第2話 老人(1)



 ケイカが目を開くと、そこは学校の保健室のベッドの上だった。清潔なリネンの手触りを感じる。何とか生きているみたいだと息を吸ってみると、かすかに消毒液の匂いがした。


 蛍光灯が消えているが、ケイカには周囲の様子が確認できた。静かで周りに何も音はない。なのに天井に、もやもやとした粒子の雲とチカチカが点滅している。現実だろうか? 目を狭めて雲にピントを定めても、薄暗くてはっきりせず、判別ができなかった。


 きっとただの錯覚に違いない。彼女は心を落ち着かせるために、いちど目を閉じた。


 ケイカたちのような共感覚を持つ者が見る色は、個人ごとに若干見え方が異なるし、いちばん影響されるのは感情の動きだという。そのため視界の中で、色はより強調されたり、弱目に優しく感じられたりする時がある。あまりに心が不安定な時は、今みたいに聞こえもしない音を頭が勝手に処理して、眼の前に錯覚が作り出されたりする。


 普通の人にも、感情を決める根っこのひとつに体調があるわけで、いまはケイカの体の調子は真っ逆さまで最悪なのだから、少しぐらい滅茶苦茶で説明がつかなくても仕方ない。たまにはお化けやイケメンが見えたっておかしくはなかった――まあ二つとも色じゃあないけれど。


 今の時間は何となく、放課後だろうと思った。目を開けて天井のシミを数えていると、光が差し込んでくる方角から、部活の生徒たちのランニングの掛け声が聞こえた。どうやら雨はあがったようだ。


 こんな風に耳だけに聞こえて、目で音の発生元を見ていない場合は、色が出てこない事が普通にある。音が小さいせいもあるけれど、これは色聴しきちょう者にしかわからない感覚だった。


 そんな思いに意識を取られていた為、ケイカは自分がここに寝ている理由を考えることを忘れていた。


「ん……」


 眠そうなうめき声。自分ではない。そういえば先ほどから、腰の付近に重さを感じていた。


 ケイカは首だけをそろそろと持ち上げ、腰のあたりを見てみた。リネンの上で両腕を枕にしてすうすうと眠っている、サンジャオの小さくて茶色の頭とつむじが見えた。


「やっちゃった……」彼女は再び枕に頭を戻して呻いた。手の甲を持ち上げ、おでこに添える。掌と腕に加え、やってしまった事の重みが頭に強くのしかかってきた。


 上級生とやりあって、勝手に倒れて、サンジャオに看てもらって――何してるんだろう、私。自分を殴って済むならそうしてやりたい。けれどその前に、ケイカにはいま頭にある鈍い痛みに耐えられる自信すら無かった。


 ケイカはようやくベッドから起き上がった。サンジャオを目覚めさせないよう、細心の注意を払って足を一本ずつ毛布から引き抜いた。


 ベッド脇に立ってスカートの皺を直し、埃をはらった。


 気を失った時にぶつけたせいか、片膝が赤くなっていて、しくしくと傷んだ。


 すぐ脇のテーブルに、薬が二粒と中身の入った紙コップが置いてあった。「起きたら飲んで」とメモが添えてある。横になったおかげで、ケイカのお腹の痛みは落ち着いてきていたが、ありがたく錠剤をひとつ含んだ。湯冷ましの優しい感じが口の中に広がった。


 保健室には当直の先生の姿はなく、自分たちの他は誰もいなかった。ケイカはベッドの毛布の一枚をサンジャオの肩にかけ、部屋をあとにした。親友を置いていくわけではない。カバンを取りに教室に寄ってから、迎えに来るつもりだった。


 職員室に近い廊下はあまり来ない場所だったので、ケイカは落ち着かなかった。通路を進んでいくと、広い階段が見え、そこを三階まで上がればそこが色楽者たちの教室だった。


 ケイカは誰もいない教室に入り、最初に自分の机に向かった。脇のフックにかけていた自分の鞄を持ち、振り向いて一番前のサンジャオの所まで来る。クラス最年少の少女の席はどこか淫らで、汚らしい。校則で禁じられている少女漫画の背表紙が、机の中からはみ出して見えた。


「ガキンチョ」ケイカは溜息をついて、それらをサンジャオの鞄に乱暴に放り込むと、さっさと部屋を後にした。


 階段を降りた爪先が、一階のタイルを踏んだ時、彼女は前に来た保健室とは反対側の通路を、なんの気なしに見た。


 長い廊下が続き、その突き当たりに頑丈な作りの扉が見えた。その部屋の用途をケイカは知っていた。


 この学校には二つの音楽室がある。片方は通常の生徒用、もうひとつが色楽クラス専用の設備になっていた。彼女が見ているのは後者だった。


 そういえば今日は楽器に触っていなかったな……


 ケイカは二人分の鞄と巾着を持ち直すと、誰もいない廊下の真ん中を歩いていった。


 音楽室の前までたどり着くと、重い扉を肩で押して部屋に入った。


 狭く短い通路を抜けると、部屋は奥にぐっと広がっていた。


 毎日演奏され、手入れされている楽器たちが見える、特に大きなコントラバスや打楽器などは、部屋の奥に太陽光に当たらないように並べられていた。


 壁の少し高い所に、偉大な楽師たちの肖像画が飾られていたが、いまは埃を被っていて、光の加減でそれぞれの顔がよく見えない。


 予想していたとおり、部屋の中には誰もいなかった。ケイカは部屋の明かりを点けると、部屋の奥へと歩いていった。


 穴の空いた多孔質の壁の前を進み、自分がいつも愛用しているグランドピアノの前に立った。


 上蓋はそのまま開けずに、ケイカは持っていた荷物をその上に置いた。覆いを外し、鍵盤だけを叩いて曲でも何でも無い単音を出してみた。


 きちんと調律され、温度も湿度も最適なこの部屋では、器が不調であるという事は滅多にない。だからこうやって今も美しい音が響いているのだけれど、色に関して言えば、はっきり言って全く安定していない。同じ白鍵を叩いているはずなのに、綺麗な純色であったり、濁って見えたりしている。ひどい時には定着化スタビライズせずに、色が瞬いたり、パターンが欠けたりする。


 自分が感じているイメージすらこうだとしたら、他人にはどんなに不細工に映るのだろう。レッスン中の楽師の刺すような視線が頭をよぎり、ケイカは身震いした。ピアノを触りにきたことを少し後悔し始めてきた。


 体調が万全だったら平気よと、自分を鼓舞するが、さっそくあの憎らしいエウカリスの残した言葉が思い出され、ケイカの希望の芽を摘みにかかる。


 ケイカは大人びた見た目や態度を取ってはいるが、まだほんの十三だ。彼女に誰かと心を交わした経験がないことは、本人がよく知っていた。年上の女性への憧れなら今でもある。けれどそれはまだ蕾であって花ではない。人づてや小説から知識を得て恋という言葉を口に含めば、甘いという事はわかるだろう。けれどそれを噛み砕いて、理解して飲み込み、自分のものにできないのなら、意味はない。


 エウカリスが言うまでもなく、今回の課題は特に、自分の解釈を表現していく事が求められている。そうでなくては、ただ曲を演奏して金を投げてもらう大道芸者という評価で終わってしまうに違いない(それでもサンジャオよりかはお金を稼げると、本人は思っていたが)。


「わかってるんだけど……私にはどうしようもないよね」


 ケイカは友人の前では出さなかった弱音を初めて吐いた。本当はエウカリスの前で言い返したかった。でも駄目だった。不機嫌のせいにして黙ったり、怒りに任せてキレてみたけれど、あとから押し寄せたのは途方もない後悔と虚しさと……。


 ピアノの前を離れ、窓の鍵を外して、部屋に空気を少しだけ入れた。まだ若干雨の匂いのする風を吸い込む。二度目の息を全部吐き出して、押しつぶされそうな気分が少しだけ、ましになった気がした。


 ケイカはふたたび自分の楽器の前に戻り、腰掛けた。


 まだ課題の事を考えていたのだけれど、つい鍵盤の上を撫でた指が形を作り、ケイカは曲を奏でていた。それは指鳴らしの為の練習曲を連ねた小曲で、幼少の頃から欠かさず行っている、日課のひとつだった。


 細い指がしなやかに黒と白の上をうねっては戻る。何も意識しなくても指が動くので、弾いていることにすら気づかない時が良くあった。


 そして今もそうだった。ケイカはいつしか体の痛みを忘れていた。深い思考に意識が沈むほどに、少女の指の速さが増していく。もしケイカの意識がここにあったら、ピアノから霧のように湧き出てくる色の移ろいが見えただろう。


「たくさんある中でも、やはり紫色だね」


 突然、聞き慣れない音程の声が耳に飛び込んで来て、ケイカの集中を破った。


「うわっ!」驚きのあまり、ケイカは体制を崩した。肘掛けもない簡易的な椅子だったので、腰から下がくるりと回り、滑り落ちてしまった。


「いてて……」ケイカは痛みに顔をしかめた。今日は何度も体をぶつける運命に違いないと皮肉に思った。


「あれ、大丈夫かい?」むっと、窓の外から大きな影があらわれて、部屋の中を覗き込んだ。


 ケイカはぶつけたお尻を擦ることも忘れ、仰向けで四つん這いのまま、虫の様に窓から後退った。


「だ、誰?」頑張って出せた声はそれだけだった。前髪が邪魔して、相手の顔がよく見えない。


「驚かせてしまった。そんなつもりはなかったよ」


 ケイカは乱れた着衣を直し、膝をついて立ち上がった。光の角度が変わり、あらためてその人物の顔が見えた。


 男の人だ。ケイカは唾を飲み込んだ。あまり……いやだいぶ若くはない。体格が良いので勘違いしたが、むしろ老人と言ったほうが良かった。右頬に大きめのホクロがあった。茶色い毛糸の帽子からはみ出た髪も、口周りを覆う髭も白い。柔らかな西陽を浴びた顔の中央、丸いメガネの下のこれまた丸い目が、優しそうにこちらを見つめていた。


 最初は狼狽えたが、老人に疑わしい雰囲気はなかったので、ケイカは少しだけ距離を縮めて、椅子の端にちょこんと座り直した。警戒はしており、まだ気を許していないという態度は、ちゃんと相手に示していた。


 ケイカのような色楽の生徒たちが、年齢を問わず男性を警戒するのには訳があった。


 そもそも色楽とは、女性だけに取り扱える芸術である。そこに男性が入り込む余地はなかった。理由は明白で『男性には色が見えない』が答えだ。気質や感性のせいか、生まれもって体に刻まれている何かが足らないのか、原因は誰も知らない。ただ長い年月、片側の性だけで受け継がれてきたその芸術体系には、いつしかそれを学ぶ人の習慣的な面でも、男子禁制のルールが適用されていた。だから色楽の学び舎に、男性の姿を見ることは稀だった。


 そういった背景もあり、ケイカの異性への反応は致し方なく、条件反射的な拒絶に近かった。


「部屋から音が聞こえてきたものでね、つい覗いてしまった」老人は怯える猫をあやすような仕草をした。かつては白かったであろう軍手をしていたが、今は土色に汚れていた。「声をかけたついでに聞きたいんだけれど……白や黄色ばかりで、紫色が足らないと思わないかい?」


 ようやく落ち着いてきたのに、老人の問いに困惑させられ、ケイカは怪訝な表情になった。そもそも意味が通じない。何を言いたいのだろう。困って見つめ返しても、彼は好々爺たる雰囲気で微笑んでいるだけだった。


「えっ……」ケイカはとっさの思いつきに、体を震わせた。整理して、もう一度考えてみたが、他の答えが出てこない。


「そんな訳ないと思うけれど……」少女はおそるおそる尋ねた。「おじいさん、私の弾いた色が見えたの?」


「色?」老人の眉が持ち上がった。眼鏡が顔の中で斜めにずり下がる。「ああ、確かに色の話をしていたね」


「ま、まさか……だっておじいさん……でしょう? その……おばあさんじゃない方の」続く言葉を口にするのが恥ずかしいように、ケイカは遠まわしに説明しようとした。


「私はただの年寄りのじいさんだよ」


「そんなのって、誰にも聞いたことないし……ありえないし!」


「そうかね」老人は困った顔をした。「紫が良いと思ったんだ。私は一番似合っていると思うんだよ、特にこのクロッカスには」


「色まで具体的に分かるなんて……え?」


 ケイカはあっけにとられて、その後に続けようとした言葉を忘れてしまった。


 老人はいちど身をかがめて窓から姿を消した。再び頭を出した時、その手には背の低い玉のような花が寄せ合って咲いている鉢植えを持っていた。「色のバランス的に足らないように見えてね。だからもう少し植えても良いかと思ったんだ」


「花……ですか」ケイカは緊張で固まっていた肩の力を抜いた。危なかった……自分の中で十三年間つちかった常識が崩壊するところだった。やはり、私たち以外の他人――特に男性に色が見えるはずがないのだ。


「ああ。悪い癖でな。ついつい途中の話を端折ってしまう。ごらん、こっちだよ」


 先程よりも薄い警戒心で、ケイカは老人のいる壁際まで近づいた。促されるがままに窓から顔を出すと、すぐ下に小さな赤土の花壇があって、そこには白や黄色の可愛らしい花が植えられていた。こんな所に土があったこと自体知らなかった。考えてみれば、いつも厳しい指導についていく事に気を取られ、外を見る余裕はなかった。下手したら花を見ても、認識できなかったかもしれない。


「可愛い」ケイカの柔らかな唇から、素直な感想が漏れた。色もきれいだが、しっとりとした花びらが光に透けた質感が何とも言えず、花全体が輝いて見えた。


「どうだい? 私の自慢の花園だ」老人は軍手を脱ぎ、あごひげを手でしごきながら、嬉しそうに紹介した。


 右側を見ると、教室の壁に沿ってずっと土が盛られていて、そちらにも様々な早春の花が植えられていた。


 そのまま何気なく顔動かさないまま、視線を朗らかに笑う老人に移す。老人は作業用のツナギを着込み首にタオルを巻いていた。その上から学校の職員である証を挟んだ名札をぶら下げているのが見えた。どう見ても用務員のようだ。素性がなんとなくわかり、ますます安心したケイカだったが、少女にはこの老人を見かけた記憶がなかった。


「さてさて、誤解が解けた所で、もういちど意見を聞いていいかな。紫は嫌いかね?」


 ケイカは少し考えてから答えた。「紫は悩みとか困る時の印象を受ける色なんだけれど、この明るい花の色は、嫌いじゃない……です」あれ? わたし結構、真面目に答えてない?


「そうか……そうか……やはりな、それは良かった! では明日もう少し、ここに植えるとしよう」老人はとても満足した様子で、もぐもぐと言った。


 ケイカは陽だまりのなか、ひとりぶつぶつと呟くこの老人を、不思議そうに見つめていた。私の一言で彼がそこまで嬉しそうになる理由がよくわからないのだけれど、それを見ているうちに不思議と、ケイカの体にあった力みが抜けていく。


 そしてケイカは気づいた。自分がすっかり課題やエウカリスの事を忘れていた事に。



 窓の外でふわっと少し強めの風が吹いた。レースのカーテンが舞い上がり、音楽室に少し埃の混じった空気が入ってきた。


「誰かいるのですか?」


 ケイカが入ってきた部屋の扉の方から、誰何する笛のような音が鳴り響いた。消音の壁でも減衰しない、厳しい咎めの言葉。声の主はケイカたちの楽師だった。


 肌に感じていた温度が一気に下がった気がして、ケイカは身をすくめた。


「は、はい、先生。ケイカです」


 ケイカは窓から一瞬で向き直り、すぐに直立不動の体制を取った。指が生地に引っかかり、皺が寄っていたスカートのプリーツまでが、ピンと伸びたような気がした。


「自由練習の時間はもう終わっています」当たり前の事を告げているのに、老楽師の声はなぜか冷徹に聞こえる。


 こちらに歩いてくる教師に睨まれた気がして、ケイカはたまらず視線を下げた。本当のことを言えば、楽師の注意はケイカ自身ではなく、グランドピアノのあたりから、さらに少女を通り越して、窓の方へと向かっていた。カーテンの僅かな揺らぎに気づいて、目をきつく細める。


「まさかあなた・・・が練習していたわけでは、無いのですよね」


「ええと……はい。指を動かしていただけです」


「なぜ窓を開ける必要が? 前から言っていますが、器に無駄な湿気を与えないでください」


「……はい」


 老楽師は年齢を感じさせないしっかりとした足取りで、ケイカの前に立った。獲物の様子を伺う猛禽のように、目を伏せている教え子の顔を左右から覗き込む。


「教室にいた時からですけれど、顔色がすぐれません。帰ってしっかりと体調を整えなさい」


 老楽師は相当な年だが子供はいないと聞いた事がある。けれどこの人を相手に隠し事をするのは、母親を相手にするよりも難しいとケイカは悟った。


「これは何でしょう」


 教師の手の動きは素早かった。ピアノの上で半開きになった鞄に手を入れ、色豊かに印刷された本を取り出した。サンジャオの少女漫画だった。


 ケイカは音にならない舌打ちをして天を仰ぎ、うんざりと目を閉じた。あの馬鹿ジャオ!


「あなたがどんな本を読もうと構いませんが、そんな元気があるのなら、今すぐ考える事があるのではないですか? そもそもこんな物が音楽室にあってはなりません」


 楽師は本を手に持ったまま、ピアノの脇を通り、開いている窓に向かって歩いて行く。


 ケイカの心臓は高鳴った。先生は漫画を外に投げ捨てるつもりだろうか。彼女の怒りが凄まじいのはよく知っているが、それは授業中の話だ。日常の注意でそこまで乱暴に振る舞うのを見た覚えがない。


 しかしケイカの注意は本ではなく、別の所に向いていた。何か言いたげに足を一歩出すが、ためらって代わりに拳を握りこんだ。窓の外にはまだ、あの朗らかな笑顔の用務員がいるはずだった。彼はまったくの部外者であるのだが、この冷たく青い怒りの炎を吹き出している今の先生にひと睨みされようものなら、免疫のない老人の心臓は一気に凍りついてしまうに違いない。


 ケイカは老人に何の義理もないが、年配を敬う気持ちだけはしっかり持っていた。


「先生! あの!」


「何ですか、ケイカさん」答えつつも、楽師の足はまだ止まらない。


「私の色がいまいち、安定しない件につきまして! ええと……感情と色楽の関係をあらためて復習したいと思うのですが……お話を聞かせて頂けないでしょうか?」


 楽師の踏み出した足が止まった。ほとんど窓枠に手が届く場所だった。彼女は黙ったまま目線だけを動かして、校舎の外を二度見した。そのあと機械的に手を伸ばし、窓と鍵をぴしゃりと閉めた。


「職員室にいらっしゃい」楽師はそれだけ言うと、手に持った本をピアノの上に投げ置いて、先に出口の方へ向かっていった。


 音楽室のドアが閉まる音を聞いて、ケイカはようやく拳をほどいた。締め付けたせいで、中指と人さし指の色が赤と白の斑模様になっていた。


 膝の裏も痛かった。脚の力を抜いた途端に、ケイカはへなへなと崩折れた。良かった……漫画も返してもらえたし、おじいさんも救われた……と思う。ただしケイカのこの後の時間が犠牲となった。それでも好きな夕方のテレビ番組を観るのを、諦めた甲斐はあったかもしれない。


「おじいさんは?」足を引きずるように際まで歩く。窓は開けず、ガラスに張り付いて外を眺めてみたが、老人の姿はもうそこには無い。「帰ったんだわ……」


 ケイカは屈伸をして足をほぐすと、二人分の鞄を持って音楽室を出た。これから少女を長い拘束が待っている。


 どうせ家に戻っても課題は何も進まないだろうから、今日やれる事があったとしても、半ば諦めていた。


 廊下を進みながら職員室につくまでにも、足が重く感じた。何だか今日は色々な事があったなと、ケイカは一日を振り返った。


 ケイカは知らなかったが、まだその日の出来事の全部は、終わっていなかった。


 結局その日ケイカが家に着いたのは、夜の七時を回った頃だった。母親に遅くなった理由を尋ねられたが、適当にはぐらかしておいた。


 そう、別に真実を教える必要はない。


 鞄が見つからずに泣きべそをかいていたサンジャオを、慰めながら家まで送った事はケイカの胸の奥にしまっておいた。

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