第4話 出会い(3)



「ひゃー怖い怖い。何だい、あの婆さん」


 校舎を出て、車が止めてある校門の外に向かうまで、ユミは屋代にずっとその事を喋っていた。屋代はそれについて何も意見を言わなかった。執事の背中を見ていたユミは、彼がどこか怒っているように感じられた。


「冬馬さん!」


 呼び止められて、二人は振り返った。そこにはサエが立っていた。わざわざ追いかけてきたのだ。手には先ほどの演奏で使った楽器の高級そうなケースを持っていた。


「外で待っております」機嫌が悪いのか気を利かしたのか、屋代はそう言って、そそくさと校庭の脇を歩いていった。


「素晴らしい演奏だったわ」サエはユミの行為を素直に称賛した。


「ありがとう。君には通じたみたいだ」ユミはサエがあの音に動じていなかった事をきちんと見ていた。「よく分かったね、僕のやり方」


「ええ、だって私は皆と違って事前に見た・・のよ。他の人は見ていないじゃない」


「見たって、僕の事?」


「そう、あなたというより『あなたの本質』かしら。私は人を見る目があると言ったでしょう?」


「あんな少しの時間だけで? すごいや。でも心外だなあ。僕はそこまで全部を見せちゃいないけれどなあ」


「そうね、失礼な言い方だったわ。まだ見えていないものがある。例えばあなたの出す色とかね」


「……」この子はこの前もそんな事を言った。ユミはしばらく黙っていた。そして今度は逆に質問を返した。「さっきの君はとても優等生だったね。大人たちに馬鹿にされているとは思わなかったのかい?」


「馬鹿にされる?」


「あんな形ばかりの場で、口先だけの評価をもらうんだよ。その為に演奏するなんて、僕には耐えられないよ!」


 サエはくすっと微笑んで、子供を諭すような表情になった。


「まず、質問に答えるけれど、馬鹿にされたとは思っていない。だって、私もそうだもの」


「私も? 君も形だけってこと?」


「手を抜いたのよ! もちろんじゃない。あの人たちにも同情の余地はあるのよ。でも大人だから仕方がない。大きな利益ビジネスの為に動いているから」サエの言い方は論理的で淀みがない。「だから私も大人の対応をしたの。『ほら、弾いてあげたでしょう?』って分かるようにね。でも私も甘いわ。聞かせ過ぎちゃった。あの人たちのレベルを分かっていなかった」サエは残念そうに言う。「でも、あなたはそうは取らなかった。意図は通じていなかったけれど、演奏については気づいていたんでしょう?」


 ユミはこのお嬢様の言葉に驚かされていた。この子は自分が考えていたり、考えようとしている事まで、見透かして喋ってくる。一瞬サエに感じた失望は、実に浅はかな感情だった。サエはそんな事ぐらい、全部わかっていたのだ。わかっていて、さらに上のレベルでこなしていたのだ。こんな考え方をする人は、これまでユミの近くには居なかった。


 それに比べてただ感情に任せて苛立ち、悪戯を仕掛け、ニヤニヤと笑っているだけの自分が無性に恥ずかしく感じて仕方ない。


「子供っぽいって言いたいんだろうね」ユミの声には自然と悔しさがにじんでいた。


「そんなことはないわ」多少の勝利感を漂わせていたが、サエの声は柔らかい。「言ったでしょう。あなたに興味があるの。私、最初に駄目だと思ったら絶対にその人を見下してしまう。逆に最初に認めたら、私はその人に最大の信頼をおくわ。私のやり方かもね。どう? 私は高宮の娘よ。この学校で私に信頼され続けることのメリットって、考えたことがある?」


 意味だけを考えたら、とても恩着せがましく、尊大な物言いでしかない。けれどサエが言うと、小さい子供に手を繋がれ『私たち、友だちになりましょう』と言われているだけのように聞こえてしまう。


 ユミは黙っていた。疑っていたのではなく、正直答えが出せなかったからだ。


「あとひとつだけ、あなたの色を見せてくれたら、それでいいわ」


「どうしてそんなに僕の共感覚について回るんだい? だいいち僕はいま何の楽器も持っていないんだ」


「あら、もしかして自信ない?」見え透いた挑発行動。サエはわざとらしさを隠そうともしない。


「……。分かったよ。見せて差し上げますよ、お嬢様」


「光栄ですわ」サエは嬉しそうに笑った。「なら、私の楽器を貸してあげる。チューニングは――」


「このままでいい」ユミが遮った。


「え?」


「いや、やっぱりケースからそれを出して。君がそのうつわで、何か曲をって欲しい。そうしたら合わせるから」


「……合わせる?」


「いいから。さあ、見たいんだろう? 弾いてよ」


 初めて見るサエの困惑の顔。負けっぱなしだったので、ユミは少しだけそれを小気味よく思った。


 混乱しながらも、サエはビオラを構えると、少し抑えた音量でソナタを弾き始めた。


 ユミは目を閉じた。最初は音を耳で追いかけていたが、やがてサエが次の演奏に入ろうとした腕の振りと同時に、ユミはゆっくりと口を開いた。


 サエの耳に聞こえてくるのはユミの歌声だった。


 それまで場を支配していたのはサエの世界、サエの彩色だったはず。けれどそれに覆いかぶさるように、ユミの声の波がぶつかり、混ざりあい、滑らかなひとつになっていく。


 そして色が。


 サエが作り出した渾身の色、これ以上美しいものはないと自負していた完璧な色たちが、逆光を浴び、初めて本来の命を取り戻したように、内面から輝いていた。


 自分がコントロールしている世界という感覚が徐々に消えていく。サエは驚いた。ひとりでは作り出せない大きな物の一部となって、それを支えている全ての物と体を分け合うような感覚。個であり全体。それでも個からは、音も色も輝きも全く失われていない。


 サエは恍惚ともいえる初めての感覚に、弦を指から落としそうになった。しかし落ちる音はしなかった。指は力を失わなかった。


 彼女の精神を支えていたのは、サエ本来の強い意志と習慣の力ではなく、ユミ・・だった。ユミの吐息が長いサエの指に絡まり、助けてくれる感覚がする。歌を通して「続けていいんだよ」というメッセージが、心に流れ込んでくる。それが力の源になっていたのだ。


 サエは突然の覚醒で、曲を弾く腕を止めた。高級なソックスに砂がつくのも構わず、膝を落とし、ハアハアと息を継いだ。危なかった。弾くの止められたのは、サエに残された最後の意志の力だったと言っていい。


 怖いと思った。誰にも――おそらく親にさえ――開いたことのない心の一部を、この少し不貞腐れた女の子に許してしまう所だった。むしろ本音は引き込まれても良いと望んでいた。


 サエはユミを見た。少女は今は目を伏せ、余韻に浸って鼻歌を歌っている。この少女の中には、まだ見えない何かがあるのかもしれない。両親も誰もそれを引き出せていないのだろう。なら私が・・それを見つけ、宙に放ってみたい。サエの心に、この原石を手に入れたいという欲望が沸き上がる。その為には――


「冬馬さん……」


「ん……ユミでいいよ。僕も面倒だから、サエと呼ぶよ」


「ユミ、良かったわ。やっぱり見立ては間違っていなかった。それ以上だったかもしれない」


「そう……それなら良かった。僕も本気の君を見せてもらえたから、楽しかった。また演ろうよ」


「ええ、もちろん。でも最後にひとつだけ、信頼の証を贈らせてもらっていいかしら?」


「え? まあいいよ、手短に」


 サエは今度は躊躇しなかった。背の高い少女の長い腕は、柔らかい肩を持つユミをすばやくその中に引き込んだ。


 驚いて目を瞬かせるユミの前髪を長い指で避けると、サエは唇をおでこに触れさせ、そしてスライドして鼻へ、そして上唇へと移り、やがて全ての呼吸いきを重ね合わせた。

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