第13話 罠師



 声が遠い――。僕の声ではないみたい。


 今から沈んでゆくその水溜まりは、どこまでも深くて底に行き着く気がしない。


 僕は冷たい水に浸かって、でも溺れ死ぬこともなく、弱い光が降り注ぐ空を水の中から見上げている。


 水面に絵の具を垂らすように、色が瑞々しい虹彩の膜にぱっと広がっては、薄まり消えていく――いや、それは過去の夢。僕の焦がれる想いが作り出した幻にすぎない。


 その変化の無い世界に疲れ、やがて瞼はゆっくりと閉じ、詰まった寝息が不規則な波を刻む。



――――――


 その花園の感触は柔らかくて、暖かかった。


 病院の本棟からストレスケアセンターに向かう敷地内通路の途中に、こんもりと木々の茂る中庭があった。見舞い終えた客がくつろぐ場所というよりは、変わり映えのしない入院生活に心を膿んだ患者たちが、静かに座って心を癒やす為の庭という趣だ。


 庭を囲むレッドロビンの植栽の壁に隠れるように、ひとつの人影があった。その人物は眠っているように見えた。芝生の上に横たわって頭の後ろで手を組み、仰向けになっていたからだ。


 フードの付いた白いスウェットシャツ、灰色のトレーニングパンツというラフな格好。手荷物をひとつも持っていない。ここが病院の敷地内という事を考えると、容易に入院患者のひとりだろうという事は想像がついた。


 鼻先を風がくすぐる。人影は目を覚ましたのか、大きく伸びをして今度は逆に腕を組み直した。視線がちらりと、草の上に無造作に置いてある一冊のファイルに注がれる。中にしまってあるのはひと束の色譜。これからここを訪れる約束の人の為に用意しておいた。


 これを……僕が弾けなかったこれを……。


 待ち遠しい時間とは長いものだ。もう一眠りしようと欠伸をした時、草を踏む足音が聞こえてきた。


 昼寝の続きはまた今度だ。勢いをつけて上半身を起こすと、半身についた草を払いながら立ち上がった。「待ちくたびれたよ。もう三度も同じ夢を見ちゃった」そう言って振り向こうとする。


「久しぶりね、ユミ」


 聞き覚えのある澄んだ声に呼ばれ、ユミの体が固まった。それはしばらく聞いていない名前、そして忘れられるのなら忘れたいと思っていた声だった。


「サエ……」


 サエは草地を踏みつけながら、元級友のすぐ近くまで進んできた。ユミが見るサエは、あの頃よりまた少し、背が伸びたように見えた。高等部に入って制服が変わったせいだろうか。ますます大人びた印象を受ける。


 ユミが惹きつけられた青い瞳はまだそこにあって、輝きを失っていない。だがそこには何もシキは見えない。いや、違った。見えないのはユミのせいだ。変わってしまったのは自分だった。


 サエも同じくユミを観察していた。しかしそこにはユミよりも落ち着きが見られた。


「運命かしら、それとも因縁?」その年齢で妖艶さまで備わった笑み。「ある人に言われてケイカを追っていたら、あなたに繋がったわ」


「どうしてケイカの名を君が……いや」ユミは少し考えて、容易に事実にたどり着いた。「そうか……先輩……そうだね。その可能性、気づかなかったよ。ところで僕に何の用だい、お嬢さま」


「そんな警戒しないで。私は人の頼みでここに来ただけ」


「もう一度言うよ。何を奪い・・に来たんだい?」口調は辛辣で、苦しげだ。「僕からこれ以上、絞り出す物なんて無いと思うけれどね」


 サエの表情は変わらなかった。「……いろいろ誤解があったのは認めるわ。そのあとに説明する時間もなかった。あなたはすぐに閉じこめられてしまったし、父の言いつけで近づくことは出来なかったから」


 ユミは答えない。釈明など不要だと言わんばかりに。


 サエの視線はユミからその足元に置かれているファイルへと移った。半透明のPP材ごしに見える手書きの記号の羅列をみて、中身をすぐに理解した。「あの時の色譜。それをケイカに渡すのね。あなたが叶わなかった夢を恋人に託すなんて、美しいじゃない」


 本人が意識していなくても、サエの口調には棘がばらまかれていた。それがユミを苛立たせた。「何でもわかったように喋って、そうやって見下せばいい。けれどもう僕は、君の言うことは聞きたくない」


「だいぶ嫌われたみたい。でもさっきも言ったけれど誤解よ。私はあなたを――」


「信用できるものか! 僕はもう何も信じたくないんだ。ヤシロに裏切られた時から、そう決めた。ズタズタにされて、色まで失った。君たちを信じたせいだ!」


「馬鹿を言わないでよ!」サエの声が大きくなった。


 ユミが驚いた事に、サエは本気で怒っているように見えた。


「まだそんな風に思っているの? あの人がした事は褒められないけど、全てあなたを愛していたからじゃない!」


「そんな訳がない……」ユミの心臓が高鳴る。「悪いがまだ回復していないんだ。頼むから惑わさないでくれ!」


「嘘じゃないわ。真実よ」


「ならどうして!」ユミは拳を握りしめた。


「屋代さんの心までは、わからない。けれど血の涙を流してやろうとした事はわかる。あなたよ。あなたの命を守るため。それをする事で、あなたの心から色が消え、違う道を進んでくれると信じてやったのよ。ユミ」サエは一歩近づいて、視線を反らすユミの肩をつかんだ。「あなただって体と心を癒やす間、ベッドの上でたくさん考えたんでしょう? どうしてそれに気づけないの? それとも気づいているのに、まだ目を背け続けるの?」


「違う! 僕は……僕はヤシロを本物の家族だと思っていた! だからその裏切りに耐えられなかった。だったら最初から言えばいいじゃないか! こうして僕の前に出てきて、父親みたく説教してくれたっていいじゃないか! どうしてあんなやり方を選んだんだ!」


「駄々をこねないで。それであなたが納得できて?」サエは落ち着いてユミの爆発を受け止めた。「才能に恵まれて、立派な翼も与えられて、これから飛びたとうとする若鶏に『飛ぶな』と言える? それで言うことをきける自信が、あのときのユミにあったの?」


 サエは病院で老執事と話した様子を思い出していた。「屋代さんには、もともと命の時間は少なかったと思うわ。それでも発表会までに、間に合わないと悟ったのね。だからあの人は最後に取れる手段を選んでしまった。あなたの心に強すぎるかもしれない傷を与える為に……」


 サエは足元のファイルを指さした。「それなのにあなたはまた、そうして色楽の欠片にしがみついて、自分を滅ぼそうとしている。あなたが変わらなければ、屋代さんが命まで捧げた意味が無くなるって、どうしてわからないの?」


 ユミは反撃の手札を失い、ただ自分を理解してもらいたい気持ちだけで叫んでいた。「仕方ないんだ……それを求めるんだ! 僕に流れる血は、音と色なしではこの世界に僕を留めさせてくれない!」


「……あなたは怒るとは思うけれど、同情する。私も似たような物を持っているから。でも、私からの願いは、ただひとつ。あなたのうたを歌いなさい。誰かに聞かせる為じゃない、誰かを巻き込むこともしないで」


 ユミは呆然と、サエの言葉の意味を確かめていた。自分が出せなかった結論が、その場で鮮やかに解体され眼の前に並べられている。あまりに整然としてわかりきっていた・・・・・・・・現実が、ユミの言葉と判断力を奪う。


 サエの声に優しさが戻った。「私だって、あなたの歌を欲しいと思った――本当よ、いまでも思っているわ。でも無理だった。何となくだけど、私はあの老楽師に同情できる気がするの」


 ユミは片手でぶら下がっている崖に、もういちど手を伸ばそうとした。「ケイカなら救ってくれると思ったんだ……」


「ケイカ?」サエは冗談でも聞いたかのように鼻で笑った。「あんな厳しさを知らない子供、無理に決まってるわ! ケイカのあなたへの理解なんて浅すぎる。あなたを理解できるのはこの私だけ。私だけがユミを導くことができるのよ」


「ケイカは……ケイカは僕を癒やしてくれる。治療してくれる――」


「強すぎるわ。あの子の力はあなたをいっとき癒やすけれど、いずれ毒になる」


「あの子は僕の歌を求めてる。僕はあの子の曲の支えになる――」


「ユミ、誰のために歌おうとしているの? ケイカは他人の為によ。あなたは? あなたを責める訳じゃない――あなたのせいではないから。だけれどこれだけは変えられない真実。あなたの歌はあなたの為にある。誰かの為じゃない」


 すべてを跳ね返されて、ユミは立ち尽くした。息をすること以外、自分にできることはあるのだろか。やがて決意したのか、ゆっくりとその手に色譜の入ったファイルを拾い上げた。


 サエを再び見つめたユミの目には、涙さえ出ていなかった。


「すべて道は塞がれていたんだね……それで僕はどこへ連れて行かれるんだい」


「私に全てを任せると約束してくれる? これから私があの子ケイカに何を言ったとしても、それはすべてあなたを守る為だと信じて、あなたは口を出さないって誓える?」


 ユミはその意味を悟った。「そうか。やっぱり僕には何も残らないんだね」子供の頃から口癖のようにヤシロに訴えていた言葉だった。


「……ユミ。私はあなたを見放さないわ。最初にあの廊下であった時からずっと、ずっと。いくらひどい仕打ちに見えたとしても……それだけは忘れないで」


 ユミは庭園の上にぽっかりと開いた空を見上げた。


「空が高い……もう涙も出ないや……」



 やがて、遠くからざっざっとリズミカルな音が聞こえた。誰かが噴水の向こうから走ってくる足音。ユミもサエも、ここに来る者の素性はわかっていた。


 足音がレッドロビンの高木の向こうに聞こえ、横切り、角を曲がって近づき、ついにはそのあるじの姿を見せる。


「トウマ!」荒い息づかいのケイカが、息を吸うのも待てないとばかりに、愛する人の名を叫んだ。


「まあ、ケイカ」サエ――エウカリスは振り向いた。金髪の少女に向け、歓待の冷めた笑みを送る。


「エウカリス……」ケイカの戸惑いは目に見えるほど激しい。居ないばずの人が、欲しい人と居るのだから。


「放課後に姿を見ないと思ったら、こんな庭で遊んでいたのね」この場所を、あなたの最後の地にしてあげる。エウカリスに優しさはもう無い。彼女は自分に流れる残酷な血が、暗い欲望に沸き立つのを感じていた。


 足元に落ちていた小さな花を爪先で蹴りつけると、エウカリスは罠を発動した。


「私、あなたを心配していたの……」




(シキラク(色楽)第2部 トウマ  おわり)

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