三本目:私を離さないで!


 背中にも目がついていればいいのに、と史織は愛しい人の背中にその目で訴えかける。


「なーなー、ゆーくん。抜き胴のコツ教えてや! なんかあんま試合で決まらんねんよー」

「水上。それが終わったら、さっきの引き小手の続きを教えてくれんか?」


 練習が終わると、道場のスターはみんなを引力で惹き寄せてしまう。

 へにゃへにゃ笑ってみんなに囲まれるその人を、後ろからじっと睨んでやった。

 もっと教えてほしい。構ってほしい。……目を離さないでいてほしい。

 素直に言えないけれど、ただ焦っていた。

 ――早く、乾吹雪に追いつかないと。

 史織は両手で強く切なく竹刀を握って、視線をコンタクトレンズ越しに浴びせ続ける。

 すると。


「ごめん、今日は閉店。今から貸し切り」


 祈りが通じて、振り返った悠となんと目が合った。

 竹刀を持ってゆっくりと歩いてくる。


「ずっと睨んできやがって。俺相手にいい度胸してんなあ、相変わらず」

「……ば、ばれて」

「当たり前だよ。後ろにも目ぇついてんだぞ」


 竹刀を持った手で、こぉんと胴を叩かれる。

 きっとそれは、にやりと格好良く笑む先輩の姿に、心が高鳴る音だと思った。


「稽古つけてやる。言っとくけど、逃がさないからな?」

「……はい」


 ああ、お恥ずかしながら幸せ。最高。このまま逃がさないで。そして離さないで――。


「よし、面着けろ。打ち込み稽古だ!」

「……はい?」


 そんな愚かなことを考えていた時期が、私にもありました。







 面を着けるのにもだいぶ慣れてきたが、やっぱりまだ時間はかかってしまう。道場の下手で正座してぐいっと面紐を結んでいると、観客三人が周りを囲んできた。

 何かと楽しそうなことがあったらやって来る千紘と、いつも居残って大きな木刀を振っている部長夫妻(未婚)だった。


「しおりんもとうとう打ち込みデビューすんねんなー。剣道部になってもうたな!」

「こんなに綺麗なんだから、普通に生きていれば良かったのにな。……おい、なぜ蹴る?」

「そこにあんたがいるからよ」


 まるで山でも登るみたいな言い草で、不機嫌纏キックが江坂に刺さる。

 全くやり返しも怒りもしないところが愛だなあとしみじみ感じた。


「そんなことばっかりしてたら捨てられちゃいますよ、纏先輩」

「……あぁ?」

「嫌ですねえ、性格キツい女の人って」

「史織、鏡はあっちよ」

「纏さんのことを言ってるんですよ!」

「はぁ? 何言ってんのあんた、コンタクト合ってる? あたし、去年の藤宮高校抱かれたい女ランキング、ちゃーんと第一位だから」

「(生徒会調べ)」

「誰が自演よコラァッ! あたしあんたみたいな女だけは絶っ対抱きたくないわ!」

「私だって纏さんなんかに抱かれたくないですー! ばーか!」


 面を着け終わってぽかすか殴り合っていると、千紘と江坂の冷たい目線が痛かった。


「どっちもどっちやろ」

「結局入るべくして入ったんだろうな、うちの部に」

「うっ、うるさいです!」


 居心地が悪くなって三人を振り払い、道場の真ん中で既に面を着けて立つ悠の元へ走る。

 まだ防具を着けると、どこか動きがぎこちなくなってしまった。


「よし、やるか。打ち込み自体は知ってるんだっけ?」

「い、いえ。やってるのを見たことしかないです。あのなんか、いっぱい早くばばばーって打つやつでしたっけ?」

「おっ、お前最近ちょっと頭悪くなってきたな。いいぞ。でも残念ながらそれはかかり稽古。じゃなくて、もうちょっと大きく振り上げて振り下ろしてるやつ。地稽古のあとにいつもやってるだろ?」

「ああ、あれですか!」


 いつもは地稽古が終わると、初心者組は下手に集まって大きな基本打ちに移行するため、あまりよく見られていなかった。

 剣道には打突が二種類ある。大きな打突と小さな打突だ。

 大きな打突は全ての基本で、例えば面だったら頭の上まで大きく振りかぶり、真っ直ぐ綺麗に振り下ろして前へと抜けていくのを一連の動作として行う。

 これを極限まで省略していくと、小さな打突になる。中段の構えから突くように真っ直ぐ飛び、最後の一瞬だけ鞭のように手首をしならせて面をずばんと打つのだ。

 試合では基本、小さな打突しか使わない。

 しかし何事もまずは基本ができていないと話にならないため、初心者は大きな打突を綺麗にしてから次のステップに移るのが通例だそうだ。

 今、史織は修行中の身。早く乾吹雪を消し飛ばすために次を教えてほしかった。


「じゃ、教えるぞ。打ち込みは、いわば大きな打突の総結集って感じの稽古。今から俺が元立ちに立って打つ場所をランダムに空けていくから、そこを打って端まで摺り足で抜けていってくれ」


 長方形のかたちをした道場の中心で、悠は長辺にあたる方面の壁を竹刀で指した。

 道場ではできるだけ広々と練習できるように、長辺と並行になる形で二人一組になるのだ。


「ちょっとやって見せようか。史織、構えて面空けてくれ」

「はー、いっ!?」


 一足一刀に構えた瞬間、振り上がった風がずばんと頭を通り抜けて後ろへと消えて行く。慌てて振り返ると、抜けていく悠の背がもう壁の近くにある。

 速すぎ――というか、綺麗に衝撃が抜けすぎて全然痛くない。それが一番驚きだ。


「ほらほら史織、摺り足! 遅いぞ!」

「は、はいっ!」


 懸命に構えて追いかけると、悠がもう振り返って右手を斜め前へとぐいっと伸ばして籠手を空けていた。


「はい真似しろ! 小手面打つから一歩ずつバック!」


 言われるがままに同じポーズを取ると、悠は今度はゆっくりと顔の前まで振りかぶる。剣先が描く円軌道が本当に美しくて涎が出そう。ふわっと振り上げられた竹刀が籠手を跳ねるように落ちてきて、その勢いでまた上へと上がって面へと落ちる。

 破裂音と踏み込みの床鳴りが心地良く道場を抜けていき、悠はまたしても風になる。

 今度は言われる前に追いかけると、壁に到達してまた振り返った悠と目が合った。


「面引き面だ、打たれたら鍔迫り!」

「はい!」


 一足一刀に詰め寄った瞬間、悠の両肘が綺麗な菱形を上へと描いて一気に前へと絞られる。ずばぁん! と頭の奥へと抜けていく衝撃と一緒に悠がぶつかってくる。

 男の人の体重が重たい。あと、それと、悠の顔が目の前――「うぎゅっ!」

 余計なことを考えているんじゃないと言わんばかりの引き面で視界が下がる。今のはちょっと痛いですと睨み上げると、悠との間にもう二足分空いていた。ワープか?


「体当たりのときは右足前出せ! こけるぞぉーよいっしょぉ―――――――――!」


 とどめの面を打って、悠が抜けずに真っ正面で竹刀を下ろす。笑顔だった。


「こんな感じ。大体分かったか?」

「えっと、もしかして面引き胴とかもあります?」

「ああ、あるある。体当たりしたあと胴を晒したら引き胴の合図だ」

「……ちょっとやってみてよいですか? あんまり分からぬ」

「よいぞ」


 渋く応えた悠から一足一刀の間合いを取って、打ちかかる。「はっ!」

 ふわっと力を抜いて振り上げて、肘をしぼって遠くに投げるように大きく面を打つ。すこーんと鳴った音に追いつくように摺り足をして、臍の前で竹刀を立てた悠に右足前で体当たり、反動で身体を後ろに蹴ると、悠が諸手を上げた。なるほど、こういうこと――。


「胴ォ――――――――――やああッ!」


 ばぁん、と左に弧を描いた軌道が上手く鳴る。三歩くらい後ろに残心を取ってから構えを戻し、まあこんなもんかなーと思っていたら、悠が籠手をつけた状態で拍手していた。


「おー。やっぱり呑み込み早いなあ。さすが史織だ」

「……ま、まあ? これくらい、当然ですけど?」


 ――うわー。うわー。うわー! 褒められた! 褒められた! 褒められた!

 見えないように顔を横に向けて、踏み込みの練習をする振りをしてばんばん床を踏む。

 至福の瞬間だった。


「まあでもまだまだ。ちょっと俺も引き胴打つから、鍔迫り合いから手ぇ上げてくれ」

「あ、はい」


 すっ、と密着して右拳を合わせて、悠の身体を押してみる。もう、無い。「えっ、わっ!?」


「ったァッ!」


 慌てて両手を挙げたのと同時に、風の塊が胴を打つ。

 ひゅっ、がぁ――ん! と、軽く打っただけなのに信じられない音がした。


「こういう感じでさ。腕だけで棒っぽく打つんじゃなくて、ちゃんと可動域意識してほしいんだよな。肩、肘、手首、それから指先も――」 

「……はあー。あのう、先輩」


 思わず悠の言葉を遮り、籠手をはめたままぽんと右肩を叩いてしみじみと首を振った。


「先輩って、剣道上手いし好きなんですねえー。ちょっと前まで、俺好きじゃないんだ剣道、強すぎて退屈だぜメーン? みたいなこと言ってたくせに、いやあ、私はちょっと感動――」


 悠の左腕が鞭のように斜め後ろからしなってくる。反応する間もなく、

 どっごぉん! という爆発音が脳天を襲った。


「あああああああああっ! いっだあぁあ―――――!?」

「御剣直伝、愛の鞭」

「なんで叩くんですかあっ!?」

「お前の性根が曲がってるから」


 視界がぐらぐらと歪む。

 鼻の奥がつんとして、両籠手で頭を押えてその場に座り込んでしまった。

 打ち方が最悪。肘を一番高くして、斜め上から竹刀の先っぽで抉り混むように打ってきた。


「ううっ。てこの、てこのっ、てこの原理ぃいい……! いだいぃぃ……!」

「ガタガタ言うな。竹刀じゃ人は死なない。吹雪が言ってた」

「殺す気だったんですか!? ただの冗談なのに! ていうか、何で乾が今っ……」

「はいはい構える。始めるぞー」


 ひどい。理不尽だ。乾には絶対叩いたりしないくせに。

 そんな不満を竹刀を握る手に込めながら、史織は道場の中央に改めて歩いていき、構えた。


「じゃ、やるか。六本打ったら終了な? ちなみに小手面、面引き面は合わせて一本でカウントするからな。数えんのは俺がやっとくよ」

「はーい。よろしくお願いします」


 何はともあれ、ちょっと楽しみだ。

 新しい練習だし。二人きりだし。今やってた感じだとちょっと楽しそうだし。

 何より、たった六本だ。すぐ終わるだろう。


「ようこそ史織、剣道の世界へ。それじゃ、さよなら」

「えっ」


 そんなことを思っていた自分を、今すぐ沈めたい。打ち込み稽古に。




 × × ×




「ほぉら声止まってんぞ―――! 遅い遅い遅ぉ――――い!」

「はっ、はっ……っ、め、ぇ――――――――――ンっ、やああっ!」


 ――しんどすぎ。この世の終わりなの?


「っ、……はっ、ぁっ……はっ……」


 史織は酸素の薄い面の中で、生を求めるようにひたすら喘ぐ。

 気持ちが悪くて吐きそうだった。

 肩が重い。どんどん上がらなくなってくる。

 足だって乳酸漬けで攣りそうだし、もつれてこけそうだ。


「頑張れ頑張れー! しっかり頭の上まで上げろー! 右手で振んなサボんなぁ!」

「は、い……っ」

「返事する暇あったら声伸ばせ! しっかり声に出さないと無効だぞ!」


 けたけた笑って、ふらふらの摺り足を悠が追尾してくる。

 さっきまではただの壁だったものが、今では唯一水中から息ができる天国に見える。

 その天国が、なぜかひたすら遠いのだ。こんなに近いはずなのに。


「って、……めぇ―――――――んっ!」

「最後まで抜けろ! 途中で振り返んな……って、あーあ。またやっちゃった」


 つい、伸ばした声を止めて息をしたくて。

 摺り足を止めて、次を打って本数を減らしたくて。

 そんな甘えに後ろ髪を引かれて、振り返ったら。


「はーい、駄目。またゼロからやり直し♪」


 心底愉しそうな、真っ黒笑顔の先輩が待っている。


「鬼ぃ……! せんぱい、きらい!」


 涙目になりながら、悠を睨む。最悪だった。こんなに真性のドSだなんて。


「ははっ、気持ちいいなー。じゃあやめる? 逃げる? 諦める?」

「……やめませんようっ!」


 しかも、こっちの弱点を的確に突いてくる。

 鬼畜だ。悪魔だ。本当に赤い血が流れているのか疑問だ。やっぱり、剣道星人には人間の気持ちが分からないんだ。そんな批難を浴びせようと思ったその瞬間。


「じゃあ、次でラストにするか」


 優しい笑顔が見える。ようやく、人間に戻ってくれた。


「せっかくだしタテでやって終わろうな、史織!」


 そんなことを一瞬でも思った自分をやっぱり殴りたい。


「た、て?」

「道場を縦向きに使うってこと。抜ける距離倍だな! わぁい楽しいね!」

「………………しんじゃえ! せんぱいのばか!」


 本当に、分からない。一体、どうしてこんな鬼畜を好きになってしまったのだろう。

 そしてどうしてこの足は、逆らわずに縦向きの位置へと向かっていくのだろう。


「っ……、ヤぁああ――――――――――――ッ!」


 叫び、振り上げる。意識が朦朧と、白く染まっていった。




 × × ×




 ずっと頭から離れない。

 剣を振ることさえできなかった、錬成会での乾吹雪との試合が。


『面あり!』

『くっ……』


 自分が弱いことも、きっと簡単に負けてしまうことも、本当は分かっていた。

 けれど、たったひとつの誤算だけが、今でも頭から離れない。


『二本目!』


 だんっ、と飛び込まれて、もう一度頭を割られるのだけはと必死に両腕で竹刀を上げる。

 その瞬間、氷漬けになったように身体が固まった。視線の彼方で、宝石が二つ瞬く。


『ッ、たァ――――――――――――――やアアぁっ!』


 氷を叩き割るような一閃が胴をさらうと、烈火の吹雪が隣を吹き抜けていく。

 その背中を追うことができずに、ただ、ぼうっと見つめていた。

 残心を取って、雪の剣姫が髪を揺らしてふわりと振り返る。

 白い、ため息が出て。心はそのとき負けを認めた。


『きれい、だ――』


 分かってしまった。

 初めて彼女を見た悠が、その言葉を漏らしたわけを。

 なりたい自分がそこにいて。

 白く美しく抜けていく彼女の轍に、誰にも見せない壮絶な血の跡が見えてしまったから。


『胴あり!』


 凜と構える彼女との間に広がる距離が、ただ遠い。その目が自分を見ていない。

 別にそれは、今はいい。

 でもいつか、その目の先にいる人が、彼女だけを見てしまったら。


『逃がさないぞ、史織』


 胴をさらうみたいに、あの人をさらわれてしまったら。


「……ぃや、……だ……っ」


 それだけは、何があっても堪えられない。

 厳しいのより、しんどいのより、その方が何倍も何十倍も何百倍も嫌だ。


「はっ……、っ、はっ……う、」


 乾吹雪に、負けたくない。置いて行かれたくない。


「頑張れ、史織! ラスト一本だ!」

「っ……!」


 この人だけは、絶対誰にも譲りたくない。

 だから史織は、たとえふらふらでも頭上に剣を掲げる。


「ッ……ヤぁああ――――――――――――ッ!」


 今は吹雪の美しさに程遠くても、いつか絶対、全部手にして見せてやる――。


「めぇぇ―――――――――――んっ!」


 最後の力を振り絞り、史織は悠に向かって全体重で倒れ込むように掲げた竹刀を振り下ろす。ずばぁん、といい音がした。

 ――もうだめ。おわった。抜けられない。

 ぷつりと糸の切れた音がする。残心を取れず、悠の隣で床に倒れ込もうとした、そのとき。




「よーし! 終わり!」 




 ぎゅっ、と。

 竹刀を持ったまま、抜けられない身体を悠が両腕で強く支えてくれた。

 まるで抱きしめるように。

 息も絶え絶えな自分の背を、籠手を着けた手でぽんぽんとさすってくれる。


「偉いぞ。よく頑張ったな!」


 もう力が入らない。心臓がどんどんうるさくなっていく。涙が出そう。

 至近距離に広がる悠の笑顔に、身体がとけてしまいそうだった。


「ごめんないじめて。お前頑張るから、何か、かわいくて」

「……ぅ」


 ――ずるすぎ。最後だけ優しくして。こんなの、絶対落ちるに決まってる。

 かわいいなんて、初めてちゃんと言われた。ていうか抱きしめてくれるなんてもうこれは終わったのでは。ゲームセットなのでは。人生勝ったのでは。

 史織の目が、至福でうるうる潤む。

 ああ、もう恥ずかしいとかはしたないとか知らない。すき。もっと抱きしめて。なんならこのまま抱いて。私を離さないで――。

 愛は祈りだ。史織は祈る。


「おっ、やるかー?」

「……は、い?」


 しかし、残念ながらそんな祈りの電波は、剣道星人たちには届かない。

 ぎぎぎと最後の力で首を後ろに向けると、面を着けた千紘が竹刀を持った左手をはーいと上げ、にっこにこ笑っていた。


「やるやる! うちも! うちもやる!」

「よーし。ちっひはほんとドMだな。いいぞ、地獄見せてやる! ……あ、纏さーん」


 悠が片腕を離して、右腕一本で身体を支えてくる。

 そして何事かと首を傾げて歩いてきた纏がこの場に辿り着いた瞬間、




「どけといて。もう終わったし」




 ずぶりと言葉でとどめを刺してから、ゴミでも捨てるようにほいっと片腕で投げてきた。

 抗いようもなく、纏の腕の中で灰になって死ぬ。


「……ぅ。……うううー!」

「あんた、なんであんな人でなしがいいの……」

「知りませんよおおおおお!」




「ちっひは経験者だから倍。十二本! もちろんタテだぞ!」

「ええー!? 無理無理死んでまうって! まあやるけどな!」

「よっしゃよく言ったぁ、こーいっ!」

「行くでぇええ――――――ったぁアアあああ!」




 ずばん! どーん! という音を鳴らしてじゃれ始めた二人の濃厚な絡みを、史織はねっとり目の前で見せつけられる。


「ほらほらちっひ、遅い遅ーい! 寝てまうでー!」

「あっはっは、打ってくんなや! 元立ちやろぉ――っしゃああ!」


 悠が、さっきより全然楽しそう。心がぐらぐらとした。


「ああ、あああ……」


 隣に座る纏の介抱で面は外してもらえたが、足腰は依然と立たない。

 床にへたり込みながら、史織は届かない手をふたりに伸ばした。


「おっ、おかしい……。今、私、ぎゅって……。先輩が、ぎゅって!」

「無駄よ剣道中なんだから。あんた絶対、何とも思われてないわよ」

「でっ、でも! 私女の子ですよ!? あれ……私、綺麗? 私、ちゃんと綺麗ですよね!?」

「ポマードポマードポマード」

「誰が口裂け女ですかっ!」


 叫ぶ自分をいさめるように、纏はゆっくりと首を振って両肩に手を置く。

 彼女は脇目に江坂を捉えてから、しみじみ言った。


「世の中にはね。綺麗とかかわいいが通じない相手ってのがいんのよ……」


 その美貌を蔭らせるくすんだ笑みから、不思議と介護疲れの老婆を想起した。


「はぁい頑張れ頑張れ! ラスト一本!」


 はぁはぁと肩で息をしながら、千紘は最後に思いっきり悠に向かって飛び込む。


「っ……、めェ―――――――――ええええんっ!」


 そうしたら。

 ぎゅっと。

 ぎゅうっと! 両腕で! 胸に!




「よし、よく頑張った! 偉い! ちっひえらい!」

「あは……、せやろー。ゆーくん、もーむり、ぎゅってしてぇ……」

「ははっ、こら自分から抱きついてくんなウザい! あつい! 離れろ!」

「あっはっは、イヤー。いけずせんとってー!」




 力がなくなったはずなのに、手元にあった竹刀を握るとみしりと軋んだ。

 黒い感情が胸に満ち満ちていく。


「いつもいつも、近いんだよぉ……! 乾なんかより、よっぽどっ……!」

「まあ千紘はね。で、これで分かったでしょ」


 纏は立ち上がり、嘲るような笑みでこちらを見下ろしてくる。


「あんた捨てられたのよ。やったらおしまいなの」

「……いや」

「あいつは誰でも簡単に抱くの」

「……嫌っ。やめて」

「まったく惨めねえ! 消費される女って!」

「嫌ぁ―――――っ! やめて! 聞きたくない!」


 両耳を押さえ、女王のように高笑いする纏を恨めしく涙目で見上げていると、その後ろでぬっと大きな影が立ち上がった。

 江坂だ。しかも、なぜだか面を着けている。


「おい水上。なぜ面を外そうとしている?」

「えっ?」

「お前まさか女子たちにやらせておいて、自分だけ逃げられるとでも思っていたのか?」

「……んなわけないでしょ。やるに決まってんじゃん!」


 帰ってきて面を外した千紘を支えていたから見えなかったが、きっとふたりとも面の中でにやりと笑っているだろう。


「よし。じゃあ俺は……二十四本だ!」

「ははは、馬鹿め。無論タテだぞ!」

「分かってらぁ――――――――殺ャあああああありゃあああァッ!」


 掛け声と共に道場に降り注ぎ始めた二十四個の隕石を、ガールズ三人で正座して冷たい目線で見守った。


「アホや」

「馬鹿の倍々ゲームね」

「今日イチ楽しそうなんですけど」


 しばし見守っていると、流石にあの化物でも二十四本とかトチ狂った数は厳しいよ

うで。

 あの美しい軌道も徐々にふらふらになっていき、肩で息をしていてしんどそうだった。

 そして。




「よし来い、ラストッ!」

「っ……、めェ―――――――――ええええんっ!」




 あっ、と三人同時に声が出た。

 またまたぎゅっとやり始めたのだ。男同士で。


「よし、よくやった! まさか本当にやりきるとはな。大した奴だ!」

「も、もう無理……。抱いて、部長好き、好き……」

「はははっ、やめろ汗臭い。抱きつくな!」

「嫌やあ。いけずせんとってえー!」




 謎の敗北感に貫かれて、史織は両手で心臓を押さえた。


「なにこれ、なんなのこの気持ちは……」

「ラブラブやなあー。でも、ぶちょーがあんなんやるんは珍しい!」


 そういえば確かに、江坂はこういう理不尽なしごきをやらない人間だ。

 従って、人を抱きしめる機会がほぼない。

 史織は、誰でも抱いたりしない男の奥さんの顔をちらりと盗み見る。


「水上ぃ……。あの剣道ビッチがぁ……ッ」


 阿修羅ガールと成り果てていた。


「………………あたしだって、まだっ……」


 袴を握りしめてぼそっと彼女がこぼした言葉に、顔がにやにやしていくのが分かる。

 ぽんっと肩を叩いた。


「いやあ。やっぱり好きな人しか抱きませんよねー、普通」

「……るさい」

「まったく惨めですねえ! 売れ残っちゃう女の子って!」

「……う、る、さ、い」


 なぜかすすすっと離れていく千紘を無視して、史織は目を瞑って両腕を広げた。


「ほらほら、抱いてあげましょうか? 可哀想ですもんねー、先輩♪」

「……ええ、寂しいの。抱いてくれるかしら?」


 胸に飛び込んできた纏が、剣道部のありあまるパワーを全力で発揮して身体を締め上げてきた。骨がみりみりと軋んでいく。


「あああああああああっ! 痛いいだい、いだいぃ―――――!?」

「せやからなんで煽んねん、アホやなぁ……」

「だって! そこに隙があるからぁあああああ!? いだいいだいっ死ぬぅ――――!?」

「ほぉら離さないわよ好きなんでしょ、激しくしてあげるッ!」


 誰か助けてと向こうを見ると、江坂と悠はにやにや笑って、腕を組んでいるだけだった。

 もう、ふたりが何を喋っているのかも骨の軋む音で聞こえない。


「仲いいですねー、女子は」

「だなあ。それにしても、みんな深瀬をいじめるよな」

「……だって、かわいいですもん。いじめたくなりません?」

「はは、まあ分かる。俺もなんだか、あいつには打ってしまうよ」

「魔性の女ですからね」


 悠が、笑って手を振ってくる。


「絶対、上手くなりますよ。吹雪にだって負けるもんか」


 そのまま目も、おそらく心も離して、悠は背中を向けて去って行く。

 激痛の中、史織は悠の方へと手を伸ばし激しく求めた。




「ああっ、先輩待って! 離して! 私を離さないでぇ―――――――!?」




 最後の最後に出てきた素直な気持ちは、声に出しても一本にならなかった。

 もっと強くなりたい。とりあえずまた明日も、この練習をやらせてもらおう。

 他意なんて、もちろんない。

 ところでもし十二本打てるようになったら、抱きしめてくれる時間は倍になるのかな。

 それだけが、今は気になる。

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