第2部 トウマ

第1話 養女



 冬馬家は、天無と呼ばれる帝の血は持たないが、古くから天子の一族と共に生きてきた家系である。天無の広大な敷地を後にしたユイが、この冬馬家の養女として引き取られたのは三歳の時だった。


 ユイの小さな二つの瞳には、乳飲ちのみ子だった頃から、母親と呼ばれる存在は映っていなかった。母乳を飲む時はいつも、柔らかい乳房の代わりに温められた哺乳瓶を手にしていた。うっすらと記憶にある世話係の中年の女性たち。その姿もすぐに、目の前に広がる色の渦に飲み込まれてしまった。


 冬馬の家に入っても少女には母親はおらず、その役を引き受けていたのは、屋代という名の年老いた執事だった。男性なのでママと呼ぶわけにもいかない。小さなユイはいつも彼を『ヤシロ』『じい』と呼んでいた。


 五歳になった頃、突然ユイの持つ共感覚が、ひどく悪化した。原因は不明だった(この病はいつもそうだ)。治療の為に少女の居場所が冬馬の屋敷から、病院の広い個室のベッドの上になった。


 症状が落ち着くまでの間、ユイは横になって上を見て過ごした。音があっても無くても、天井という白いキャンパスの前に、無秩序に様々な色が波紋のように広がっては、消えていく。共感覚が鋭くなりすぎると、天井が見えなくなるぐらいの混色で視野が侵略される。そんな時できる唯一の対策は、ぎゅっと目をつむる事と、耳を塞ぐ事だけ。


 投薬の効果があったのか、少しづつだが病状・・は改善していった。めまいが少なくなり、ベッドの上で体を起こせるようになってきた。それからというもの、ユイの友達は黒くて四角いテレビになった。


『愛の戦士ミラクルワンダー!』


 病室からはいつも、アニメの主人公が悪を退ける戦いの音と、幼い少女が歌う高く美しい声の主題歌が聞こえてきた。


「ユイお嬢様、お食事の時間でございます」


 病院にいる間、投薬は看護師たちの役目だが、それ以外の世話は執事が付きっきりで行っていた。ドアが開き、曲がった腰の屋代がトレーを手に、おずおずと部屋に入ってくる。


 アニメに夢中のユイは、母親代わりの男の方を振り向こうともしていない。


「テレビの方は消させて頂きます」屋代がにべもなく言う。


「イヤだ!」


 ユイの抗議は聞き入れられず、テレビが喋らない暗箱と化した。部屋は食事の器を運ぶカチャカチャという音だけになった。


 ユイはベッドの上で口を尖らせ、無言でそっぽを向いていた。もっと騒いでやってもいいが、母親代わりのじいには、なぜかそこまでの文句は言えなかった。


 やがて不機嫌の抗議から戻ってくると、屋代が食器のとなりに置いた大量の錠剤を苦々しげ見つめ、いくつかを指でぴんと弾いた。


「くすり、ちゅうしゃ、てんてき、けんさ。たくさんのくだとまぶしい光……」ユイはぶつぶつと不平を並べ立てた。「ヤシロ!」


「何でございましょう?」


「どうしてわたしはいつも、閉じこめられているのだ? なぜ? 見ろ、じい!」


 屋代はユイが小さな指で示した先にある、病室の窓までよぼよぼと歩いた。少女がその歩みの遅さに歯噛みしているが、彼は気にもしていない。毎度の事なので、何を見ればいいのか老人には分かっていた。白いまつげの下の目で、はるか下に見える小さな公園を俯瞰する。豆粒のような小さな子供たちの動きが見える。園内を走っているようだ。


「じいは見ましたが」再び言う。「何でございましょう?」


「お前はあれを見てなにも思わんのか?」


「はて、私は目が悪うございますから……」


 ユイは喋る度にシーツを掌で叩き、強い口調で訴えた。「ほ・か・の・子・は! ああして楽しそうにあそんでいる! わたしだけいつもこんなモノにしばられて」少女は点滴の管を強く引っぱった。「がんじがめではないか!」


 老人は自然と微笑んでいた。最後の単語は聞こえないふりをした。「もう少しでしょうか。お体が良くなるまででございます」屋代は再び部屋の中央までゆっくりと歩いて戻った。


「じい、もういちどテレビをつけるのだ!」


「しかしお食事の時は……」


「言いたいことがあるから! 早く!」


 ふうと溜息を漏らし、老人は渋々とリモコンのスイッチを押した。再びテレビがつき、正義のヒロインがカラフルな怪獣を殴りつけているシーンが映し出された。


「ヤシロにはあれが見えんのか?」


「見えます。女傑が悪漢と戦っております」


「じょけつ? あっかん?? じいの言っていることはよくわからん……そうではなくて、あの色が見えんのかと、言っている!」


「……残念ながら、私にはそのお色は見えないのでございます。ユイ様もご存知でしょう」執事はかしこまって答えた。


「つまりこう言いたいのであろう。わたしは下の子たちと、ちがうのだと……」


 子供にありがちな感情の激しい変化だった。ユイは急に元気が無くなり、うつ向いてしまった。「白い服をきたやつらがいつも言っている。わたしは……『びょうにん』で『とくべつ』なのだろう?」


 眉毛の下に隠された屋代の目に、無神経な大人たちへの憤りの感情が宿っていた。だがその時ユイは顔を上げていなかったし、仮に見ていたとしても、老人の態度からは特別な感情は読み取れなかっただろう。


 屋代の温かい感情は優しい声となって、この小さく愛おしい少女に降り注いだ。「あたな様は決して特別ではありません。お体は間もなく良くなります。そうすれば心は自由です」彼はいっとき主従関係である事を忘れ、その節くれだった手で、ユイの小さな黒髪の頭を撫でた。


「……ほんとうか? きのうもそう言わなかったか?」ユイは上目遣いで訊いた。


 その時、ちょうど怪獣を倒したヒロインの決め台詞が室内に響いた。


はミラクルワンダー! このボイス・ビームで世界を救うんだ!』


 テレビの方を振り向いたユイは、それを聞いて意味を考えているようだった。何度も首を縦に振って、心の中で答えを反芻してみる。


「もうこんなものにしばられるのはイヤだ。わたしは……僕は自由になるんだ! せんろがある電車なんてだいきらい! これからは僕の足で歩くんだ!」

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