第10話 啓示
サエはゆっくりとした歩みで、学園の門の前にたどり着いた。
普段ならこの門を潜るのに、自分の足を使うことは無い。だが今日サエは車を呼んではいなかった。
サエの長い黒髪を校庭からの風が揺らす。その度に暗い表情が表に現れた。誰かがすれ違ったら、怪訝な顔をしただろう。そこには本来の高宮家の長女が持たなくてはならない、強い芯が失われていた。
私はそんな選択をしたはずだ。なのに
屋敷にいれば何も危険が無い事は、誰にだって分かる。けれど落ち着かなかった。
執事の伝えたことが真実だとすれば、ユミは身に起こる危険を避けられない。そんな事実を背負ったまま、沈黙を抱えるのが嫌だった。待つ事が怖いという、サエには初めての感覚が耐え難かった。
学園に着いて、門を前にしてすら、本音は一歩も前に進みたくなかった。だが遅くても歩くのを止められない。
サエはついに門をくぐった。これからどこに行けばいい? 答えられるわけがない。何をするのかもわからないのに。
サエは昔から問題を先送りにした事はない。なのに今も心に張り付いているユミの問題は、解決しないまま、胸にのしかかる病巣のような重みに成長していた。
私はあの執事の依頼を断った。彼はユミを心から愛している。だからあの優しげな男にそんな手段が取れるものかと、たかを括っていた。
だが私の断りの言葉を聞いた時の、老人の暗い表情が脳裏から離れない。彼がユミを愛しているからこそ、じわじわと計画に真実味が帯びてくる。執事は本気に違いない。
私は彼からユミを守れるだろうか。無理だ。屋代の力は組織的だ。対する私が個人の力で対抗するのは難しい。かといって家に頼れば、父に行動が筒抜けになっていまう。
いっその事、ユミに自身の体について真実を伝えたらどうなる? 屋代の希望も一緒に添えて。
そうすればユミは、屋代の愛に心を打たれ、色楽を諦めてくれるかもしれない。
もしくは反発して本気で課題に望むかもしれない。その時にサエがいなければ、ユミは確実に正式な色楽の座に登り詰めるだろう。
不幸な少女はようやく、自分が進むと決めた道を歩むことができるのだ。
だがその道は、サエが色楽を諦める事を前提に成り立っていた。
天に通じる道を目指す少女たちにとって、可能性があるのにも関わらず自らそれを捨てるのは、残酷過ぎる選択だ。
しかもサエは父からの勅命を背負っている身である。娘が色楽に入団すること。それは高宮財閥にとってビジネスであり、何十年に一度の大事な記念行事だった。最大顧客との安定したつながりを維持するパイプを、代々高宮の娘たちが繋ぎ直してきた。その流れを断ち切る事は、サエが高宮という名前を捨てる道を意味した。
サエの心の葛藤は、少女から不遜な笑みと自信を剥ぎ取ってしまった。こんな不安な気持ちは初めてだ。サエは自分をとことん情けなく思った。
サエの意思とは裏腹に、彼女の体は校舎の近くへとたどり着いていた。まっすぐ歩けなかったのだろう。サエは校舎の正面口からだいぶ離れた場所にいる事に気づいた。
ふと流れてくる風の中に、サエは色を見た気がした。
こんな精神状態なので、私の心が付けた落書きだろうか。最初は勘違いだと思ったが、そうではなかった。
サエが目で風上を追いかけると、その先には別の建物とその窓が見えた。
音楽室だった。
色楽者専用の音楽室。ユミと共にたくさんの時間を過ごしてきた部屋。外からこうして見るのは初めてかもしれないが、窓から透けて見える内壁の模様や楽器の配置が、少女にその場所の名を思い出させた。
近づいていくと、部屋にはたくさんの人影が見えた。
楽師先生や少女たちだけではない。もっと権威のある各職の長や、いかにも保護者に見える年老いた大人たちが立っていた。
並んでいる少女たちの
そうだ。これは入学前の試奏会だ。以前もこの時期に催されたのだ。
この風景を見た上級生たちは、誰しもが懐かしい思い出だと感じるだろう。心が麻痺していたサエにすら、そんな気持ちが流れてきた。
固まっていたサエの口元が少しだけ動いた。あのユミの演奏は傑作だった。私とあの老楽師だけが涼しい顔をしていたっけ。
あの時、私たちはこんな
二人で会話して弾いて演りあって……ユミといた毎日、私は高宮の娘でなく、ひとりの色楽を目指す少女として生きていられた。あの日々はとても幸せだった……。
ひとつの音楽が止んだ。副楽師長らしき人物が次の少女を呼ぶ
「次の方」
はい、という返事と共に少し緊張した面持ちの少女が前に出てきた。サエは遠い意識の端でそれを
少女は長めの金髪の持ち主で、ふさふさした巻き毛が肩に巻き付いていた。他の子たちと比べて少し大人っぽく背も高い。特徴的なのは薄い緑色の虹彩。若干だがその風貌に西洋の血が感じられた。
サエが受けたその少女の印象といえば、まだ弱々しい雛鳥のように頼りないものだ。親に言われるがまま連れられ、うながされてようやく鳴くだけの子供。
つまらないとサエは思った。どの子も同じようだ。あのユミのように、最初から私を強烈に引きつける存在なんて、どこにもいない。
サエの興味は瞬時に失せた。
金髪の少女は自分の楽器の前へと進んでいった。それは一台のグランドピアノだった。
少女は椅子に座り、深呼吸を繰り返した。はっとして何かに気づき、再び中腰で立ち上がる。
「あの、私、石野です……石野 ケイカ」思い出したように自らの名を付け加えた。
楽師たちがうなづく。座り直したケイカの指が動く。
サエは最初、小さな音だけ聞こえ、色は何も見えなかった。この精神下で感覚がおかしくなったのかと自分を疑う。
けれどそれは違った。
ケイカは目を閉じていたが、指は動いていた。小刻みに音を繰り返す動作で、一点に色を溜めていたのだ。この静けさは前奏のひとつで、次のジャンプのための予備動作だった。
準備が整った。目を開いたケイカは微笑みを浮かべて、そこに波を作るように腕を振るい、白鍵を流し弾いた。音が奔流となってはじけた。溜まった色水のほとばしりは、吸音材を物ともせず膨れ上がり、滝となって部屋中に降り注いだ。
共感覚者の力を持つ者たちは、恍惚の表情を浮かべていた。膨大だが心地よい音の波に耳を包み込まれ、流動的に変化する色の小人たちの踊りが目と心を癒やす。ケイカの色は小さな音楽室に収まらず、音が届く範囲全てに蔓を伸ばし、色の通り跡を残していった。
その色を目前に見ていたサエの体の中で、大きな音がした。何かが壊れる音。いままでサエの目を曇らせていた
突然、こみ上げる物を感じて口を抑えた。だが間に合わなかった。
サエは心に自分という意識が生まれてから、いままで一度もしたことがない行為をした。
吐いた。身をかがめ、声を出し、汚らしく吐いた。すべてのせり上がってくる止められない物を、体の中から追い出した。
出るものが無くなってもなお、荒い息を繰り返す。口から滴り垂れる液を手の甲で拭き取り、地面に唾を吐いた。
忘れていた。私は色楽になるのだった。
サエは悟った。そして音楽室で称賛に次ぐ称賛に包まれている金髪の少女を、前屈みのまま睨んだ。
「
サエは歯を食いしばった。肩がわなわなと震えていた。強大な相手への畏れが、その原因のひとつに違いなかった。けれどサエの中に流れる高宮の血は強者を迎え撃つ。強いものに立ち向かえるという暗とした喜びの感情に、血流が打ち震えているのだ。それがサエが共感覚の他に、両親から譲り受けた黒い賜物だった。
サエは立ち上がった。もう震えは終わっていた。少女の顔にもう陰りはなかった。サエはブレザーの内ポケットから小さなピンク色の電話を取り出すと、ホーム画面にある相手のエイリアスをタップした。
「……ああ、神山。私よ。お願いがあるわ。冬馬家の執事の屋代さんという方に
サエは辛抱強く待った。「はい、サエです。ええ、お忙しいところ申し訳ありません。実は、お願いがあります」サエは乱れた前髪をかきあげながら言った。
「私に……人の裏切り方を教えて下さい」
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