第3話 出会い(2)



 これから入学する予定のまだ一年生未満の少女たち。その中でさらに数名の、色楽の教育を希望する者たちが、ここ校舎一階の音楽室に集まっていた。


 ここで楽器を弾いた者が、誰でも色楽の教育を受けられるわけではない。それは皆が理解していた。自分の演奏をアピールする。何年かのちに――もしかしたら高等部に至るまで待ったのちに――楽師のおさから声がかかる可能性・・・がある、その程度の期待でしかない。なのに彼女たちが真剣な目をして集まってくるのは、それが唯一の色楽隊への切符だったからだ(単に入学という面では、素行と学力の問題がクリアなら、理事長の懐を潤わせる為にも、断られる心配は殆どない)。


 この試奏が正式な試験では無い為、学年課題のような極度に張り詰めた空気は無い。進行はこうだ。演奏を行い、形ばかりの評価が師長たちから返されて、終わり。


 試奏会はこれから大事な時期を共に過ごす仲間との、最初の顔合わせの場になる。皆がそれぞれの顔をちらりと見、すぐに視線を反らすような場面がそこかしこで伺えた。ユミとサエのように、互いに面識がある少女たちは滅多にいないから、まだ会話は少なかった。


 少女たちになんとなく落ち着きがない理由について、お偉方は答えを知っていた。評価者席の端に、やたらと視線の厳しいひとりの年老いた女楽師が座っているからだった。


「高宮さん」


 関係者たちがそれぞれ持っていた入学者の書類に目を通している中、副楽師長が最初の演奏者を呼んだ。


 サエは、少女たちの間で誰よりも落ち着いていた。立ち上がってビオラを手にすると、その年からは考えられない威厳を持って、自らの曲を奏で始めた。


 一気に空間にサエの音と色が広がっていく。その多彩さと深み、移り変わりの見事さに口が開きっぱなしの者が続出した。走り出しで一気に試奏のハードルを引き上げてしまった。サエが楽器から顔を離した時、どの少女たちもうつつに戻り、私が先に弾きたかったと悔しがった。


 ユミはその様子を誰よりも無関心に眺めていた。確かに見事だと思う。けれど――こんな事を告げたらお嬢様は怒り狂うだろうが――それほどの表現だろうか? 教室に視線を巡らすと、ユミと同じ表情をしている者がたったひとりいた。それは老楽師だった。


 サエは誰にも目を合わせず、大人しく立って評価を待っていた。


「むっ」腰掛けて待っていたユミの片眉が、ぴくりと上がった。


 評価者たちは椅子を寄せて話を始めた。しかし何かがおかしい。耳をそばだてると、会話の端っこがユミの鼓膜をくすぐる。大人たちは手にした文書を読み、文字を指でなぞり、言葉少なに会話を交わしていた。


 ユミは直感で悟った。彼らは持っている紙についての会話をしている。サエの演奏の結果は、この大人たちの論点になっていない。


 結論は出たようだ。互いにうなずいたあと、代表して楽師長が口を開いた。「高宮さま……いや失礼、高宮さん。素晴らしい演奏でした。歓迎します。本学園にようこそ」


 ユミはそのペラペラの言葉に怒りを覚えた。思わず上品なお嬢様の方を期待して見る。しかしサエの反応といえば、黙ってお辞儀し、無言で椅子に戻っていっただけだった。


 自分でも何故ここまで苛つくのかわからなかった。それは評価への憤りでない。評価されない事への怒りだった。ユミの短い人生では初めての経験であり、少女は戸惑った。


 サエにはきつい返しとか、嫌な顔とか、そんなものを求めていたが、それは得られなかった。ユミはその時点で、少しだがサエのことを見損なっていた。実際は身勝手に自分の感情を押し付けようとしているとは、気づけなかった。


「冬馬さん」


 続けて呼ばれたのはユミだった。前に座っていたサエが少し振り返って、目の端で二番手を見る。同級生の表情にはっと驚いてから、サエの右の口角が微笑みで少し持ち上がった。


 ユミは返事すらしなかった。


「ユミ様」この部屋には付き添いの保護者も同席していた。の性格を良く知る屋代が、この沈黙を心配になり小声で促した。


 遅れてユミが立ち上がった。


「ええと、冬馬さんは……」副楽師長が書類を持つ手を止めた。名前の下にある広大な空白。そこには一文で、こう書かれていた。


『※特殊案件につき、添付された書類を参照されたし』


 こんな例外があるとは聞いていなかった。副楽師長は添付書類を探したが、どこにもそれが見つからない。彼女は問うように上司を見た。


 楽師長は胸元から、青い内袋付きの封筒を取り出し、そっと部下に手渡した。副楽師長は受け取った封筒の中から一枚の便箋を取り出し、目の前の机の下――自分の膝の上でその紙を広げる。


 副楽師長の目が極度に見開かれた。彼女はそのまま固まってしまった。顔の角度を変えず、瞳だけがいちど正面を見ようとして、すぐに元の位置に戻った。


「器を選んで、演奏を始めて下さい」その場を引き取ってそう伝えたのは、楽師長だった。


 その合図は聞こえていたようだ。すぐにユミは動いた。サエと違い楽器は持参していない。部屋を見渡し、自分の手足となる器を選びにかかる。


 ユミはとても器用な娘だった。冬馬家に入ってすぐ、楽器を触る機会を与えられたが、教師となった大人たちの誰もが驚いた。与えられた楽器の基礎的な使い方は、すべて驚異的なスピードで習得していった(中でもユミはピアノを好んだ)。


 馴染まないのは体の大きさだけですと、教師のひとりが屋代に伝えた程だった。


 この頃のユミは音楽しか頭に無かった。友達などできる環境でもないし、周りには同じ年代の子もいない。外出もひとりでは禁じられている。そんな中で籠もりっきりになって楽譜を眺め、半ば狂ったように演奏に打ち込んでいたとしても、誰が少女を止められるだろう?


 ユミは何でも弾きこなせたので、この場でどの楽器を選ぶかは、屋代にも想像がつかなかった。彼はおそらくピアノだろうと思ったが、気まぐれなあるじの行動は読み難い。


 少女が選んだのは弦楽器――バイオリンだった。時間をかけて選んだ割に、彼女はそれをいかにも価値がなさそうに片手で持ち上げ、穴でも探しているような仕草で裏側を眺めた。ふうんと言いながら、もう片方の手でストッカーから弦を取り出す。


「どうぞ」ユミの準備が整ったのを見て、ようやく動悸から復活した副楽師長が、先をうながした。


 ユミの音と色が、音楽室に鳴り響く――。


 予想を超えた異音が、教室中の壁に反響した。多孔質の壁を持ってしても、その音を吸音することはできない。何個もの金属をこすり続けたような不連続な音の波は、ギギギという擬音ぐらいでは表現できない不快さと破壊力を、観客達の耳にもたらした。


 執事の屋代だけは、年寄りで耳が遠かったので救われていた。


 続けて共感覚を持つ者たちが悲鳴をあげた。演奏音とほぼ同時に、生徒や教師たちの視界をフラッシュをいたよう強烈な明滅が襲った。不協和音を聞かされてしまったからだった。


 彼女たちは一瞬にして視界を奪われ、目が使い物にならなくなった。悲しいかな人間の性で、こんな時につい目を覆ってしまう少女たちがいる。共感覚の原理から言えば、まずは耳をふさぐべきだというのに。


 それを事前に実行している者がいた。サエだった。少女は何も被害を受けずに、手を膝に載せ、涼しい顔でユミの独演会をやり過ごしていた。誰もその理由が分からなかったが、屋代のいた角度からは、サエがどこからか取り出しセットしていた耳栓の青いスポンジが、髪の間からちらりと見えた。


「はい、おしまい!」


 ピタッと音が止まり、ユミの澄んだ声が響いた。行儀も礼儀も欠いた振る舞いだったが、気にもしていない。ユミは全部の悪戯が終わって、大人たちの反応を眺める事にした。


「あ、えーと……」意外にも副楽師長が最初に復帰した。ずり下がった眼鏡を持ち上げると、彼は即座に他の評価者たちに正気を取り戻させようとした。「み、皆さま。今回についてはどのように……」


 さあ、僕を落としてみろ! 彼らの当惑を感じ取り、ユミは心の中で嘲りの言葉を投げつけた。


 誰もが平常の五割ぐらいの判断しかできていない中で、いきなり老楽師が立ち上がった。何か対策をしているようには見えないのに、彼女は耳も目も通常のようだ。年齢を感じさせない早歩きで動き、あっという間にユミの眼前に立ち塞がった。


「あなたの『扱い』については協議の末、追ってお知らせします。そこの方、よろしいですね」最後の一言は付き添いの屋代に向けられていた。


 老執事は言葉なしに、ただ頭を下げた。


 老楽師は腰を折って顔を低くすると、ユミにしか聞こえないささやき声で、少女を歓迎した。「当学園へようこそ・・・・、ユミさん。これからもどうぞご自由になさって下さい。ただし、私の下につくまでの間、ですけれどね」

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