エピローグ



 庭園は広かった。どこまでも広すぎて、ケイカにとっては、そこに終わりがあるなんて信じられなかった。


 ケイカは天無の庭とよばれるその場所に立ち、あまりにも広大で先の見えない光景に目を奪われていた。


 驚くのは庭園の上に広がる空だ。どういう不思議が可能にしているのか分からないが、周囲にあらゆる高い建物が見えない。外界とこの地とを断絶する障壁があって、風景はおろか外の光までも防いでいるようだった。


 正式な色楽ではない『一般人』のケイカが庭を訪れることは、しきたりから言っても異例中の異例だった。そもそも、招かれた当人のケイカが最も驚いていたのだ。


 招待の理由について、届いた封書には何も書いていなかった。何の前触れもなく、しかも天無からの直接の招待状など、常識的に考えればそれを信じる者はいない。


 封書の角に描かれていた小さな絵――線路とその上を走る一両の電車の落書き――を見つけていなければ、ケイカも招待状を捨てた一人になっていただろう。


 ケイカは限り無く正装に近いセミフォーマルのドレスに身を包んで、その着心地の悪さに身動みじろぎしていた。


 ひとりは心細い。それに、こうした場でどう振る舞ったら良いのか、まるで分からない。外見は立派な大人でも、まだ学生の自分が抜けきれていないのだと、思い知らされた。


 特に何も持ち物は不要と聞いていたから、小さなバッグ以外の手荷物は無い。それがまるで何も準備していないかのように感じられ、また不安を煽る。


 こちらでございますと案内されたのは、水辺の小さな四阿あずまやで、その場所にいれば良いという事だった。


 疲れてきたのでちんにひとつだけある木の椅子に腰を落とした。壁のない四方のうち三方は湖の景色が楽しめる。この亭から湖に向かって一本細い道が伸びていて、ベンチのある行き止まりに着いて終わっていた。


 周囲には人の気配は無く、ケイカは自分が絵の世界に入ってしまったような錯覚を覚えた。自分だけが生きて動いている不思議な絵画。でも日本庭園だし、私のドレスはまったくの場違いだ。


 いい風が吹いてきて、ケイカの金の髪を持ち上げようとする。首筋の柔らかい感触が眠気を誘い、うつらうつらしていた時、そこに小さな音が聞こえた。


 ケイカはまだ微睡まどろんでいたので最初それを子守唄代わりに聞いていたが、やがて何か重要な事に気づいた人がやるように、焦点を定めたままゆっくりと目を開けた。


 私はこの歌を知っている。


 ケイカの眠気は完全になくなっていた。ぱっと立ち上がって、辺りをくまなく見回す。


 するとさっきは誰もいなかった四阿からの小道の先に、歌っている人影が見えた。ほっそりとしたシルエットで、長い髪を巫女風の垂れ髪にしていた。しかし服装は男性神主のそれで浅黄あさぎ色の袴をはいていた。湖の方を向いているので、顔は見えなった。


 普通の人が気づく特徴はそれだけだったが、ケイカにはハッキリと見えた。そこに浮かぶ青。声が小さいので今見える色は薄まっているが、彼女の記憶はその本来の純色を忘れたことが無かった。


 心臓が高鳴った。ケイカは荷物を持つことも忘れて、建物から飛び出した。その道の行き止まりまでは近いように見えたが、実際にはとても遠く感じた。走りづらい靴に苦労し、イライラして、ついにはヒールたちを投げ捨ててしまった。


 そうして走っていき、転びそうになり、それでも顔はその人から背けられなくて――。


「トウマ!!」


 ケイカの呼び声を聞いて、影が振り向いた。長い髪がひらめくと、そこから白い肌が現れ、くっきりした黒い目がケイカをつかまえる。


 ケイカは走り切ってそのまま、トウマの胸の中に飛び込んだ。自分もそうなのだけれど、少し大きくなったトウマの体を全身で感じた。そして忘れもしない温かい感触に抱かれながら、ケイカは大粒の涙を流した。


「トウマ! トウマ!」堰を切ったようにケイカの口から出るのは、同じ名前だけだった。


「うん、大丈夫だよ、ケイカ。ちゃんといるから。もうどこにも行かない。僕は……私はずっと、ここにいる……」


 泣きじゃくるケイカを支えていたトウマは、大人になった少女の背中を擦り続けていた。視線はずっと、湖上の水鳥たちが音もなく羽ばたく様子を眺めていた。


 やかてケイカの呼吸が落ち着いてくると、トウマは再び静かな声で歌いだした。


 その美しくも切ない歌声は、ここにしかない世界に吹く風に乗って、湖の遥か先まで滑らかに響き渡っていった。




(シキラク(色楽)    おわり)

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シキラク(色楽) まきや @t_makiya

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