エピローグ
庭園は広かった。どこまでも広すぎて、ケイカにとっては、そこに終わりがあるなんて信じられなかった。
ケイカは天無の庭とよばれるその場所に立ち、あまりにも広大で先の見えない光景に目を奪われていた。
驚くのは庭園の上に広がる空だ。どういう不思議が可能にしているのか分からないが、周囲にあらゆる高い建物が見えない。外界とこの地とを断絶する障壁があって、風景はおろか外の光までも防いでいるようだった。
正式な色楽ではない『一般人』のケイカが庭を訪れることは、しきたりから言っても異例中の異例だった。そもそも、招かれた当人のケイカが最も驚いていたのだ。
招待の理由について、届いた封書には何も書いていなかった。何の前触れもなく、しかも天無からの直接の招待状など、常識的に考えればそれを信じる者はいない。
封書の角に描かれていた小さな絵――線路とその上を走る一両の電車の落書き――を見つけていなければ、ケイカも招待状を捨てた一人になっていただろう。
ケイカは限り無く正装に近いセミフォーマルのドレスに身を包んで、その着心地の悪さに
ひとりは心細い。それに、こうした場でどう振る舞ったら良いのか、まるで分からない。外見は立派な大人でも、まだ学生の自分が抜けきれていないのだと、思い知らされた。
特に何も持ち物は不要と聞いていたから、小さなバッグ以外の手荷物は無い。それがまるで何も準備していないかのように感じられ、また不安を煽る。
こちらでございますと案内されたのは、水辺の小さな
疲れてきたので
周囲には人の気配は無く、ケイカは自分が絵の世界に入ってしまったような錯覚を覚えた。自分だけが生きて動いている不思議な絵画。でも日本庭園だし、私のドレスはまったくの場違いだ。
いい風が吹いてきて、ケイカの金の髪を持ち上げようとする。首筋の柔らかい感触が眠気を誘い、うつらうつらしていた時、そこに小さな音が聞こえた。
ケイカはまだ
私はこの歌を知っている。
ケイカの眠気は完全になくなっていた。ぱっと立ち上がって、辺りをくまなく見回す。
するとさっきは誰もいなかった四阿からの小道の先に、歌っている人影が見えた。ほっそりとしたシルエットで、長い髪を巫女風の垂れ髪にしていた。しかし服装は男性神主のそれで
普通の人が気づく特徴はそれだけだったが、ケイカにはハッキリと見えた。そこに浮かぶ青。声が小さいので今見える色は薄まっているが、彼女の記憶はその本来の純色を忘れたことが無かった。
心臓が高鳴った。ケイカは荷物を持つことも忘れて、建物から飛び出した。その道の行き止まりまでは近いように見えたが、実際にはとても遠く感じた。走りづらい靴に苦労し、イライラして、ついにはヒールたちを投げ捨ててしまった。
そうして走っていき、転びそうになり、それでも顔はその人から背けられなくて――。
「トウマ!!」
ケイカの呼び声を聞いて、影が振り向いた。長い髪がひらめくと、そこから白い肌が現れ、くっきりした黒い目がケイカをつかまえる。
ケイカは走り切ってそのまま、トウマの胸の中に飛び込んだ。自分もそうなのだけれど、少し大きくなったトウマの体を全身で感じた。そして忘れもしない温かい感触に抱かれながら、ケイカは大粒の涙を流した。
「トウマ! トウマ!」堰を切ったようにケイカの口から出るのは、同じ名前だけだった。
「うん、大丈夫だよ、ケイカ。ちゃんといるから。もうどこにも行かない。僕は……私はずっと、ここにいる……」
泣きじゃくるケイカを支えていたトウマは、大人になった少女の背中を擦り続けていた。視線はずっと、湖上の水鳥たちが音もなく羽ばたく様子を眺めていた。
やかてケイカの呼吸が落ち着いてくると、トウマは再び静かな声で歌いだした。
その美しくも切ない歌声は、ここにしかない世界に吹く風に乗って、湖の遥か先まで滑らかに響き渡っていった。
(シキラク(色楽) おわり)
シキラク(色楽) まきや @t_makiya
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