだった。
授業が終わって足早にここに来てしまった。外を見てもあの老人はまだいなかった。
思えばここ数日、心がざわつくことが多すぎて、ケイカはろくに練習ができていなかった。
せっかく女性特有の体の症状も治まってきたのだから、ここらで本気を出し、調子を戻さねばならない。曲を選ぶ事も重要だが、ケイカのベースラインが上がってきてからでもいいと思った。
ケイカは共用の楽譜棚を開き、先週まで練習していた楽譜の中から、難しめな曲を選び取っていった。その最初の曲を譜面台の上に置き、おもむろに弾き始めた。
一曲、また一曲と、進むうちに調子があがってくる。ペダルの踏み変えも問題ない。大体、練習を初めてからこのぐらいの時間が経つと、自分の色が明確に見えるようになってくる。今までは、ただ鳴らした音に対応する色が浮き上がってくるだけなのだが、集中力が増すとその先の世界を表現できるようになる。色と色の繋ぎ具合、普段より見せる色の範囲を広げたり、わざと早めに色同士を混ぜて、盛り上がる場所で最も美しい色が見えるよう調整したりと、それこそ細かいテクニックは山とあった。
この独特の表現を通常の譜面に残す事は非常に難しい。そこで色楽では、専用の
ひととおり弾き終わった後で、彼女は自分の色譜に、細かい指示と修正を入れていった。これは使えるとか
二曲分すすんだ所で、ケイカは肩と指の力を抜いた。少し練習していないだけだったが、疲れると指の開きが安定しないのがわかってきた。
再び調子を取り戻すために、アルペジオとトレモロを組み合わせた、指の調子を整える小節の組み合わせを弾き始める。これは母から教わったものを自分でアレンジした曲だった。何度か繰り返しているうちに今の調子が判ったり、基本の動作を取り戻すことができる大事な診断ツールだった。
ケイカはいつのまにか目を閉じて、その曲に合わせて同じメロディを口ずさんでいた。
窓ガラスをノックする音がした。続いてもう一度、今度は少し強めに。
ケイカは二度目の振動に気づいて、鍵盤を叩く指を鎮めた。
きっと、あのおじいさんだ。ケイカは逆光を掌で遮りながら、窓の前に移動した。
彼女の予想は外れた。そこにいたのは老人ではなく、小太りの中年の女性だった。それだけではなく、ケイカはその女性をまったく見たことがなかった。少女は動揺した。女性が鍵の部分を指して促したので、ケイカは窓の錠を開放した。
ようやくという感じで女性の顔が明るくなった。「あなたがケイカさん?」
ケイカは黙ってうなずいた。
「ああ、やっぱり。おじいさんの言ったとおりだわ。長い金髪の可愛いお嬢さん」女性は嬉しそうに手を叩いた。「わたし園の方から来ましたの」
「園?」
「あなたを迎えにね。おじいさんからは昨日、あなたに話を通してあると言われたわ。聞いていないかしら?」
「いえ……おじいさんからはその……聞いていますけれど」ケイカは言いよどんだ。一部は合っているが、他に聞いていない色々がありそうだった。
「でしょう! 良かったわ。ではさっそく向かいましょうか。あなたの準備をしていらして。あちらの校門の所で待っているわね」
上品な口調で用件を伝えると、女性は校庭を横切るように行ってしまった。
ケイカは突然の事でついていけず、しばらくその姿が小さくなるのを見守っていた。
あわてて準備したせいで、ケイカの立ち姿は髪の整え方からマフラーの巻き方まで、めちゃくちゃだった。
校門で待ち合わせた二人は敷地を出て、学校の高い壁沿いに進んで行った。
相手に悪い人の雰囲気が無かったのでまだ良いが、ケイカは自分がどうしてこの見知らぬ人に付いて歩いているのか、不思議でならなかった。
人を待たせているという罪悪感に、つい勢いに流されてしまったのかもしれない。ケイカは悪い癖だと反省した。
女性が進む方道は駅からもバス停からも逆向きで、普段ケイカたち生徒が行ったことのない方角だった。何度か道を曲がっていくうちに、すぐに学校の壁や建物が見えなくなった。
五分もすると道は細くなり、一気に見知らぬ土地の感じが増した。
どこに行くのだろうと、そろそろ疑問を口にしてもいい頃だ。ケイカがそう思って息を吸おうとした瞬間に、中年の女性が振り向いて言った。
「ここよ、お嬢さん」
中年の女性が声で示した先に、二メートル程もあろう黒いアーチ型の門が見えた。
学校のすぐ近くにこんな場所があったなんて、ケイカは知らなかった。
門には鍵がかかっていない。ケイカと女性は簡単に敷地へ足を踏み入れた。広い芝生の中央にある舗装された路を進み、どことなく教会のような雰囲気の建物の中に案内された。
横開きの扉をスライドさせると、両壁に手すりのついた間口の広い玄関に繋がっていた。スリッパやサンダルが大量に置かれていて、爪先の傷やすり減り具合から、どれも相当の年季が見て取れた。
外観から比べると中はかなり新しく、床材や建具など内装はかなり綺麗だった。白を貴重とした色合いが、ケイカにはまるで病院のように見えた。
玄関の奥に木の扉の付いた壁があって、その向こうから大勢の人の喋る声が漏れていた。
古いスリッパに履き替え、案内されるまま廊下を進んだケイカは、壁の向こうに通されて初めてこの建物の正体に気づいた。
「老人ホームだ……」
扉の先は共同で使われる、かなり広いダイニングルームになっていた。八人がけのテーブルが四つ並んでいて、それぞれに椅子がしつらえてあった。そこに、まばらに老人たちが座ってくつろいでいた。
テーブルを超えた向こうに、緩いカーブを描く半円のステージが見えた。どうやら老人たちの宴会か何かで使うようだ。小さなアップライトピアノも置いてあったが、今はカバーが掛かっていて、使われていない様子だ。
老人たちは全員、ケイカが入ってきた事には気づかず、大きな液晶テレビの画面で旅番組を観ていた。
わかってしまえば、何でもない。別に異常な場所でも何でも無く、そういう施設だったと安心した。
ひと通りあたりを確認し終えたちょうどその時、ケイカは老人たちの姿に何か不思議な違和感を覚えた。何だろう。どこかで答えに気づいているのに、言葉にならないむず痒い感覚だった。考えて、もう少しで分かるかも知れないと思ったのだが、割り込んだ声に邪魔された。
「みなさーん」中年の女性はいきなり大きな声で注目を集めようとし出した。「皆さんに演奏をしてくれる先生を連れてきましたよー!」
最初に、老人たちの世話をしていた何名かの女性の中年スタッフが、その声に反応して振り向いた。ああ、あの方ねという素振りで、その場でケイカの方に向き直り、ぱらぱらと拍手をする。
音というより、仕草に反応したのだろう。老人たちは次々と、テレビの画面からケイカへと注意を移し始めた。
「おー、園長さん。この子が、あんたが朝に言っていた、ピアノの先生かい? こりゃまた可愛いお嬢さんだこと!」
「べっぴんさんじゃないか。うちの孫みたいだねえ」
それまで傍観者だったケイカは、視線が集中したので一気にうろたえた。何も心の準備が出来ていない。それにこの場では自分だけが異様に若く、また制服姿である事もあって、強烈な違和感を覚えた。
「あの……あの!」ケイカはそれとなく視線に応えて笑顔を返せたものの、困り果て園長と呼ばれた女性の方に擦り寄った。耳のそばで小声でささやく。「この状況……わたし何も聞いていません!」
「あら、そうなの? 確かにピアノを弾いてくれる子が来るって、聞いていたんだけれど。私の勘違いかしら? あなた、さきほど上手に演奏してらした方でしょう?」
「そ、それはそうなんですけれど、ひとりに聞かせるって……こんなたくさんの方の前で弾くなんて聞いていなくて」
「もし間違えていたとなると、困ってしまうわ。ここにいる皆さん、先生の演奏をとても楽しみにしていたものですから……」
「ええと……」ケイカも困ってしまった。お互いの当事者であるおじいさんがここにいない以上、話し合いがどうしても平行線になってしまう。
「いいじゃない、演奏してやりなよ。ケイカさん」
混線する二人の会話に、通る声が割って入った。ステージの方からだ。アップライトピアノと長いカーテンの影になっていたせいで、ケイカはそこに人が座っていることに気づかなかった。
ケイカは目を細めた。
遠目で見た限り、その人物はすらっとしており、老人でも中年でもなかった。声の主はベージュのパーカーを着て、その上に灰色のジャケットを羽織っていた。ラフなGパンとシンプルなスニーカー。髪の毛が明るい茶色に見えたのは、おでこから後頭部までを覆う大きなニットキャップを被っているせいだ。同じ部屋にいるとはいえ、距離が離れていたので、確認できるのはそこまでだった。
確かにケイカの名前を呼んだ。だったら家族とか学校関係のはずなのに、ケイカにはまったく覚えがない声だった。
「皆さん。先生が何でも好きな曲を演奏してくれるって言ってますよ。ぜひリクエストをお願いします」声の主は居室中に響くように手を打ち鳴らし、老人たちの注目を集めた。いつでも準備ができている事を示すためピアノの覆いを取り、鍵盤の蓋を開いた。
「ちょっと!」ケイカは反射的にムッとして声を荒げた。相手の追い込み方がいやらしい。
「あら本当?」それに乗っかる園長も、なかなかどうして天然だった。「じゃあ皆さん、考えていた曲を紙に書いてくださいね。はい、スタッフの皆さんはテレビを消して、演奏を聞く準備をしてさしあげて!」
テキパキと指示を出しながら、園長はいつの間にか、ケイカの鞄や上着を勝手に受けとって、近くの椅子にまとめて置いてしまった。おばさんの厚い手が、ケイカの背中を優しく押してピアノの前に行くよう促してきた。
歩くのをためらっていたケイカだったが、だんだんと抵抗が弱まってきた。全部あのおじいさんのせいだわ、と恨めしく思うが、不満をぶつける相手が今はここにいない。
ケイカはしぶしぶとテーブルの間を進んだ。途中、老人たちが優しい声をかけてくれる。ひきつった愛想笑いをしながら、ケイカは部屋の中へと歩いていった。
ステージの上では、ケイカを罠にはめたもうひとりの人物が待ち構えていた。恩着せがましく
ケイカは何でもいいから思いを込めて、相手を睨んでやろうとした。けれど相手の容姿に気づいて、はっと息を飲んだ。
近い距離まで来た為、その人の顔がしっかりと見えた。ケイカより若干年上のようだが、男性だった。かなりの短髪なのだろう。茶色の帽子の縁から髪の毛が見えなかった。長い睫毛の下の意思の強そうな黒い瞳がこちらを見返していた。頬や唇の血色が悪く、全体的に顔色が極端に薄く見えた。
色々と観察してしまったが、相手が男の子であることには間違いない。遅れてやって来た緊張の波に、ケイカの鼓動が早まった。免疫のない少女は、触れそうなぐらいの距離の近さにいる異性を前にして、言葉が出てこなかった。
「なんだか緊張しているみたいだけれど、そんな必要はない。僕は離れて見ているから。あなたのやり方で、いつもみたいに弾けばいいよ」彼は証明するようにすっと身を引いて、ステージを降りていった。
園長がマイクを手にステージ上にやって来た。もう片方の手にはリクエスト曲の書いてある四角いカードを持っている。
立ちん坊だったケイカは、男の子が離れたので、ようやく椅子に座ることが出来た。そこで忘れていた息を大きく吸い込んだ。
もうこうなったら仕方ない。あとは弾くしかないとケイカは覚悟を決めた。幸いケイカは幼い頃から人前で演奏する機会を何度も経験してきている。覚悟さえあれば、心はまもなく落ち着いてきた。
緊張がやわらぐと、あたりを見回したくなる。泳いだ目は意識しないうちに先ほどの子を見ていた。少年は部屋の壁に背中をもたげ、眠るように下を向いていた。腕を組んだまま、演奏が始まるのを待っているようだ。
「では皆さんご静粛に。最初の曲は――」
園長が発表したのは、昔から愛されてきた童謡だった。演奏するケイカの年齢も考慮して、誰もが知っている曲を選んでくれたのだろう。
ケイカは早速、弾き始めた。演奏は彼女が指鳴らしに練習するよりも容易なものだった。けれど引き受けた以上ケイカは手を抜くことはせず、最後まで美しくその調べを弾き終えた。
最後の和音が響き終わると、ケイカは習慣で聴衆の方を向いて軽くお辞儀をした。
園長がステージに戻ってきて、皆に先立ってケイカに礼の言葉を述べた。
後に老人たちの拍手が続く。みずぼらしく、ぱらぱらという程度のまばらな拍手でしかなかった。
ケイカは何だか腑に落ちなかった。もちろん期待なんてしていなかったが、そこまで反応が無いなんて。驚いたことに年長者たちの顔には、失望の色さえあった。リクエストされて弾いたのにこの評価ということは、奏者の腕前が疑われている以外の何物でもない。ケイカは再び、この観衆たちが発する違和感に戸惑った。
少女は焦って答えを探すように会場を見回した。園長やスタッフたちからは、何もヒントは得られなかった。そうしているうちに、左横から感じるものがあった。あの男の子が顔をあげ、ケイカと視線を合わせようとしていた。
ケイカに気づかれて、若者は駄目だという事を示すように首を横に振った。何故だろう? ケイカはその答えをもらうまで、その子から目を離せなかった。彼の口が動いて言葉を形作った。その唇の形をケイカはさっき見たばかりだった。「言っただろう。いつものように弾けばいいって」
ケイカは心の中で必死に意味を考えた。言葉がチャペルの鐘のように繰り返し響く。いつものよう……いつものよう……
「すみません! もういちど弾かせて頂けますか!」ケイカはマイクで喋る園長よりも、大きな声を上げた。
園長は不思議そうに眉をあげたが、最後は納得したようだ。言葉で許可を告げるかわりにステージを降りていった。
ケイカは小さい声で、無茶な頼みへの礼を述べた。この機会を無駄にしてはいけない。気持ちを演奏会前の本気に切り替え、深呼吸をして指を大きく広げてから、もう一度その童謡を弾き始めた。
演奏の時間は、人によって反応がさまざまだった。
園長は一度聞いたという感情を出さないよう、つとめて自然な表情を浮かべていた。スタッフたちも頑張ってそれに
けれど老人たちが違った。
旅番組を見ていた時の退屈そうな表情は消え、目に力が溢れていた。煎餅を食べていた者はその手を止め、お茶は冷めるがままにされた。中には流れた涙をハンカチで拭う者さえいた。
演奏を続けている間、高齢者たちの反応の違いを肌で感じとっていたケイカは、心の中で自分の判断に間違いが無かった事を確信していた。
ケイカは曲を終えたあと、今度はじっと動かずに反応を待った。
今度は食堂全体が、たくさんの拍手と歓喜のオレンジ色に包まれた。ケイカは心からほっとした表情で息を吐くと、白鍵から指を下ろし、お礼の笑顔を老人たちに返した。
ケイカはそこに一人だけ、笑顔の無い人影がある事に気づいた。老婆だった。背が低い上に腰が極端に曲がっているせいで、車椅子に収まる姿がボールのように見えた。ここにいるどの高齢者よりも年老いているようだ。彼女だけが周りの反応に釣られることもなく、むすっとして、への字口の表情を保っている。
観衆に答えることを忘れ、なぜかケイカはその姿から目が離せないでいた。
「すごいや。聞いていたとおりだ」ケイカの意識を、手を叩きながら近づいてきた若者が引き戻した。「あまり感動はないみたいだけれど、この人たちの拍手をもらう栄誉は、なかなか受けられるものじゃないんだよ」
ケイカの注意はふたたび老人たちに移った。「あの、じゃあやっぱりこの人たちは……」
「そうさ。この老人たちは全員が共感覚の持ち主。そして昔はバリバリの色楽だったのさ」
ケイカは納得した。彼の言うとおりだ。言葉にしてみて初めて、違和感の答えが明確になった。ここにはひとりも『おじいさん』がいなかったのだ。老人たちは全員女性だった。
そしてケイカが最初に披露したピアノの反応については、説明するまでもない。色楽の厳しい目からすれば、私の色も気も抜けた演奏に感動など覚えるはずがないのだ。
ケイカは恥ずかしさに顔を赤らめた。男の子にヒントをもらえなければ、気づかないままだった。そうして思い込みの酷さを悔いた。年老いているからという理由で、自分はこの人たちを見下していたのかもしれない。
若者はケイカの神妙な様子を見て溜息を漏らし、少し飽きてしまったような表情になった。
「ねえ、お嬢さん。そんなに落ち込む必要はないと思うよ。それよりも、僕だったら今すぐにでも園長のもとに行って、頭を下げて頼みこむけれどなあ。『毎日ここに来て、私の演奏を先輩たちに聞いてもらいたいんです!』ってね。それって、君が悩んでいる課題とやらの、助けになる気がするんだけれど」
若者は踵を返し、まだ興奮している老人たちに大きな声で尋ねた。「ねえ皆さん。いま聞いたこの子の演奏は最高だったと思うんだけど、更に良くなるアイディアって、何かあると思いますか?」
紫色のパーマをかけた老婆が、真っ先に口を開いた。「あたしの全盛期の指使いは、こんなもんじゃなかったね。まだまだ伸びる余地はあるよ」
その隣にいた、アダルトな色の口紅を塗ったおばあさんは、もっと辛辣だ。「色は瑞々しくていいんだけれど、元気過ぎるっていうかね。もう少し落ち着いた方が曲に合う時だってある。その色合いの出し方についちゃあ、このオババに敵うやつはいなかったね」
それを皮切りに、老婆たちは競争するように口々に意見を言い合い、ダイニングルームは一気に活性化し始めた。
「あ……あ……」ケイカはその反応から嬉しさがこみ上げ、思わず涙声になった。
気軽にアドバイスを貰える目上の存在がいない事に、ケイカは普段から悩んでいた。クラスの生徒は残念ながら、先輩ですらケイカの演奏に意見を挟む事はできなかった。ケイカが
ケイカに信じる神がいるのであれば、彼女は天を仰いでお礼を言いたい気持ちになった。こんな立派な人たちが、私の指や色を見て、意見を述べてくれるなんて、と。
「別にそれで負い目を感じる必要はないと思うよ。あの高齢者達はとにかく曲や色に飢えていてね!」男の子はふざけて年老いた獣のような格好をしてみせた。
ケイカは思わず笑ったが、すぐにしまったと口を覆った。
「彼女たちも君の……ケイカの演奏から、若い元気をもらえると思うんだ。これって、お互いにとって悪いことはないよね」若者はいたずらっぽく言った。
ケイカは自分よりも少し背の高い彼の笑う姿を、不思議な目で見つめていた。雲のようにつかみどころがないくせに、この部屋に入ってからのケイカは、全てがこの人のペースに乗せられている気がした。
この子の素性は全然わからないけれど、最初ほど警戒しなくても良いかもしれないと、ケイカは考え始めていた。
そんな彼女の心の動きを察知したのか、それとも偶然か。彼が振り向いた所で、ケイカと目があった。
「あ、あの……」やっぱりまだ、
「ん?」
「いろいろと聞きたいことがあります。でも今はひとつだけ知りたいんです」ケイカは勇気を絞り出して尋ねた。「私、演奏はまだまだ下手です。だからさっきの曲、全員に納得してもらえなかったんです」ケイカの目が自然と、背の低い老婆を見つめていた。「たぶん……いや絶対、何かが足りないんですよね?」
「たぶん……そうだろうね」彼はケイカの口調を真似て言った。「何が足りないと思う?」
「えっと……もう、意地悪しないで教えてもらえない? あ、ごめんなさい!」ケイカは顔を赤らめた。私いま、サンジャオと喋るみたいに、この人と喋ってる。
「いや、いいよ。ウメさんは……あのおばあさんは難しい
彼はケイカを残して、ステージの中央へと進んでいった。わざとらしく一礼して、老人たちのまばらな拍手を誘う。「ケイカ、今の曲をもういちど弾いてもらえる?」
「は、はい!」驚いてケイカは椅子に飛び移り、ピアノに向き直った。それで少女は気楽に呼び捨てされている事にも気づかなかった。
ケイカの三度目のピアノが鳴り出した。今度もきちんと色を乗せるやり方を踏襲して弾くのを忘れてはいない。
前奏が終わり、いよいよメロディに移ろうかという時、若者が胸に手を添えて息を吸い、大きく胸を膨らませた。
ケイカはその瞬間の音と色を、いつになっても忘れられなかった。
若者は歌っていた。口を開いて、喉を震わせて。高くも低くも自由な心地よい声が、ダイニングルームの床から天井にまで響き渡っていた。
それはケイカが色楽となる運命を刻まれてから、初めて聴く「人」の歌声だった。
ケイカははっとして、あの老女の方を見た。
彼女は相変わらず、笑っても泣いてもいなかった。けれども自分の演奏を聴かせた時と違う反応があった。
老婆は何かを言っていた。開いてはいないが、モゴモゴと口を動かして、独り言を喋るように。
その唇が動く調子は、ケイカの演奏のリズムとしっかり合っていた。少しかも知れないが、先ほどは伝えられないものが老婆に通じたのだと、ケイカは嬉しくなった。
けれどもきっかけは、男の子の歌だった。彼が出した美しい声が老婆の重い心を開いたとしか思えない。もしかしたら彼女はケイカの曲ではなく、男の子が出すメロディをなぞって「歌って」いるのかもしれない。
ケイカは愕然とした。少女にはできなかった事を、彼はやすやすとやってのけてしまった。
やがて彼の歌が止み、遅れてケイカのピアノの伴奏も終わりを告げた。
今度の拍手は起きなかったけれど、老人たちはみな目を閉じて、その童謡の世界の風景の中に入ってしまったように、穏やかな顔をしていた。
ケイカは余韻の全てを体感したくて目を閉じた。この不思議な感覚はなんだろう。ケイカの心はここ数日なかったほど静かになり、安らぐのを感じていた。初めて聞いた彼の歌声が、ケイカが鳴らしたピアノの音さえ包み、優しい大気となってあたりに充満しているようだった。
すべてがケイカにとって初めての経験だった。少女は目を開いて、ステージの中央に向かってそっと聞いた。
「あなたが、おじいさんの言う『歌い手』だったの?」
虚ろな目と火照った顔のケイカに向かって、若者は眉を持ち上げて肯いた。我が家に大事な客を招待する執事のようなポーズを取り、彼は言った。
「歌の世界へようこそ、ケイカ」
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