第11話 発表会(1)



「無い……」


 ユミはもう一度、楽譜がしまってある共用の棚の前に進んだ。全ての引き出しを開き、痛む体を屈ませて奥を確認する。


 少なくともユミの体はボロボロだった。黒髪の下には包帯が何重にも巻かれていた。肩から腕にかけてはメッシュのアームホルダーが通され、自由に動かすことは出来ない。何とか片足で歩けるが、それも子猫のような遅さでしか進めない。演奏に直接影響する小指は、第二関節が脱臼していると診断された。


 それでもユミは来た。医者の制止を振り切り、楽師の警告も無視して、この音楽室に戻って来た。それなのに楽譜棚の中に閉まっていたユミの色譜がどこにも見あたらない。


「こんな事をしてまで、僕を合格させたくない奴がいるってこと?」


 ユミの喉の奥から声が登ってきた。希望を失い、落胆を味わった者のヒステリックで乾いたわらいだった。


 その時、背後でガタンという音がなった。ユミは反射的に振り向いた。「誰?」誰何すいかする声に力がない。


「戻ってきたのね」


「サエ!」ユミは思わず級友を大声で呼んでいた。ようやく会えた! 懐かしさと、この状況で再開できた事に、目尻からにじみ出る涙を隠せなかった。


 サエの方はいつものように冷静で、まったく自分を崩さない表情で、そこに立っていた。その手に持っている何かくしゃくしゃした物を持ち上げて見せる。「もしかして、探しているのはこれかしら?」


「それは……」ユミは再び驚いた。それはユミが探していた色譜そのものだった。


「外の屑籠に入っていたわ。丸められてね。私が少し皺を伸ばしておいたけれど……」


 ユミは痛む足を引きずって、何とかサエの方にやってきた。無言のまま、痣で斑になった手でその紙を受け取る。


「……今日はひとり? 屋代さんはどうされたの?」


「ヤシロは最近ずっと体調を崩してて、休ませてるんだ」ユミは喋りながら懸命に、ピアノの上で楽譜の皺を伸ばしていた。


 サエはその様子を見ながら、ユミの後ろに立った。


「だいぶひどくやられたみたいね……その体じゃ発表会は難しいんじゃない?」


「ふざけるな!」ユミは突然、サエでは無い誰かに怒りを爆発させて罵った。「誰か知らないが、こんな陰険なやり方は絶対に許せない! 逆効果さ。ますます演ってやるって気持ちになってくる!」


「……色譜を隠した人に覚えはないの?」


「ああ、残念ながら。でもいずれ見つけてやる。ヤシロに言って、冬馬の力で……」


「あなたを突き落とした犯人は見つかったの?」


「それもまだ。でも僕は見たんだ。頭に……」


「頭に赤いリボンのついた二人組の女性?」


「そうさ! そう……だけど……え? サエ、どうしてそれを知ってるの?」


 サエは黙っていた。友人をじっと見つめている。もう毒は塗り終わっていた。後はそれがゆっくりと相手に染み入り、内側から効果を発揮するのを待てばいい。


 やがてそれはやって来た。


「え?」ユミはひどく混乱した。じわじわと浮き上がる真実が、ユミの子供っぽい甘えの膜を剥がしていく。


「う、嘘だよね。まさか……サエが? サエがそうさせたって言うの?」


 サエは肯定も否定もしない。


「学年課題に受かりたいから……なの?」ユミの思考は混乱の極みだった。「だって……サエだよね? 僕にだよ? 君がそんな軽はずみな事をする訳が無いじゃないか!」ユミは自分が崩れてしまわないよう、必死に叫んでいた。「ねえ、何か言ってよ!」


「ユミ……」サエは冷静に応じた。「あなたのその体は、最初から人よりも優れているの。文字通り天からの贈り物。それが『素敵な才能』である間は、それでいい。ただ優れているものは、脆さも併せ持っているわ。だから少し力を入れると壊れてしまう事がある」


「壊れる?」


「そう。色楽の道は困難だって、楽師先生に耳が痛くなるぐらい聞いているわよね? あなたがどれだけ光を放つ原石でも、その素材が脆ければ、研磨している間に本体が砕けてしまう。あなたの体はそれだけの圧力に耐えられる『石』じゃない。たがら言うわ」サエはユミを正面から見すえた。「ユミ、学年課題を棄権しなさい。あなたは色楽の世界で、輝く存在にはなれないから」


 サエの言葉は直接殴るよりも、ユミを激しく地に打ちつけた。ユミの口は開いていても、そこから反論の言葉が出てこない。


 サエは情けを見せずに言葉を続ける。「私はね。むしろあなたがそのまま天無に居たほうが良かったって思ってるわ。ええ、知っているの。つい最近だけれど、知ってしまったの。下の世界は知識と光と喜びに満ちあふれているけれど、そこには恐ろしい残酷さもあるわ。強くなければ歩き続けられない獣の潜む道が続いてる。あなたはそれに耐えられる子じゃあない」


「君なら……歩けるっていうのかい?」ユミの答えは弱々しかった。


 サエは黙って首を縦に振った。「私はそういう風に育ってきた。家族とか温かいものはすべて捨てても生きられる術を学んできた」


 それはユミの聞きたい答えとは違っていた。少女は目を強く閉じた。熱い水滴が幾つも頬を伝った。頭、体、手足。傷まないところなんてどこも無い。せめて心だけはと強がってきたのに、それすらも許されないとは。ユミの涙目に悔しさと憎しみの光が宿り始めた。「……僕が嫌だと言ったら?」


 サエは深い深い溜め息をついた。「それがあなたの選択なら、私は止めない。あなたに強制する事はできないわ」


「君が仕組んだんなら、今すぐ僕を止める事だって出来るだろう! その『力』で!」ユミが苛立って訊いた。


「私が? 残念ね。私にそんな力はないわ、まだね。ただ、演奏では手を抜かないし、全力でこの課題をやり遂げる。それだけ」


 サエは両手をあげると、そのまま答えず、踵を返した。その後ろ姿が扉の方へと消えていく。


「僕は諦めない!」ユミは去っていこうとするサエを、背中から強く罵った。


「その言葉、昔なら歓迎したけれど、今は聞きたくなかった」サエの声の終端と扉の閉まるカチリという音が、同時だった。


 部屋を出たサエは、歩きながら取り出した携帯を素早くタップした。「冬馬家」という文字がディスプレイで明滅し、呼出音が鳴ったのを確認すると、すぐに通話を終了した。


 携帯を元の場所におさめると、サエは視線を宙にすえたまま、楽師と級友たちの待つ講堂へと歩いていった。

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