七本目:三年目の浮気

 まるでランドセルを玄関に投げ捨てて遊びに行く小学生みたいだなと、纏は駆けていく江坂の大きな背中を見て呆れて笑う。

 みんな声を出せないくらい、あるいは立ち上がって拍手をするしかないくらい、猫を被っていた天才に打ちひしがれていたというのに。

 奴はこの遊具は誰にも譲らないんだという無邪気な横顔をひっさげて、面を取ったばかりの悠に頭を下げに行った。

『賭けをしてくれ、水上悠。一本勝負だ』

 その声には、まるで婚約を申し込むような熱があって。

 馬鹿かもしれない。妬いてしまって、耳を塞いだ。

 ついでに、目も背けてしまえば良かったのにと思う。




『突ッきぃぃ―――――――――――っしゃああァアぁッ、たあぁッ!!』




 見ている側のこちらの方が、不思議と突き刺されたように痛い。


『……俺の、勝ちです。それじゃ、さよなら』


 そして突き刺した側の笑顔の方は、もっともっと痛々しそうだった。

 剣道部に入って、それから江坂を知って、三年目。

 初めて、春が辛かった。








 桐桜学院との練習試合が終わって、夕方五時の帰り道。

 胴着を入れたトートバッグを肩にかけて、纏は最寄り駅への帰り道を歩いていく。

 江坂とふたりっきりの、帰り道を。


「ううん、しかし凄かったな。俺はこんなに衝撃的な一日は初めてだ」

「そうね」


 ちょっとだけ紅く染まる頬は、夕陽のせいだろうか。


「あの剣姫がまるで赤子のようだったよな! あんなに綺麗な逆胴は見たことないぞ!」

「……そうね」


 おそらく、違う。


「きっとあれでもまだ本気じゃないんだ……! 見たか? あの突きを! 高校剣道をやったことがないとは思えん! さすが六大道場――」

「そうねぇ! あーあーほんと、楽しそうで良かったわね!」


 思わず、舌打ちと共に叫んでしまった。こんな予定じゃなかったのに。

 不機嫌に牙を尖らせて江坂を睨むと、奴は首を傾げて目を丸くするばかり。

 また腹が立った。


「何だ? 何をそんなに怒っているんだ?」

「うっさいわね! 自分で考えろこの馬鹿!」


 ふいと前を向いて、江坂を置いてずんずん進む。不細工に顔を歪ませて唇を噛んだ。

 何なんだこの馬鹿は。

 そりゃあまあ、一緒に帰るなんて今更なんら特別じゃないけど。けれど、目の前にこんな美人がいるのにそっちのけでよその男の話とかそれはなくないか。

 しかし何で男相手にこんなにイライラしてんの自分? 馬鹿か? 彼女にでもなったつもりか?

 というか、妬いてる云々以前にものすっごく気に入らない!


「負けたくせに、何笑ってんのよっ……」


 どうしてこっちの方が悔しがっているんだ。あんなに、あんなに練習していたのに。

 今、信じられないほどブスだろうから絶対に顔を見られたくない。

 身体の大きな江坂に歩幅で追いつかれないくらい早足で歩いていると、一瞬で駅に着いてしまった。


「……あ」


 失態だ。

 もっとゆっくり歩けばよかった。せっかくふたりきりで話せる機会だったのに。

 纏は報復の妖術でもかけるように、後ろの浮気者を振り返って睨む。

 悋気に支配されているこちらとは対照的に、穏やかに笑って息をひとつ吐いていた。


「それじゃあ立花、また明日な。俺はこっちだ」

「え? あんたどこ行くの? 帰らないの?」

「ん。少しウィステリアモールにでも寄ろうと思ってな」


 ウィステリアモールは藤宮高校から徒歩二十分ほどの位置にある、少しだけ大きなショッピングモールだ。服屋から本屋、もちろん外食屋さんも沢山揃っている上に映画館まである。

 よってモールは、藤高生徒の寄り道の聖地なのだった。


「……あんたが寄り道? 珍しいじゃない」

「まあ、たまにはな。ちょうど買わねばならんものもあることだし」


 それじゃあな、と江坂は背中を見せる。「……ま、待ちなさいよ」


 制服を引っ張るなんてあざといことはできないけれど、せめて言葉で引っ張る。


「あたしも行く」

「……構わんが、つまらんぞ?」

「い、いいって言ってんのよ。付き合ってあげるわよ別に」


 顔を逸らして指先で毛先をくるくる回す。そういえば、今日は本来休みだったはずなのだ。練習試合なんかに奪われて、代価を貰わないと収まりがつかない。


「その代わり。……家の予定ないんだったら、ど、どっか夕ご飯付き合いなさいよ」


 あたしはお腹が減ったの、と聞かれてないのに言い訳する。

 いらいらしているようにローファーをぱたぱたしていたが、早回しになる鼓動をごまかしているだけだった。

 別にデートじゃないデートじゃないこんなのただの買い物だし勘違いすんなこの馬鹿――


「ああ、構わんぞ」

「よし! じゃあ行くわよ! 早く!」


 きた! デート! よっしゃ!

 浮かれた自分を隠すように、胴着入りのトートバッグを振り回してぼこぼこ江坂の身体を叩く。笑顔のこっちと違って、江坂の表情は曇っていった。


「言っておくが、奢らんぞ?」

「え? なーに? 聞こえないわー!」

「……お前なあ。どこまで自己中なんだ」

「いいじゃない別に! それのどこが悪いのよ!」

「全部だろ……」


 有頂天。ワールドイズマイン。今日はよく分からないけどきっとサラダ記念日。

 世界は立花纏を中心に回っているのだ。

 ……そう思っていた。この瞬間までは。




 × × ×




「あれえー? 纏だー。江坂くんも。ねえねえ何してるの? デートなの? ねえねえ」

「貴様ぁ……ッ」

「おお、幸村。偶然だな!」


 大誤算だった。

 お腹が空いたから先にご飯を食べようと決めてしまったのがいけなかった。

 天気も良いし気温も暖かくてまさしく春といった感じだから、二階のテラスで食べようと提案したのも敗因のひとつだ。

 場所取りにとふたりでうろついていたら、捕捉された。

 同じくふらふらしていた、私服姿の天敵こと幸村円香に。


「なんであんたがここにいんのよ。つーか何で着替えてんのよ」

「そりゃあ、一度家に帰ったからだよ? 知ってるでしょ? わたし家この辺だもん」

「ああ、そうだったな。そういえば幸村、今年も母の日は頼んでいいか?」

「あっ、うん! いいよ! カーネーションだよね? ……えへへ、毎度ありがとうございます」


 手に持ったクレープを口でくわえて、円香はにこにこ顔と一緒に揉み手を作る。

 円香は花屋のひとり娘だ。

 この時点で、何か女として途方もない敗北を喫している気がする。

 いい匂いするしおっぱいあるし、それにクレープまで食べてるし。


「……あれ。このモールにクレープ屋なんてあったかしら?」


 美味しそうだ。一度食べてみたい。

 ひとりで並びに行くのは恥ずかしいが、江坂に言えば付き合ってくれるだろうか。


「あっ、これはね! これはね! 最近できたんだよっ! おいしいの! もうわたしヘビリピしちゃってるんだから! 最近、お休みの日はこれキメないと落ち着かないの!」


 早口でまくしたてて顔がキラキラとする円香の一方で、こっちサイドは冷めて引いていく。江坂が腕を組みながら言った。


「薬か何かか?」

「完全にシャブよね。だからデブるのよ」

「デブってないもんっ!? 最近500gも痩せたんだから!」

「それはもうただの誤差だろう……。というか、体重なんてそんなに気にすることか?」

「江坂、殺すわよ」「死にたいのかな?」

「……す、すまん」


 殺意を込めて円香と睨むと、一歩も引かない上段の使い手が簡単に後ずさった。

 そうやってすぐに隙を晒すから、最凶の女に間合いをじりじりと詰められるのだ。


「ねえ、江坂くんも食べてみる?」

「……ち、近い。寄るな」

「そんなこと言わずにさー、美味しいよ? ほらほら、あーん?」


 腹黒たぬきな円香の笑顔が、江坂ではなくずっとこっちを見ている。虫を残忍にちぎって遊ぶような幼児の笑みで。


「ぐ……ッ」


 反応したら負け。反応したら負け。反応したら負け!

 毎回毎回手のひらで転がされてしまうのは我慢ならない。そんな思いで、いつもは考えるより先に出てしまう足を気力で止めていたら、ちょっとした予想外が起きた。


「いや、本当に俺はいい。幸村が食えよ」


 江坂が誘惑に打ち勝ってくれたのだ。思わず頬が緩む。


「えー? 恥ずかしいの? 遠慮しなくたっていいんだよ?」

「まあ恥ずかしいのは否定せんが、実は甘い物が苦手でな」

「えっ……」


 一体誰の口から、そんな尻尾を踏まれたようなか細い声が出たのか。

 振り返っても誰もいない。自分だった。


「あっ、そういえば江坂くんはそうだったね。忘れてたや」

「ん? 言ったことあったか?」

「バレンタインのときちょっと微妙そうな顔してたよねー。それで気付いちゃった」

「……すぐ顔に出てしまうな。気を遣わせてしまったようならすまない」

「あはは、全然大丈夫だよ。義理だったし。ちゃんとお返しもくれたよね。義理だったけど」

「……そんなに強調するなよ。流石に辛い」

「えー。だって甘いの嫌いなんでしょう?」


 じゃれるふたりに、なんだか着いていけない。

 もう三年も一緒にいるのに、江坂のそんなことも知らなかったのだと思うと少しだけショックだった。しかも円香は知っていたのに。


「……馬鹿じゃないの」


 なぜだろう。今日は妬いてばかりだ。

 肩にかけたトートバッグを両手でぎゅっと握りしめる。

 すると円香が、顔を傾けてこっちを覗き込んできた。


「どうしたの纏? ぼーっとして」

「……何でもないわよ。次からバレンタインはカレールーとかにしてやろうかしら」

「それはもう形しか似てないだろ」

「うっさいわね。ちゃんと辛口を買うわよ」

「そういう問題じゃない。お前、一ヶ月後にはナンで返すぞ」

「やってみなさいよコラぁ! ちゃんとインド人レベルのもん作りなさいよね!」

「お前が一体インド人の何を知っていると言うんだ。永久に踊ってろ」

「あんたこそ一回頭ガンジスで洗ってきたらどうなの? そしたら剣道馬鹿も治るんじゃない? はいはい、ナマステナマステ!」


 啖呵とメンチを切って、地稽古のときのように江坂とばちばち睨み合う。

 そうしていると、隣で見ていた円香がくすくすと笑い出した。


「何がおかしいのよ」「何がおかしい」

「いーえー。なんでもー♪」


 円香はぺろりと自分の唇を舐めると、残り少ないクレープをむしゃむしゃ食べていく。

 本当においしそうだ。思わず、ごくりと喉が鳴った。


「はーあ、美味しかった。……さて、晩ご飯は何にしようかなー?」


 絶対こいつそのうちまたデブっただの何だの騒ぎ出すなと纏は確信する。

 まあ甘い物は別腹という気持ちは、確かに分かるが。

 目を細めていると、江坂が円香に問うた。


「家に帰って食べないのか?」

「うん。今日ね、お母さんたち結婚記念日で外に食べに行ってるの」


 たまには夫婦水入らずでね、と円香が笑った瞬間だった。


「だったら幸村も一緒に食べないか? 夕飯」


 もう知ってた、この展開。

 纏はくうっと目頭を押さえる。


「……江坂くん。わたしは、夫婦水入らずって言ったよ」

「うん。だから誘っているんだが」

「……邪魔だよね。わたし」


 江坂は穏やかに笑って首を振り、円香の言葉を否定する。

 ああもう終戦だなと、纏はため息を吐いた。


「寂しいことを言うなよ。幸村が邪魔なわけないじゃないか」


 こんなことを言われたら、たとえ好きな相手じゃなくても女子なら嬉しい。

 しょうがないなという笑みを円香に向けると、やっぱり同じような顔をしていて。

 奴はなむなむと両手を合わせて言った。


「なますてー……」


 もういい。甘いのなんて。辛いのたくさん食べてやる。




 × × ×




「結構美味しかったわねー。あのインド人もなかなかやるじゃない」

「纏は食べ過ぎだよ。わたしなんてナン半分でも多かったよ……」

「そりゃ鍛え方が足りねーのよ。もっと精進なさい」


 話の流れでインドカレー屋さんからテイクアウトしてテラスで食べ、優雅に足を組んで食後のコーヒーをすする。女は黙ってブラックだ。


「んー。美味しい」


 辺りが薄暗くなってきたが、最近あたたかくなってきたので寒くはない。

 心地良い夜風と苦みを堪能していると、目の前で江坂の空席を見て円香が笑った。


「纏は江坂くんの前でもおかわりたくさんするよね。ラーメンだってふたりで食べに行くし」

「はぁ? 当たり前じゃない。今更そんなとこで遠慮してどうすんのよ」

「でもクレープ食べてるとこ見られるのは嫌なんだ? わたしのやつ、食べたそうだったのに我慢したでしょ」

「……う、うっさいわね。何か女子っぽくてハズいのよ!」


 かわいい所なんて見せたくない。化粧は大学からにするんだと封印しているが、すっぴんを見せたくないという気持ちが今分かった気がする。

 卓に両肘を突いて顔を覆っていると、ツボに入ったような円香の笑い声が聞こえてきた。


「纏はちゃんと女の子だよー。何言ってるの?」

「……そりゃ生物学上はね」

「あはは、よく言うよ。さっき江坂くんの話聞いてから急に機嫌良くなったくせに」

「な、なって! …………ない………ことも…………。…………あ……」

「うわー無自覚ちゃんだ。かわいいなあ」

「るっさい!」


 真っ赤になって言い返す。本当に恥ずかしくなって、顔を空席に向けた。

 いないのは恋バナになったからだ。途中で「先に用事を済ませてくる」と言って逃げたのだ。


「……ん? ほほーう」


 円香は携帯を取り出して画面を見ると、にやにや笑い出す。両手でタッチして上機嫌に返信らしきものを打ちながら、また話し始めた。


「江坂くんねー。桐桜学院に誰かいい子いなかったのーって言ったら、そんなに強くないから興味ないなって言うし。吹雪ちゃんかわいいよねって言ったら、何か遠慮してしまって本気になれん。立花の方がやりやすい、でしょう?」

「……どうせ全部剣道基準よ、あいつは」

「そんなことないよ? 帰る前、史織ちゃんの入部届もらったときとか面白かったな」

「えっ、あいつ入ったの?」


 あの自分と同じ匂いがする問題美人が。悔しいレベルでかわいいから、きっとみんなでれでれし始めるんだろう。……気に入らない。


「うん。そのとき江坂くんも隣にいてね。……ふふ、何て言ったと思う?」


 首を傾げてかぶりを振る。もういい。

 どうせ三年一緒にいたって、分からないことは沢山あるらしいから。


「『嬉しい。あいつは立花と似ているところがあるから、きっと強くなるぞ』ってね」

「……そんなに似てるかしら。別に嬉しくないんだけど、それが何?」

「もー。纏は頭いいのに時々鈍いなあ。分かんないの?」

「何がよ」

「江坂くんの女の子の基準、全部纏と比べてどうかなんだよ?」


 あ、と間抜けな声が出る。

 そしてどんどん顔がかあっと熱くなっていく。照れ隠しでコーヒーに口を付けた。


「ねえ、もう空っぽだよそれ」

「……るさい」

「甘いなあ。さすがのわたしでも胸焼けしちゃうなー♪」

「うっさい! 脳みそ挽いてドリップしてやろうか!」

「……口悪いなあもう。わたしに噛みついたってしょうがないでしょう?」


 くすくす笑って、円香は携帯を離す。残ったタピオカミルクティーをずずっと啜った。

 その目はこちらを見ているわけではなくて、どこか遠くを見つめているようだった。


「ねえ。水上くん、すっごく強かったね。吹雪ちゃんは強くても女子だからまだ分かるけど。……江坂くんが負けちゃったの、わたし、久しぶりに見たな」

「……そうね。多分まだ、あれでも抜いてたんでしょうけど」


 つまらなさそうだった、という抜き方ではない。

 あんなに綺麗な対上段の構えなのに、途中から切っ先が迷って泣いているようで。

 打ちたくない。勝ちたくない。頼むから隙を隠してくれ。

 目を背けるように迷った剣先が、最後は何かを堪えきれずに喉元に迸っていった。

 そんな一本。

 悲しそうだった。獰猛で、破滅的で、なのにちょっと儚くて。


「……綺麗だったわね。初めて剣道してて、鳥肌立ったわ」

「うん、わたしも。……えへへ。あんな子にわたし、綺麗って言われちゃった」


 にぱっと円香は笑う。

 恋する乙女という感じではなく、新しいおもちゃを見つけた小学生のような。

 ここに来るまでの道中で、江坂が見せた表情とそっくりだった。


「あれが多分、纏の一番のライバルだね!」

「……三年目にして、とんでもない奴が出てきたもんよね」

「あはは、いいじゃん。マンネリ解消で。……ていうかそもそも、なんで纏は正妻面してるの?」


 まだ結婚してもないくせに、と円香は笑って首を傾ける。


「ちゃんと綺麗になる努力しないとね。ぽいっと捨てられちゃっても知らないよ?」


 肯定するのも恥ずかしいので、黙って顔を逸らすことで答えにした。

 ――頑張らないと駄目ね。これからも。

 そんなことを真面目に考えてしまって、くすりと笑ってしまう。


「戻ったぞ。すまんな、時間がかかって。……おい、立花」

「え? ……あ」


 戻ってきた江坂の方を振り向くと、あんまりにも似合わないものを左手に持って差し出していた。


「な、なんで……?」


 目を丸くして言葉を失う。

 幻覚でもなんでもない。江坂が手に持っていたものは竹刀ではなくクレープだった。


「さっき食いたそうにしていただろう? ほら、遠慮するな」

「……あんた、わざわざ買いに行った、の?」

「本屋の帰りに偶然見つけたから買っただけだ。勘違いするな」


 手を出したまま、江坂がそっぽを向く。どこかの女みたいな言い草で。

 その背後で、円香が携帯の画面を自分にだけ見えるように示してきていた。




[江坂仁] さっき食べていたクレープの店、あれはどこにあるんだ?




「……馬鹿ね」


 こんな厳つい男がきっと女だらけのクレープ屋に並んだのか。自分のために。


「……ぁりが、と」

「うん」


 受け取って、鏡写しのようにそっぽを向いた。だらしない顔を見られたくない。

 食べた分、明日からいつもより部活を頑張らなければいけないだろう。

 練習はもちろんのこと、こいつがこの美人を差し置いて夢中になる男の勧誘も。


「美味しいわ」

「そうか。良かった」


 でもまあ、仕方ない。悔しいけど自分だって女の子だ。

 甘い物を奢られてしまったら何も言えない。

 三年目の浮気ぐらいは、見逃してやるかな。


「……ねえ、一口食べる?」


「いや、いらん。甘い物は本当にキツいんだ」


 江坂の答えに、唇を尖らせる。

 ちょっとぐらい、口を付けてくれてもいいのにな。


「そう。残念ね」


 笑顔を隠すように、それからちょっとだけ未婚であることを嘆くように。

 まだ交わせない唇を、そっとクレープに当てた。




 × × ×




 月曜の早朝、櫻の花びらが窓から入ってくる生徒会室でひとり、纏はパイプ椅子に座って足を組む。携帯を横向きに持った。

 行動は計画的に。情報を沢山集めて完全に押さえて、必ず水上悠を攻略してみせる。

 吹雪と悠が戦う動画を見ながら、にやりと纏は笑った。


「しっかし、誰が撮ってたのかしらこれ。藍原先生?」


 吹雪と仲良くなっておいて良かった。

 連絡先を交換しておいたお陰で、動画を貰えたのだった。

 堪能していると、悠が逆胴を振りかぶる。


「……何よ」


 雷のようにしなやかで激しいそれが、美しい剣姫の心臓をかっさらっていった。


「ちょっと、カッコいいじゃない」


 もしかして浮気かな、とくすくす笑ってみる。

 知らなかった。正妻面というのは、どうやら笑顔であるらしい。


「あのー……。すみませーん……」

「あら、水上! おはよう!」


 携帯の動画を止めて、おっかなびっくり生徒会室に入ってきた悠のところへ歩く。


「あっ、立花会長。おはようございます」


 きっと緊張していたんだろう。

 見知った顔を見て、へにゃっと安心して笑う顔がかわいらしいと思った。

 剣道をしているときとはまるで別人だ。なんだか、頭を撫でてやりたくなる。


「その立花会長っていうの、やめなさい? 部員はそう呼ばないわ」

「あ、そうなんですか? じゃあ、立花先輩」


 首を振って却下する。

 まずは、仲良くなるところから。勧誘するのはそれからだ。


「纏さんって呼ぶこと。服従なさい」

「……俺様だなあ。剣道に向いてますよ」

「よく言われるわ」


 顔を合わせて互いに笑っていると、ふと気付く。

 昨日に比べたら、少しだけ悠の表情から、憑きものが落ちている気がする。


「で、どうしたの? 私に何か相談事? 任せなさい、権力で全て解決してあげるから」

「……それじゃあ、纏さんの権力を見込んで。これを」


 ぴっ、と一枚の紙を渡される。

 不思議と昨日、クレープを手渡された瞬間がリフレインした。




『入部届』




「賭けに負けたから」と書いてある入部理由がとても気になったが、これはまあ、後で必ず江坂を問い詰めるとして。

「……はい。確かに、受理します」 


 甘い春の予感がして、纏は微笑む。

 両腰に手を当てて、一番強い恋敵の到来を歓待した。




「ようこそ、剣道部へ。楽には死ねないわよ!」

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